2-7. 暴風域①
陽はすでに沈み、空は群青から濃墨色へと変わりつつあった。
バルコ港湾区。その外れに広がる旧倉庫街では、朽ちかけた木材と錆びた鉄が潮風に軋みを上げ、人気の消えた石畳の上に、黒々とした倉庫の影が伸びていた。
夜が深まりゆく空の下。カイウスとリアは廃倉庫の裏手にひっそりと身を潜めていた。
波止場に面した古びた桟橋――そこが、王都の密偵とドランベルグ家の使者が接触するとされる場所だった。
だが、今のところその兆しはない。
「……誰も来ないですね」
小声でリアが呟いた。カイウスの肩越しにわずかに上げた視線には、夜の暗さよりも、張り込みに不慣れな戸惑いが浮かんでいた。
「まだ日入りして間もないからな。警戒しながら、辛抱強く待とうな」
カイウスは低く返す。声を潜めながらも、その目は周囲の物陰を絶えず確認していた。
「……いつ来るか分からない相手を張り込むのって、思った以上にしんどいですね。じっと待つの、わたしちょっと苦手かも知れません」
言いながらリアは目線を夜の海へと移す。思わず口を出た退屈混じりのため息は、夜の潮風にかき消されていった。
「……それにしても、なんでわざわざ港なんでしょうか? 密会なんて、どこでも出来そうな気がしますけど」
ぼそりと呟いたリアに、カイウスは目を巡らせながら答える。
「この時間帯は漁に出る船もほとんどないし、交易船の出入りもまばらだ。船が動かなければ、港の監視も緩む。誰が出入りしても気付かない」
「つまり……目立たずに人と会うには、うってつけってことですか?」
「ああ。それに、港湾の倉庫区は構造も複雑で影も多い。多少の荷を運んでも不自然じゃないから、密会に限らず、秘密裏に何かするにはもってこいの場所なんだよ」
「なるほど……」
リアは感心したように頷く。
「カイウスさんって、こういうのやけに詳しいですよね」
「まぁ、傭兵稼業は地の利を読むのが仕事みたいなもんだからな。嫌でも覚えるさ」
「ふふっ……最初に森で会ったときは、ぜんぜん知らなかったです。こんなに頭を使う人だなんて」
「……それ、褒めてるよな?」
「もちろん。ちょっとだけ、ですけど」
冗談めかして笑うリアに、カイウスも肩の力をほんの少しだけ抜いた。だが、警戒の意識はけっして緩めない。波の音、潮の匂い、夜の湿り――その全てを、彼は情報として捉えている。
「……頑張りましょうね、わたしたち」
「……ああ。ナヴィレザのために一人戦ってる、"お姫様"のためにもな」
その言葉にリアは微かに口元を引き結ぶ。
――その時だった。
夜の港町を吹き抜けるはずの海風が、唐突に途切れた。
いや、正確には"止まった様に錯覚した"。
肌にはたしかに風が触れている。だが――耳が、それを認識していない。
風の音が、ない。
波のさざめきも、ない。
倉庫の軋む音も、遠くの猫の鳴き声すらも、何一つ、耳に届かない。
隣に立つリアの息遣いすらも、消えていた。
静けさではない。“無音”でさえない。
まるでこの世界から「音」という概念だけが消し飛んだ様な、異様な沈黙。
カイウスの全身が硬直する。
喉が音を発しても、ただ空気に溶けるだけ――自分の声さえ、自分の耳に届かない。
(……ッ! リア!)
