2-9. 暴風域②
足が、動かなかった。
閃風が石を砕き、建物を裂き、景色そのものを削っていく。その只中で、カイウスは壁際の影に身を縮めたまま、剣の柄を握り締めていた。手の震えは止まらない。喉の渇きも、荒い呼吸も、どうにもならなかった。
焼け付くような記憶が、胸の奥で激しく暴れ出す。
焼けた血の臭い。業火の中で崩れ落ちていった、かつての仲間たち。あの日の魔術師は笑っていた。剣を抜く間すら与えず、戦場の真ん中でただ一人、命を遊んでいた。
今、目の前にいる男が、あの日と重なる。逃げろ、と理性が囁く。敵わない相手に向かうのは、ただの死だ、と。
その声は、ひどく冷静で、ひどく正しかった。
衝撃が、走った。
爆風に押し流された影が、目の前の瓦礫に叩きつけられる。土埃の中から、ゆっくりと形が現れた。
リアだった。脇腹に血が滲んでいる。それでも彼女は膝をつかなかった。口元を引き締め、拳を握り直し、ただまっすぐに敵を見据えていた。
やがてその視線がこちらへ向いた。カイウスを見つけた瞬間、驚きと安堵が同時に瞳に宿る。余裕などないはずなのに。血を流しながら、それでもその目は「やっと見つけた」と言っていた。
リアの唇が、ゆっくりと動く。そして名残惜しげに視線を戻すと、再び駆け出していった。音を奪われた空間。だが、唇の形だけは、はっきりと読めた。
(しんじてます)
何を、とは聞かずともわかった。
恐怖が消えたわけではない。ただ、それより大きなものが胸の中を占めた。あの赤い瞳を裏切ってはいけない。誰に教えられたわけでもない。ただ、心からそう思った。
(……そうだ。敵う、敵わないは問題じゃない)
剣を抜く理由は、「勝てるから」ではない。「抜かなければならない」からだ。ここでこの魔術師を止めなければ、リアもセラフィーナも、無惨に殺される。ナヴィレザの誇りは踏み躙られ、多くの人々の尊厳が、なす術なく壊される。
十分だ。恐怖はある。あの日の記憶も、色褪せはしない。だが、それでも。
今、この瞬間。自分は立ち上がらなければならないのだ。
剣の柄を、そっと握り直す。手の震えは止まらない。それでも、今なら握れる気がした。
鞘から刃が離れる。 微かに金属が擦れる音がした――気がした。音を奪われた空間。きっと錯覚にすぎない。けれど、カイウスの心の在り方を確かに変えていた。
瓦礫の陰から立ち上がる。吹き荒ぶ風の中、カイウスの姿が現れる。重心が移り、爪先が地を掴む。粉塵を踏み散らし、一直線に風の魔術師へと迫ってゆく。
音のない戦場に、揺るぎなき一振りの剣が還ってきた。
***
屋根の上から、ゲイル・ヴェロキスは眼下を見下ろしていた。
赤髪の女が棟木を振り回し、風刃を次々と弾き飛ばしている。その動きに、ゲイルは眉をひそめ続けていた。
魔力による肉体強化。初めは、そう考えていた。徒手空拳で空へ不自由なく跳躍し、風刃を視認し、躱し、砕くなど、生身の人間の所業ではあり得ない――だが。
(……妙だ)
術式の痕跡も、魔力の残滓も、発動媒体も、何一つ見当たらない。宙に魔法陣を一から描写する"空描式"なら、石板を用いず術式の展開は可能だ。だが、あれほど緻密な制御を行える者が、ただ拳を振るうだけの、愚直な肉体戦を選ぶとは考えにくい。
そして何より不可解なのは。この虚音界を破ろうともせず、風に肌を裂かれながらも、なお前に出る、その姿勢だ。
(まさか……魔力を一切使わずに――)
「生まれついた力だけで、あの動きをしているのか?」
あり得ない。そんな事、あってはならない。だが、いまこの女がそれをやってのけているというのなら。
額に汗が浮かぶ。ゲイルは石板へ魔力を流し、風刃を三条、同時に放った。しかし赤髪は瓦礫を蹴り上げ、それをすべて相殺した。魔力の気配は、やはりない。
(……魔力も持たぬ身で、風を穿つか)
「なんと忌々しき風だ……」
だが、焦る必要はない。力任せの戦い方は、必ず疲弊する。牽制を続ければ、いずれこの赤髪は瓦解する。
そう確信した、その瞬間だった。
粉塵の裂け目から、黒い影が飛び込んでくる。赤髪に意識を割いていたわずかな隙を、正確に突いた突撃。黒髪の剣士が、音もなく剣を振り上げていた。
「浅はかッ!」
即座に風翔術を展開。足元に高圧の風を噴き、横へと躱す――はずだった。
剣が、追ってくる。風翔術の移動先を、先読みするように。まるで風の道筋そのものが、見えているかのように。
「ッ……こいつ、我が風道を読んでいるのか?」
信じがたかった。魔力を持たぬ剣士が、風の軌道を見切り、次の一手を予測してくる。それでも事実として、どれだけ動いても距離が詰まり続ける。
背筋が冷えた。
風刃は赤髪の牽制に全て割いている。緩めれば一瞬で射程に入られるだろう。かといって黒髪を野放しにすれば、接近戦の間合いに引き込まれる。風翔術があっても、不利なのは明確だ。
しかも、この男の剣は、恐ろしく正確だった。軌道に迷いがない。剣の道を知らぬゲイルでも、それは感じ取れた。
剣が振り下ろされる。頸か、心臓か。
――刹那、軌道が変わった。意図的に。確信を持って。刃の先が向かったのは、ゲイルの腰の石板だった。
(……ッ!)
