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1-10. 闇を裂く復讐

 雨は、空が音を忘れたかのように、そっと降り始めた。

 濡れた土と枯葉の匂いがじわじわと染み込んでいく。

冷えた空気は、まるで時の流れまでも止めるように張りつめ、最初のひと雫さえ、静寂の帳に吸い込まれていった。


 その沈黙の只中に――それは、潜んでいた。


 巨狼。

 もはや“狼”と呼ぶには、あまりにも異様なその姿。

 灰銀に逆立つ鬣のような体毛。並の獣の比ではない巨躯。そして、顔の一部に刻まれた深い裂傷。肉が抉れ、歪んだ面貌が雨に濡れて鈍く光る。

 だが、最も異彩を放っていたのは、その瞳だった。

 深紅に燃える双眸。それは復讐に焦がれ、理性を呑み込んだ焔。


 雨に紛れて、かすかな匂いが混じる。

 忘れようとしても忘れられぬ、憎しみの残り香。

 

 ――あの赤髪の匂い。

 人の匂いを纏いながら、人ではなかった。

 炎を思わせる髪、拳に秘めた異質な力。この森の支配者だった自分を、一撃で地に沈めた存在。

 思い出すだけで、傷の奥が熱を帯びる。あの時、確かに焼きついた匂いが、この雨の中でもなお、鼻腔を灼いていた。


 巨狼はまだ動かない。

 ただ、ぬかるんだ地に腹を伏せ、鼻先に残る気配を辿る。今やこの獣を突き動かすものは、執念。それだけだった。


 やがて、背後に低く鳴る気配が連なる。

 灰、黒、まだら模様。

 数多の狼たちが、藪をかき分け姿を現す。

 数は十や二十ではない。巨狼の沈黙に呼応し、野に潜んでいた者たちが集っていた。


 そして、ついに巨狼が立ち上がる。

 濡れた鬣を揺らしながら、ぬかるみに足を踏み出す。ぐしゃり、と泥が沈む音。

 その瞳が向く先は――森を抜けた、遠い丘の向こう。

 

 湿った麦の香り。炊かれた穀物の湯気。焚き火の燃え殻。そして、その全ての奥に、あの紅――忌まわしき赤髪の匂い。


 見つけた。

 巨狼はぐにゃりと顔を歪ませると、一歩、泥を踏みしめる。ぐしゃりと沈む大地の感触。その背に、仲間たちの影が連なる。


 喉が低く震える。復讐の本能が、牙を鳴らす。

 そして、次の瞬間ーー


 「グルルオオオオオアオ!!!」

 巨狼が、吼えた。

 喉の奥から、空を裂くような咆哮が迸る。

 群れの狼たちもまた一斉に咆哮を返し、森が咢を開いた。湿った闇の中、いくつもの声が連なり、夜気を振るわせる。


 その眼に映るのは、ただひとつ。

 あの赤き獣。

 かつて己を地に沈めた、倒すべき宿敵。

 

 いま、復讐の牙が、夜を裂いて走り出す。


***


 最初に異変に気づいたのは、北の見張り台に立っていた青年だった。


「……なんだ、あれ……?」


 呟きは風にさらわれるほど微かだった。

 背筋には、嫌な汗が伝っていく。


 雨は細かく降っていたが、ちょうど雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。

 その淡い光の下、麦畑のさらに先。

 北西の森の木々が、ざわり、と揺れた。

 風ではない。鳥でもない。……地面が、微かに震えている。


 その異常に気づいた瞬間、全身に冷水を浴びせられたような戦慄が走った。

 視界の先。闇の奥で、黒い影が、幾重にも蠢いていた。


「……群れだ……」


 狼。だが、それだけではない。

 先頭をゆく一頭が、異様なまでに大きかった。

 大地を踏み鳴らすたび、麦の穂が倒れ、獣道が押し潰されていく。


 そして、その巨獣の顔。

 抉れた頬、闇に赤く光る片目。

 ――だが、最も異様だったのは、その眼差しだった。


 もはや、“獣の眼”ではない。

 あきらかに“意志”を持つ眼だった。

 憎悪と執念を宿したそれは、確かな目的を持って、まっすぐに――ノルヴィア村を、見据えていた。


 反射的に鐘の綱へと手が伸びた。

 力任せに引き下ろす。


 ゴォォン――!


 金属の叫びが、闇夜に轟いた。

 夜の静寂を切り裂き、村中へと響き渡る。


「鐘……!?まさか――!」


 家々の扉が開き、灯りがともる。

 駆けつけた若者たちが見張り台を見上げると、蒼ざめた顔の青年が立ち尽くしていた。


「た、大変です……! 北西の森から、狼の群れが!数も十、二十じゃきかない!もっと……っ!」


 騒ぎを聞きつけて、村長オルドが現れた。


「鐘を二度鳴らせ! 全域に警告を!」


 命じる声には迷いがない。

 青年が頭巾を跳ね除け、綱をつかんで鐘を鳴らす。


 ゴォォン、ゴォォン――!


