2-11. 帰還、報告、再起
夜明け。星々の街区はまだ深い霧の中に沈んでいた。
夜露を吸った石畳は鈍く光り、空はまだ陽を知らぬ灰色を帯びている。その霧を押し分けるようにして、一人の男がヴァルシェ家の屋敷の門へと歩み寄る。
カイウスだった。
肩で息をし、片足を引きずるように進む姿はどこか痛々しい。裂けた袖の下に覗く腕には幾筋もの傷痕。斬撃と擦過傷が無惨に皮膚を走っている。
その足音が湿った砂利を踏みしめ、門番の耳に届いた。
「カ、カイウス様……!? そのお姿は、いったい――!」
夜番の門兵が声を上げ、異様な気配に奥からもう一人の衛兵が駆け寄る。
「しょ、少々お待ち下さい! ご主人様にすぐお伝えを――!」
「いや……緊急の用だ。先に通して欲しい」
掠れた低音が空気を裂いた。衛兵たちは息を呑み、顔を見合わせる。
扉が開かれると、カイウスはゆっくりと白壁の屋敷へと続く石畳を進んだ。
そのとき――正面の大扉が勢いよく開かれた。
「カイウス様!」
霧を割るように、金糸の髪と純白のヴィーザが光を返す。絹のナイトローブのまま、セラフィーナが裾をたくし上げ、裸足で駆け寄ってきた。
その姿を見て、カイウスは息を吐く。
――無傷だ。
魔術師の襲撃は、少なくともここまでは及んでいない。安堵が胸をよぎる一方、脚の力はすでに尽きており、彼は花壇の縁石に腰を下ろした。
「その傷……! やはり、罠だったのですね……」
「ああ。完全に待ち伏せされていた。もう、相手もなりふり構ってきていない」
セラフィーナの顔が蒼ざめる。
背後では、執事セバスが薬箱を手に静かに控えていた。
「そ、その……リア様は……?」
その問いに、カイウスは小さく首を振る。
「重傷で動けない。ただ、命は助かった。今は信頼できる仲間のもとで安静にしている。……とにかく、まずはアンタが無事で良かった」
セラフィーナの瞳が大きく揺れた。胸元へ手を当てると、ぎゅっと息を詰めた。
「……わたくしが、愚かでした。焦り、判断を誤り、あんな不確かな情報に飛びついたばかりに……結果として、カイウス様とリア様を死地に追いやってしまった。為政者として失格です……」
唇が震える。涙は溢れない。
ただ、睫毛の奥に熱い雫が留まりつづけていた。カイウスは静かに言葉を返す。
「……リアは、アンタの理想を信じてた。だから自分の意志で力を貸して、戦ったんだ。深手は負ったが、後悔はしていない筈だ。もちろん、俺も同じだ」
少し間を置き、低く続けた。
「それに、収穫が無かった訳じゃない。刺客三人を消した奴――恐らく敵の切り札だ、ソイツと遭遇した。向こうの手の内を知れたのは大きい。……俺は、ただの傭兵だ。情報は取れるが、大きな勝ち絵は描けない。ここからは、アンタの仕事だ。そうだろう?」
言葉に、セラフィーナははっとして息を呑んだ。
胸元で震えていた手が、そっと握られる。瞳の奥に、ようやく一筋の光が差し込んだ。
「……ありがとうございます、カイウス様。ええ……わたくしには、迷っている余裕などなかったはずですね」
ひとつ深く息を吸うと、彼女は静かに背筋を伸ばす。
「ご報告をお願い致します、カイウス様。バルコ港湾の旧倉庫で何が起きたのですか?」
「あぁ。魔術師に襲われた。風を操る男だ。旧倉庫街一帯のほとんどを吹き飛ばしやがった」
「……!」
目を見開くセラフィーナ。すぐ背後でセバスも眉を顰める。
「ま、魔術師……? た、単騎で戦局を大きく覆すとされる、あの……?」
その瞬間、セラフィーナの膝が弱々しく折れた。セバスが即座に支える。
「まさか……魔法都市リュミエールが王都に与したとでも言うのでしょうか……?」
「……悪いが、その“リュミエール”ってのはよく知らない。ただ、あの男は単独で動いていた。都市規模でナヴィレザを攻めてきてる気配はない」