身を引く。刃が石板を掠め、火花が散った。
「石板を、狙ったのか?」
理解が、一気に追いついた。
この男は、魔術師の弱点を知っている。石板が砕ければ術式は崩れ、最悪、暴発する。そして今の一撃は偶然ではない。“殺す”のではなく、“術を奪う”ための一撃だった。
(……殺すつもりすらないのか。まるで格上が、格下を捕らえるように)
胸の奥で何かが爆ぜた。フードの奥で、銀髪が逆立つ。
「この……ッ、雑種が……! よくも……! この、"僕"を……!!」
言葉にならない怒号が漏れ出す。喉が灼けるように熱い。
叫びながら、風翔術の術式を最大展開。風の渦が螺旋を描き、身体を天へと引き上げる。その間にも腰の石板が明滅しながら、魔力を集積していく。
「そんなに見たければ、見せてやるよ! 貴様ら雑種が、天才魔術師である僕に歯向かう、その代償の大きさをなぁぁあ!!」
三白眼が妖しく光り、口元が歪む。
術式の展開が始まる。掌に空気が集束し、目に見えぬ速度で旋回すると、点のような圧縮球を形成した。それは、風刃の練度を高める過程で辿り着いた亜種――否、別系統にして、上位の破壊魔術。
風刃は、周囲の空気を超圧縮し、前方方向へ放出する。だがこの術は、その「圧縮」の工程を、三重、五重、十重に積み上げた先にある。層に層を重ねるように、限界を超えてなお、圧縮する。一瞬の魔力のブレが術者の手を吹き飛ばす、狂気の域の精密制御。それを可能にするのがゲイルだった。風圧の制御において、彼の右に出る者はいなかった。
圧力が臨界点に達する。
「弾け飛べ――空創波!!!」
暴風の核が、地上に向けて放たれた。
***
(くそっ! あと一歩、届かなかったか!)
宙へ舞い上がる魔術師を見上げながら、カイウスは唇を噛んだ。男の掌に、何かが収束し始めている。空気ではない。空間そのものが歪んでいる。周囲の風を吸い込み、一点へと凝縮していく核。
(……な、なんだあれ?)
掌が、振り下ろされた。
――まず、地面が割れた。
その一点から全てが始まった。衝撃波が同心円状に広がり、触れるものすべてを内側から砕く。カイウスの身体が宙を舞い、瓦礫に叩きつけられる。肺が潰れ、空気が出て行ったまま戻らない。喉から何かが込み上げ、膝をついたまま嘔吐した。
それでも、敵から目は逸らさまいと、辛うじて魔術師を視界に捉え続けた。爆裂の中心にいたはずの魔術師は、なおも空に浮いている。乱れもせず、悠然と。
膝が笑う。指先の感覚が遠い。石板が、また光り始めた。次が来る。もう、逃げられない。
(……ここまで、か)
覚悟が脳裏をよぎった――その刹那。紅い影が視界に飛び込んできた。
リアだった。
血にまみれながら、風の奔流を突き破って。そのままカイウスに覆いかぶさり、赤髪の向こうから魔術師を睨みつける。それからゆっくりと、カイウスへ振り向いた。
彼女は、笑っていた。血の滲む唇で。震える腕で。声も出せないまま。それでも、その赤い目が言っていた。
(だいじょうぶです、カイウスさん。わたしが、守ります)
カイウスは一瞬呆然として――思わず歯を噛み締めた。
違う。守るのは、俺の方だ。あの旅立ちの日、リアは迷わず自分の隣に来てくれた。なのに今、こんなにも痛々しい姿にさせている。これで良いはずがなかった。
剣はまだある。身体はまだ動く。まだ、何も終わっていない。
リアの肩に手を添える。小さく首を横に振ると、優しく押し返した。
リアが手を伸ばす。だが、もう力が残っていない。その腕は空を切り、地に落ちた。声なき叫びが唇から漏れ、目尻には涙が光る。それでも音のない世界では、何も届かなかった。
カイウスは立ち上がった。震える膝で。軋む背骨で。リアを庇うように、前へ。
(せめて、一撃だけでも……!)
