2-5. 迫る刃風
応接間での一幕の後、カイウスとリアは来賓用の寝室に案内された。
やわらかな灯が揺れる部屋には、天蓋付きの寝台が二つ。壁際には銀細工の水差しと洗面台が整えられ、絹と羽毛をふんだんに用いた寝具は、旅慣れたカイウスにとっては些か贅沢すぎるほどだった。
「今後の詳細につきましては、明日改めてご説明いたします。本日はごゆるりとお休みくださいませ」
セバスの丁寧な案内に頷くと、扉が静かに閉じられた。重厚な木戸が音もなく嵌まり、屋敷の静けさが立ち戻る。
リアは寝台の端に腰を下ろし、膝を抱えて座りこんだ。むすっとした表情で床を見つめ、頬を少しだけ膨らませている。ヴィーザはすでに外され、寝台横の机に几帳面に畳まれていた。
その様子を横目に、カイウスは窓辺に立った。
夜のナヴィレザが眼下に広がっている。運河に映る月の残像。遠くで揺れる船頭の灯。ヴェルディ広場を囲む建物が、星の光を砕いて返す。
昼間に見た、あの煌びやかな街が嘘のようだった。夜のナヴィレザは別の顔を持っている。美しく、しかしどこか底の見えない水面のように、深く佇んでいる。
ふと、先ほどのセラフィーナの言葉が脳裏をよぎった。
"監視をしていたわけではございませんが……本日のヴェルディ広場での一部始終、拝見させていただきました"
――あの時からすでに、自分たちは見られていたのだ。
裏通りの奇襲。いま思えば、刺客の呼吸は乱れ、焦りの気配すらあった。セラフィーナを追っていたというより、追跡する何かから逃げていたような。そして、セバス――あの老執事が、あの程度の刺客を“取り逃がす”はずがない。
逃がしたのではない。泳がせたのだ。
(やれやれ……あそこまで仕組んでおいて、素知らぬ顔で礼まで言えるとは。つくづく、為政者ってのは恐ろしいもんだな)
彼女は最初から、会うべくして現れたのだ。カイウスを自らの陣営に引き込む。恐らくは、ただそれだけの為に。
だが、欺かれたとは思わない。むしろ感嘆に近い感情が胸を満たしていた。
ナヴィレザの未来のためなら自らをも駒として扱う胆力。それを全幅の信頼で支えるセバスの在り様。長年に亘り築いてきた結び付きが、あの主従の形を作り上げたのだろう。
「……カイウスさん。セラフィーナさんには、ずいぶん甘いんですね」
背後からリアの声が飛んでくる。振り返ると、寝台の上のリアが相変わらず膝を抱えながら上目遣いに睨んでいた。
「美人だからですか? きっとそうですよね? セラフィーナさん、まるで絵本のお姫様みたいに綺麗ですもんね」
「……は?」
カイウスが瞬くと、リアはぷいとそっぽを向く。
「依頼のことだって、あんなにあっさり引き受けちゃって。わたしはほんとうに心配してあげてたのに、カイウスさんはデレデレデレデレしちゃって……ほんと、やだ」
不機嫌な声の裏に、少女らしい拗ねた感情が滲んでいた。カイウスは口の端を少し上げると、ベッドの端に腰を下ろす。
「あれは別に、セラフィーナが理由じゃないさ。……正直に言うと、依頼を引き受けたのはリア、むしろ君の影響だ」
「……わたし?」
リアがきょとんと首を傾げる。カイウスは目を伏せると言葉を探した。
「アベルさんの墓前でも思ったんだが、損得抜きで誰かのために動けるのって、ほんとうに難しいことなんだよ。リアはそれが、当たり前みたいにできるだろ」
頭を掻き、気恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……だから、少しでも近づきたいと思ったんだ。これからも、その……リアと一緒に、胸を張って歩けるように」
それを聞いたリアの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まった。言葉を失ったまま顔を伏せると、膝に額を擦り付ける。
「……ずるい」
「えっ」
「ずるいです、カイウスさん。わたしが人慣れしてないの知ってて……そんなふうに言われたら、もう……信じるしかないじゃないですか」
声はくぐもっていて、聞き取りづらい。カイウスは困ったように笑うと、ゆっくりと答えた。
「リア。この言葉で何かが変わるとは思ってない。でも、約束するよ。俺は君には嘘をつかない。これまでも、そしてこれからもだ」
リアが顔を上げる。何かを言おうとして、唇がかすかに動いた。だがそのまま言葉に出さず閉じると、ただ赤い瞳を潤ませる。
「……分かりました。カイウスさんのこと、信じてあげます」
「ありがとう。よし、これで和解だな」
カイウスが力を抜いた笑みを浮かべると、リアはわざとらしく唇を尖らせた。
「……さっきは意地悪なこと言っちゃって、ごめんなさい。なんでか自分でも分からないんですけど……セラフィーナさんにデレデレしてるカイウスさんを見たら、すごく嫌な気分になっちゃって。……でも、心配なのは本当なんです。それだけは信じてください」
「あぁ、そもそも疑ってないよ。ついでに言うと、デレデレもしていない」
「してましたよ」
「してない」
「……してた気がするんです!」
「文字通り、気のせいだな」
口論は取り留めもなく続いたが、それがかえって、二人の間に柔らかい空気を戻していった。窓の外では、風が音もなく街を撫でている。ナヴィレザの夜は深まり、空気がしんしんと冷え込んでいく。
***
場所は変わり、星々の街区の東端。