 繰り返される警鐘が、村の空気を一変させた。


「女子どもと年寄りは、すぐに《祈りの大樹》の麓へ! 優先的に避難させろ!」


「若い者は武器庫へ! ……農具でも何でも構わん、棒でも鎌でも手に取れ!」


 人々が次々と広場に走り集まる。

 恐れはある。けれど、命令に従い、全員が的確に動いていた。

 それが、ノルヴィアという村だった。

 決して風任せに生きる村ではない。大地に根を下ろし、誇りをもって自然と共生してきた村の姿だった。


「村長! 群れは一頭の巨大な狼を中心に動いてるようです!途轍もなく大きい……!あ、あんな化け物……っ、み、見たことありません!」


「……!巨狼か。昼にカイウス殿が言っていた……!」


 もし、それが奴だとすれば――

 村人たちの手に負える相手ではない。

 だが、座して死を待つほど、ノルヴィアの誇りは脆くない。せめて、一矢報いることができれば。


(……カイウス殿の力を、借りられれば……)


 それが叶わぬ願いだと、オルド自身が誰より理解していた。

 この村は、命を賭けて調査を請け負ったあの傭兵を、あろうことか「戦争で飯を食う卑しい者」と罵ったのだ。

 彼がそんな人間ではないことくらい、ほんの数回の会話で分かっていたのに。


 今さら悔いても遅い。

 目の前にあるのは、村の存亡を賭けた戦い。現実が狼の爪鳴りと共に押し寄せてくる。


「……もう一度言う! 年寄りと子供はすぐに避難を! 武器を持てる者は広場へ集まれ!狼たちが、来るぞ!村を、守れ!!」


 オルドの声が、夜の村を貫いた。


 雨は激しさを増していた。這いよるような湿気と緊張が、村全体を包み込んでいく。

 空の彼方では、雷鳴が小さく唸りはじめていた。

 それはまるで、戦の幕開けを告げる太鼓の音のように不吉に轟いていた。


***


 暖炉の火は静かに沈み、夜の息吹が室内に満ちていた。

 木の壁に染み込んだ少し湿った空気。

 外では雨がしとしとと屋根を打ち、時折、風に乗って軒先の雨垂れがぽとりと跳ねた。


「……なんだか、落ち着かない夜ですね」


 リアの声は、灯りの落ちたの空間にそっと溶けていった。

 

 その直後――


 ーーゴォォン。


 重く、低く。

 腹の底を打つような金属音が、夜を貫いた。

 雷ではない。それは、村の見張り台が鳴らす警鐘だった。


「……今の……!」


 リアが弾かれた様に顔を上げる。カイウスも小さく頷く。


「……あぁ。間違いない、村の警鐘だ」


 即座に立ち上がり、置いていた剣を迷いなく背負う。


「このタイミング、ただ事じゃないな。方角は……北西か。先ずは広場に向かう。……来るか?」


「……はい!」


 二人は同時に戸口を開き、雨の中へ駆け出した。

 夜の風は冷たく、雨脚も強まっている。

 足元の土はぬかるんでいたが、それでも足取りは揺るがなかった。


 村の中心へ近づくごとに、警鐘の音は意志持つかのように、その強さを強めていった。

 人々が家から飛び出し、声を張り上げ、誰かを呼ぶ。

 不安と恐怖が、その顔の隅々に浮かび上がっている。


 広場へと入った瞬間。

 光と熱と、混乱の奔流が押し寄せてきた。

 松明がいくつも掲げられ、農具を握りしめた男たちが群れをなしている。

 泣き叫ぶ子ども、避難を叫ぶ女、命令を飛ばす若者。

 人々の声と足音が、混濁して夜気をかき乱していた。


 その中心で、一人の青年が声を張り上げていた。


「北西の森から狼の群れが来ている!!数は、二十……いや、それ以上!中心に、異様なほど巨大な個体がいる!若い男は何でもいい、武器になりそうなものを持って北西の門へ向かってくれ!その他は、《祈りの大樹》の丘へ、至急避難を!」


 リアが息を呑む。


「……あの狼だ……!」


 震える声。濡れた前髪の下で、赤い瞳が揺れていた。

 記憶の底に刻まれている。

 あの日、自分がカイウスを助けるために立ちふさがり、渾身の力で頭部を撃ち抜いた、醜悪な巨狼の姿。


「きっと、わたしを狙って、追いかけてきたんだ。復讐するために……!」

 

「ああ。おそらくな」


 カイウスは短く答える。だが鋭い確信を帯びていた。

 その時――混乱の只中に、ひときわ鋭い叫び声が割って入った。


「だ、誰か!手を貸してちょうだい!ミラが……あの子が何処にもいないの!!」


 広場のざわめきを裂いたのは、切迫した母親の叫びだった。

 小柄な女性が人混みをかき分け、髪も服も濡れたまま、怯えたように周囲を見回している。

 その目は涙で真っ赤に腫れ、焦点は定まらない。

 

「誰か……誰か!ミラを見なかった!?お願い、誰か……っ!あの子に何かあったら、私は……!」


「落ち着いてください、ミラちゃんは――」

「た、確か昼間は家にいたはずだろ……」

「いや、俺は外で遊んでるの見たぞ!」


 ざわつきの中、カイウスの表情がぴくりと動いた。


(ミラ……?)