カイウスは顔を向けてリアに叫ぶ。やはり、音はなかった。
リアも驚いた様子で何かを言おうとしている。必死に唇を動かすが、その言葉も衣擦れも、やはり一切の音がしない。
――得体の知れない、何かを仕掛けられている。
カイウスは指で耳を指し、リアに向かって頷く。
リアは一瞬戸惑ったものの、それが「音が聞こえない」という意思表示だと理解し、すぐに頷き返した。
今この空間で交わせるものは、目線と、身振り。それだけだった。
カイウスの視線が、鋭く周囲を掃く。警戒はすでに、戦場でのそれに達していた。
その時――
視界の端で、何かが揺らめいた。
右斜め上、倉庫の屋根。
夜の闇が、不自然に撓んだ。
まるで空間にねじれが走ったように、背景が歪む。
――何かが“通る”。
その直前の兆しを、本能が察知していた。
肉体が叫ぶ。――"跳べ"。
カイウスは即座に身を引いた。
直後、強風と共に石畳が“裂けた”。
(――風?!)
音は、ない。ただ視覚が、破壊の事実をありのままに突きつけてくる。
空間そのものを削り取るかのような鋭利さ。
現実離れした“異様な斬撃”。
――あの斬撃だ。脳裏に、地下牢の光景がありありと甦る。
鉄格子の内側に散乱した三つの遺体――否、肉片。
骨は陶器のように滑らかに断たれ、筋肉にはほつれひとつなく、皮膚すら真っ直ぐに、均一な線で裂かれていた。
躊躇を欠片も感じない、冷酷な殺意。
"その正体を、今、目の前にしている。"
肌が粟立つ。
牢の惨殺死体の様に、自らの肉体が寸分違わぬ形で“分解”される未来が、あまりにも鮮明に想像できてしまった。
カイウスは反射的にリアの腕を引き、倉庫の壁際に積まれた荷箱の陰へ身を滑らせる。二人背中合わせになると、周囲を警戒する。
異様な静寂のなか、異常な斬撃が飛んでくる。そう考えるだけで恐怖だった。
ふと、リアがカイウスの肩を叩く。指先はかすかに震えていた。
彼女が指さした先――屋根の上に、黒い人影が、"浮いていた"。
全身を覆う漆黒のローブ。
深く被ったフードの奥、幼さを残す輪郭は月明かりに溶け、闇と一体化している。
細身の身体は風に揺れる様に頼りなく、それでいて不気味な程しなやかだった。覗いた銀髪が冷たく光を裂き、三白眼がぎらりと細まる――まさしく、狩人の目だ。
ローブの裾がふわりと翻り、月光が男の腰に吊るされた石板を照らす。幾何学模様が象徴的な紋が、淡い緑色に発光していた。
突如、カイウスの中で苦い戦場の記憶が跳ね上がる。
(ッ……魔術師……!)
かつて一度だけ、戦場で遭遇した事がある。その時は、火を操る者だった。
敵陣に一人立ち、味方の戦列を――まるで昼食の準備でもするように、“火入れ”していった。仲間の傭兵は武器ごと燃え、焦げ崩れた。みな、叫ぶ暇すらなく焼死した。
後列に控えていたカイウスは辛くも生還できたが――あれは、「敗北」という生易しい言葉では片付けられない喪失だった。
あの日の灼熱が、再び肺を満たす錯覚に陥る。
異様に喉が乾く。いつの間にか口は開き、肩が荒く上下していた。
呼吸が苦しい。胸に手を当て、必死に鎮静化を図る。
その時、視界の端でリアの体が飛び出した。
石畳を穿つほどの踏み込み、そして跳躍。男の目前に迫り、逆巻くように身体を捻り、黒のローブにその拳を叩き込もうとする――
だが、拳は空を切る。
男の姿が不自然に宙に浮き、次の瞬間には遥か後方へと"滑って"いた。
石板が再び、闇夜に閃く。
リアは即座に反応し、直感で身を引いた。屋根から飛び降りると、難なく着地する。
だが――少し、遅かった。
風の刃が、腕を裂いていた。外套を裂いた鮮やかな赤い線が彼女の肌に走る。
リアは痛みに顔をしかめつつも、すぐに物陰へと身を滑らせた。
「……なんと稚拙な風だ。貴様ら、セバスとやらではないな」