古い石造りの高台に建つ、重々しい気配を纏った邸宅。星々の街区にあって、その館だけが闇を塗り込めたような黒鉄で造られている。まるで星々の光すら飲み込もうとするように、そのシルエットは深い暗闇に沈んでいた。
その屋敷の奥、最も闇が深い一室。書斎だった。一本の蝋燭の炎が、澱んだ空気を頼りなく照らす。棚には帳簿と契約書が並び、壁際には朽ちかけた甲冑と、針の止まった古時計。
その中心で、ドランベルグ家現当主――マクシミル・フェロネーロ・ディ・ドランベルグは、ワイングラスを指先で弄びながら、にたりと歪んだ笑みを浮かべていた。
歳は七十ほどか。老いさらばえた顔には、得体の知れない圧が潜んでいる。撫でつけた白髪は脂じみて鈍く光り、ぶよついた分厚い指には金と紅玉の指輪がいくつも嵌められている。濁った目元に深く刻まれた皺は笑うたびに醜悪にたわみ、涎まじりの舌が唇をゆっくりと這う。
「まァァァったく。自由派の小蝿どもときたら、本当に困ったものですなァ」
声は低く、腐蜜のように淀んでいた。その響きだけで書斎の空気が濁るようだった。
「なかでも、あのヴァルシェの小娘よォ。理想だの信念だのと青臭い戯言ばかりを振りかざしおってェ。だがまァ、あの娘さえ摘み取ってしまえば、残りの凡愚どもなど蜘蛛の子を散らすようなものですなァ」
くぐもった笑いが、喉の奥でくつくつと鳴る。
「とはいえ。今宵の刺客どもには失望させられましたなァ。三組六名、全員が失敗……挙げ句の果てには、うち三人が捕えられるとは。なァァァんと、無様な。残された時間は、僅か一週間。もはや猶予もない。次こそは確実に、仕留めねばなりませんなァ」
手中のワイングラスをひと回しし、どろりとした赤を喉へと流し込むと、ふいに手元の小さなベルを鳴らした。
扉が、音もなく開いた。
影が一つ滑り込んでくる。黒いローブ。深く被られたフードが顔の上半分を覆う。気配すら風のように希薄なその姿に、マクシミルは口角をさらに尖らせた。
「ようこそ我がナヴィレザへ、“風の方”ァ! 色々と相談に乗って頂けると聞いておりますぞォ!」
応答はない。ローブの人物はただ静かに顔を上げた。フードの奥、その唇がわずかに開く。
「……風は、流れに抗わない。ただ吹くべきところに吹くだけだ」
乾き切った声だった。感情の起伏すら匂わせない響き。マクシミルは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに太ももを叩いて笑い飛ばす。
「ハハ、これはまた、解釈のしがいがある台詞ですなァ! ま、宜しいでしょう。早速本題と参りましょう。対象はヴァルシェ家の当主、セラフィーナ嬢。あの小娘を、"処分"して頂けませんかなァ――」
そこで意味ありげに言葉を切ると、にたりと顔を崩す。
「――いや、やはり“誘拐”に訂正しましょォ。あの娘、見た目だけはホンットォォォォォに、雄心に媚びるように極上でしてなァ……! どうせ消すなら、その前に、す、少しばかり……フヒ! た、愉しませていただかねばァ……フフ……フフフヘヘェェ……!」
べたついた笑いの残響が書斎に広がる。だが、ローブの男は全くの無反応だった。
「あァ、それと。囚われた三名のおバカさん達の後始末もお願いしますよォ。余計なことを吐かれては、のちのち困りますのでなァ」
ようやく、ローブの男が口を開く。
「……風は、花を揺らし命を育む。だが、同じ風が時に岩を穿ち、木を裂くこともある。脆きものは、抗う術を持たないものだ」
「……あ、ああ? つまり、引き受け頂けると?」
「風。それが答えだ」
開け放たれた窓から一陣の風が吹き込む。ローブの裾を巻き上げ、月光が男の腰元を照らし出した。
冊子ほどの大きさの石板が、二枚。表面には風を象徴するような幾何学的な文様。そして螺旋を描くように文字が彫られていた。
ふと、風に乗って一匹の小蝿が窓から入り込む。
ローブの男は、一指すらも動かさなかった。しかし石板の片方が、淡い緑色に発光を始める。中心から水が満ちるように、刻まれた溝をゆっくりと光が走り――。
――パァァンッ
空気が、鳴った。一閃の風が走る。いや、厳密には"風"ではなかった。空間を裂く――“見えざる刃”。
刃が小蝿を通り過ぎる。直後、その羽も胴も跡形もなく、蝿は塵のように切れ散った。
「……風からは、逃れ得ない。風は、切るべきものは、全てを切り裂く」
マクシミルは一瞬、口を噤んだ。だがすぐに、死んだ魚のような濁った瞳の奥で、何かが鈍く光った。口の端がゆっくりと吊り上がり、顔全体が醜悪な歓喜に歪んでいく。
「お、おおおォ! 見事ですなァ、風の方……! ですが、セラフィーナ嬢は切り裂かず、必ず生きたままでお願いしますよォ! 私には死体を弄ぶ趣味など、ありませんからねェ!」
男は一歩だけ前に出る。足取りは風に乗るように滑らかだった。
「……風」
その一言とともに、影はすっと掻き消える。残されたのは蝋燭を揺らす旋風の名残だけ。月明かりが再び射し込む頃には、気配すら残っていなかった。
書斎に、再び沈黙が戻る。
「……フフ、いやしかし、王国の方々も、実に良い贈り物を寄越してくださる」
マクシミルはワインの残りを飲み干し、不気味に笑った。
「戦場に出せば、一個中隊に匹敵する戦力を誇ると名高い精鋭中の精鋭――"魔術師"を、こんな雑草狩りに使えるとは! いやはや、これは失敗りようがありませんなァ……!」
高々と響く下卑た笑い声が、しばらく夜の空気に漂い続けた。