「ですが、もしその魔術師がリュミエールの先遣隊だとすれば、これから中隊規模が投入される可能性もございます」
淡々と告げるセバスの声に、重い沈黙が落ちた。
「魔術師の一個中隊……それが来れば、ナヴィレザは……」
言葉の続きを誰も言わない。セラフィーナの肩が震えた。
――彼女はこの街の象徴だ。誇りも、自由も、民の命も、その華奢な肩に背負っている。その重さは、想像を絶するものだろう。民の命を、仲間の命を、その掌に抱えながら進まねばならない。そのただでさえ無謀な戦いに今、絶望的な一手が加えられたのだ。
――それでも、俺はここにいる。リアも同じだ。
カイウスはそう口を開きかけて、ふと止めた。
セラフィーナの顔が、静かに俯いたからだ。長い睫毛の影が頬に落ちる。
それは、決意を押し殺す人間の顔だった。カイウスは何も言わず、ただ次の言葉を見守った。
次の瞬間、セラフィーナは一歩前へ出る。痛みを宿した目のまま、まっすぐにカイウスを見上げた。
「……カイウス様。昨日の今日で恐縮ですが……状況があまりに変わりすぎました。もうこれ以上、カイウス様やリア様を危険に晒せません。主従契約は、ここで破棄を――」
その声は凛としていたが、どこか泣き声にも似ていた。
仲間を守るための、精一杯の決断。だが、カイウスは即座に息を吸い込んだ。
「……ふざけるなよ」
――迷いのない一喝。その響きに、霧が一瞬揺らぐ。
「……俺とリアは、アンタのナヴィレザへの直向きな信念に惚れこんだから賛同した。力になりたいと心から思ったんだ。だから剣を抜いた。敗戦濃厚になった途端投げ出すほど、軽い覚悟じゃないんだよ」
セラフィーナは目を見開いた。震える声で問いかける。
「……ど、どうして……そこまで……」
「俺達が逃げても、アンタはきっと一人で最期まで戦うだろ? 俺は、……俺とリアは、そういう奴を見捨てられないだけだ。見かけによらず、結構義理は堅い方なんだよ」
セラフィーナは言葉を失う。静寂の中で、セバスが一歩進み出た。
「お嬢様。カイウス様の仰る通りで御座います。どうかご自分を疑いませぬように。カイウス様だけではございません。我々ヴァルシェの使用人一同、お嬢様の思い描く未来に惹かれ、集った者たちです。このヴァルシェ家を支える市民も、衛兵も、我ら執事も……皆、お嬢様をお慕い申しております。誰一人として、お嬢様を独りには致しません」
「セバス……」
その言葉に、セラフィーナの胸が熱くなる。心の奥で、何かがほどけた気がした。信じてきたものが独りよがりではなかった――初めて、そう実感できた。
「……わたくしは……」
呟くような声が漏れる。
感謝ともつかぬ感情が胸の奥を押し上げてくる。
そっと目を閉じ、呼吸を整える。再び開いた瞳には、もはや迷いの影はない。自身への誇りと、進むべき道への覚悟だった。
セラフィーナは静かな所作で、ナイトローブの裾を揃える。背筋を伸ばすその姿は、ヴァルシェ家の当主としての毅然たる気品に満ちていた。
セラフィーナがまっすぐにカイウスを見据える。
「……少し、お見苦しいところをお見せしましたね」
澄んだ声が、朝の霧に透き通る。その声に、もう揺らぎはなかった。
「さあ、応接間へ参りましょう、カイウス様。今後の戦略についてお話し致しますわ。セバス、カイウス様に肩を貸して差し上げて」
セバスは黙って胸に手を当て、深く頭を垂れた。
それは、主人への忠誠と誇りの証。いつもは感情を見せない口元が、少し緩んでいた。
「……随分立ち直りが早いんだな、"お姫様"」
セバスに支えられながら、カイウスが茶化す。
「ええ。わたくしには、優秀な“杖”がございますので」
セラフィーナの微笑みが、朝霧の中で眩い光を宿していた。