ローブの男のぼやきは、当然、音を奪われたカイウスとリアの耳には届かない。
「逆風を押し返す風場だと言うのに……最も猛き暴風は凪らせ、斯様な微風を吹き込むとは。我の風は、草を扇ぐものではないのだが。まぁ、いい。風は寛容だ。吹く場所を選ばず、ただ、気高く――自由に吹く」
男が手を掲げる。腰の石板が再び翠緑の閃光を帯び、今度は――連続的に、点滅を繰り返し始めた。
「いずれにせよ、風は風。よき風圧を期待するぞ。“黒風”と“赤風”」
一拍の間。世界が動いた。
周囲の倉庫が、次々と崩れ始める。
――否。崩壊ではない。無数の風の斬撃が、同時多発的に放たれていたのだ。
屋根が裂け、梁が砕け、壁が縦横に切り裂かれていく。
すべて、無音。
衝撃音も、破壊音も、木の軋みさえもない。あるのは、視覚に突きつけられる“破壊の結果”だけ。
リアは物陰からその光景を見つめ、息を呑んだ。その瞳にはっきりとした恐怖が滲む。
少し離れた影の中で、カイウスが剣に手をかける。だが呼吸は乱れ、その手は微かに震えていた。
――魔術師。
まさに、災害と呼ぶに相応しい存在であった。
***
倉庫が、無惨に切り裂かれる。
石材が継ぎ目から崩れ、宙を舞い、粉塵とともに地へと落ちていく。
そのただ中に、リアは立っていた。
目を見開いたまま息を呑み――動けなかった。
腕には裂傷。服の内側から、じわじわと赤が滲み出す。
視線の端でカイウスを探す。
だが、瓦礫と白煙が視界を曇らせ、はっきりとは捉えられなかった。
――怖い。体の奥が、ひやりと震えている。
世界が裏返ったかのようだ。音を奪われ、見えない刃に肌を裂かれ、そして今。
目の前では石造りの倉庫が、紙細工の様にあっけなく斬り崩されている。
(こんなの、無茶苦茶だよ……! いったいなんなの、この人!)
筋力でも、剣技でもない。
理屈も、対処法も見つからない。
初めて遭遇する存在――もはや、“人”とは思えなかった。
自分の持つ怪力とも、カイウスの緻密な技巧とも次元が違う、全く異なるベクトルの"異常"。
自然そのものを相手にしている様な本能的な恐怖が襲う。
――勝てないかも知れない。
声にすら出せない不安が、足元からじわじわと這い上ってくる。
その時だった。
一陣の風が、崩落する瓦礫の隙間をすり抜けてきた。
わずかに畝る土煙。その揺らぎから、リアは迫る斬撃を察した。
(ッ! だめ、避けきれない!)
咄嗟に構えを取る。考えるより先に、体が動いた。
せめて威力を削ごうと、反射で腕を横薙ぎに振る。
拳に、ぐにゃりと何かが当たる。
――次の瞬間、風の軌道が逸れ、隣に積まれた荷箱を斜めに裂いて吹き飛ばしていった。
(……は、弾いた?)
不可解な手応えに、息を呑む。
そして、ふと思い出す――ノルヴィアの森。ひとりで過ごしていた日々。
山の麓まで食材を探しに出た時、尾根から吹く季節風が、ある谷に差しかかると妙に弱まっていた。ちょうど谷に沿って、風が真横から吹き込んでいた場所。
(……この斬撃が、もし"風”なら……!)
横からの衝撃で、軌道を乱せるかも知れない――
自然の中で体が覚えた知識が、リアの中で繋がった。
再び、目前で土煙が揺れる。
リアは地を蹴り、腰をひねる。読み切った軌道へ鋭いフックを叩き込んだ。
腕に、電流のような痺れ。
――わずかな遅れの後、左右の瓦礫が風圧で吹き飛んだ。
(……やっぱり。軌道され読めれば、弾けるんだ!)
確信が、恐怖をかすかに押しのける。
両手を握りしめ、前を向く。
なおも襲い来る斬撃。けれど、リアはもう怯まなかった。少女の体が振るう打撃が、空間を裂く斬撃すら、次々と弾いてゆく。
風の斬撃が、一瞬、止んだ。
その好機を逃さず、リアは石積みの壁を蹴って跳躍する。
目指すは、屋根の上――そこに立つ、黒衣の魔術師。
(……一撃。たった一撃さえ、入れば!)