最後の力を振り絞って剣を振りかぶると、投げ放った。銀の軌跡が空を裂く。
だが、届かなかった。刃は力尽き、魔術師の足元に突き刺さった。石板が光る。風の脈動が始まる。
(……せめて、一瞬で終わらせてくれよ)
世界が風に飲まれようとした、その瞬間だった。
雨が、降り始めた。
一雫がカイウスの頬に触れる。ぱらぱらと、乾いた大地へ落ちていく。偶然の通り雨、だったのかもしれない。だがそれは、この戦場の命運を変えた。
石板の光が乱れ始める。魔術師が手のひらを見つめ、眉をひそめた。
(……? 風が……乱れている?)
カイウスもまた、その異変を感じ取る。
風の唸りが……聞こえる。しとしとと降り注ぐ雨音が、聞こえる。水が崩れた瓦礫を打つ音が、聞こえる。そして――誰かが、自分の名を呼ぶ声も。
「カ……ちゃ……イウ……にい……!」
歪んだ世界を破るように、ついにその声は届いた。
「カイウスお兄ちゃん!!」
はっとして振り返る。崩れた床の奥。鉄格子の排水口から、小さな顔がこちらを覗いていた。
泥にまみれた金髪。骨のように細い腕。ボロ布のようなヴィーザ。その顔は昨日、ヴェルディ広場で見かけた――。
「……お前、ルカか……?」
「そうだよ! ルカ・リーヴァだよ!! 早く来て! 地下への抜け道があるんだ! この道は、僕しか知らない!」
凍りついていた思考が動き出す。足元で身じろぐリアの目にも、微かに光が戻っていた。
「……立てるか、リア……!」
小さく頷く。カイウスは彼女の肩を支えながら、排水口へと向かう。崩れた瓦礫を踏み越え、その入り口へと辿り着いた。
「お兄ちゃん急いで! あ、あの人、また何かしてくるつもりだ!!」
ルカの叫びと同時に、大気が震えた。背後から迫る、斬撃の前兆。
「先に行け、リア!」
「で、でも……!」
「俺もすぐ行く! 早く!」
リアが苦悶の表情で排水口に身を投じ、ルカが引き入れる。続いてカイウスも身を屈め滑り込んだ。
――ズドオオォォン!
直後、背があった空間を斬風が裂いた。周囲の廃屋が崩れ、土砂と瓦礫が排水口を塞ぐ。
光が閉ざされる。世界を叩く雨音だけが、辺りに響いていた。
***
「……フン。取り逃した、か」
静まり返った瓦礫の空。ゲイルは一人漂っていた。
「鬱陶しい雨も降ってきた。潮時だな」
マクシミルの前で見せた過剰な芝居がかった口調は、どこにもない。十六歳の複雑な素顔がのぞく、ぶっきらぼうな声だった。
黒雲を仰ぎ、しばらく考える。標的はヴァルシェ家の老執事、セバス。囮に釣り出して、風で消す。それだけの簡単な仕事のはず――だった。だが現れたのは、想定外の二人。しかも予想をはるかに超えるしぶとさを見せて来た。
殺しても殺しきれぬ、終わりのない狩りのような昂ぶりに、気づけば心も沸き立っていた。唇の端を歯で噛み笑みをこぼすと、ゲイルは空へと舞い上がる。
「近くまた会うことになるだろう。次こそは確実に、害虫のように駆除してやるからな。それまでくたばるなよ――"黒風"と、"赤風"」
言い捨てると、彼の姿は風と共に掻き消えた。
残されたのは、雨打たれる廃墟だけ。誰もいない瓦礫の海が、しとしとと濡れていく。