確信はある。この腕は、倒壊しかけた祈りの大樹を支え、自分の数倍は有ろうかという体躯の巨狼すら吹き飛ばした。
一度でも、この拳が届けば――
リアは渾身の力をこめ、拳を叩きつける。
だが、当たらない。
ローブの男は蜃気楼のように揺らいで、次の瞬間には、数歩先の屋根の縁に立っていた。
(まただ……! 速すぎる……!)
リアも、速さには相当な自信がある。常人の追随を許さない、並外れた膂力と俊敏さ。
けれど、この男には、それすら通じない。まるで人体の限界を嘲笑うかの様な速さだった。
見えない斬撃もそうだ。この男は、恐らく空気そのものなのだ。理屈は分からないが、そうでも無ければ説明がつかない。
(カイウスさんに相談したい……!)
きっと彼なら、この男の正体を知っている。その力の源も、効率的な対処法も、飄々とした口調で教えてくれるだろう。
けれど、カイウスの姿は粉塵の中に紛れて見えなかった。例え居たとしても、音がないこの空間では言葉さえ交わせない。
リアは空中で身体をひねり、屋根の勾配を転がって着地する。
その刹那、後方で石板が点滅を繰り返した。
風が、斜め上から地を穿つように迫る。
この数は――避けきれない。
そう悟ったリアは、その場に踏みとどまった。
――否。全身の力で地を"打ち抜いた"。
石畳が砕け、反動で瓦礫が宙に舞う。大小の破片が、雨粒のように浮かび上がった。
そしてその一瞬後。リアが――爆ぜるように動きだした。
舞い上がった破片の中から、拳大の石塊を掴み取る。
そして――一気に投げ放つ。
右、左、右、左――次々と。反復運動のように、腕がしなる。
目にも留まらぬ速さ。音が消されたこの空間でも、風を裂く軌道が視界を穿つ。
一投目がぶつかる。
斬撃が揺らぎ、閃光の様な空気に裂け目が走る。
二投、三投。
斜めに、縦に、風をなぞるように、石塊が突き進む。
四、五、六投――
石が裂け、風が砕ける。
音なき戦場で、ただ破壊だけが連鎖する。
石と風が衝突するたび、空気が軋み、景色が歪む。視界のすべてが、破壊の応酬に塗りつぶされていた。
それでも、逸らしきれなかった。
斬撃の一条が、リアの脇腹を裂く。服が裂け、鋭い痛みが奔る。
それでも、彼女は膝をつかない。睨む様に顔を上げる。
黒衣の魔術師は、なおも屋根の上にいた。風のように揺らめきながら、乱れもせず滞空していた。
だが、リアの瞳に一切の諦めはなかった。
(大丈夫、落ち着いてリア。まずはこの相手に、手の内を全部出し切らせるんだ。そうすれば――)
きっとカイウスが、活路を切り拓いてくれる。ノルヴィアの村で、共に巨狼を討った、あの夜のように。
視界の端。瓦礫の山に棟木が一本、斜めに突き刺さっていた。
リアは一息で駆け寄り、節だらけの根元に掌をあてると、膝を沈ませ一気に引き起こす。
轟――と木が唸りを上げて軋んだ。
土埃が舞い上がり、棟木が彼女の肩口へと跳ね上がる。
一抱えもある大木をリアは片腕で受け止め、そっと一息を吐いた。
そしてそのまま、大上段に振りかぶるように構える。
(……今のわたしに出来ることは、時間を稼ぐこと。少しでも長く、カイウスさんが敵を観察出来るように。そのためなら――全力は、惜しまない!)
真紅の赤髪が、炎のように煌々と輝き、夜風に踊る。
砕けた瓦礫の上に立つその姿は、まるで神話の頁から抜け出した戦神の化身のようだった。