 覚えている。

 この村に来た時、広場で童歌を歌いながら他の子供たちと遊んでいた少女。

 麦わら帽子と笑顔が似合う、幼い顔。名は確か、ミラ・フェーン。そう言っていた。


「ミラちゃん?あの子、昼間は広場で他の子と遊んでたけど……」

「あぁ、そうだそうだ!確か、今日は麦畑が月に揺れて綺麗だから、夜は他の子と見に行くって……っ!ま、まさか……!」

 

 囁き合う村人の言葉に、リアの胸に冷たい感覚が走る。


「村の外に、出てるかもしれない!」


 思わず声を上げたリアだったが――その声に、周囲の視線が一斉に向けられた。

 途端、混乱に怒号が混じり始める。


「……お、おい!こいつ……赤獣だぞ!」

「なんで村に戻ってきたよ!?この警鐘も、あ、あんたのせいじゃないのか……!」

「また大樹を壊す気か!?今度は子供達まで巻き添えにするのかよ!」


 リアはその場に立ち尽くした。

 全身に浴びる視線が冷たい刃となって突き刺さる。

 喉がひりつき、言葉が出てこない。視界がぐらつく。

 それでも彼女は、一歩も逃げなかった。

 ただ、その場に踏みとどまっていた。まるでそれが使命であるかのように。


(……いまは、怖がっている場合じゃないんだ……!)


 けれど、止まない罵声に、足が少しだけ震えたその時。


「……もう、いい加減にしてくれ。リアは、今回の異変とは無関係だ」


 静かだが凛とした声が、彼女のすぐ横から響いた。

 カイウスだった。

 彼はゆっくりと前に歩み出る。雨に濡れた外套の裾をはためかせ、村人たちを真っ直ぐに見つめていた。


「俺がその証人だ。……北西の森で、オルド村長の調査依頼にあたっていた俺は、今回の巨狼に襲われた。危うく落としかけた命を助けてくれたのが、彼女だ」


 雨音の中で、村人たちは静まり返る。

 カイウスは一人ひとりの目を見て言葉を継いだ。


「その後の七日間、俺は彼女と共に森で過ごしたが、危害を加えられたことは一度もない。むしろ俺は、彼女の誠実さに何度も救われた。……これまでの出来事には誤解や複雑な事情がある。それでも彼女は、怯まず、逃げず……罵声を浴びせられてなお、誰かのために動こうとしているんだぞ」


 数秒の沈黙。

 けれどその言葉に、村人たちの視線が少しずつ揺らぎ始めた。


「彼女が"赤獣"かどうかなんて、どうでもいい。今ここにあるのは、子の無事を想う母親の悲鳴と、消えそうな小さな命。それだけだ。……リア、君はいま、何がしたい。これを機に弁明するのも良い。きっとここに居る全ての人が聞いてくれるぞ」


 リアは驚いたように隣を見た。

 カイウスの横顔には、疑いも迷いもない。静かに寄せられる信頼が、そこにあった。

 村の視線が、再びリアへと集中する。

 無意識に両手を握りしめる。雨が、頬を伝って冷たい雫を落とした。

 

 リアは、そっとミラの母の様子を窺った。

 その肩は小さく震えていた。

 泣き腫らした目。泥濘に膝をつき、何かに祈る様に両の手を力の限り握りしめている。


 リアは深く息を吸う。そして絞り出すように、通る声で言った。


「……みなさん。いますぐ、道を開けてください」


 村人たちがざわついた。


「わたしは……ミラちゃんを、助けに行きます。そのためにここに来ました。怖がられても、責められても構わない。……そんなことより、ミラちゃんが無事である方が、わたしにとっては、ずっと大事だから」


 カイウスが僅かに微笑み、力強く頷く。

 短く、まっすぐな、飾らない言葉だった。

 だが、その声の奥にあるものは、何よりも強かった。


 沈黙。雨音だけが辺りを包む。

 数拍の後、罵声を投げていた男が気不味そうに俯き呟いた。


「……す、すまなかった……」


 その言葉が広場の空気を変えた。

 人垣がゆっくりと割れ、雨に濡れた土の道が二人の前に開けていく。

 リアがカイウスを振り返る。その目には、もう一片の迷いも残っていなかった。


 ーーその時。


「お願い……お願いです!どうか、どうか!ミラを、助けてください!」


 ミラの母親が、遂にリアの腕にすがりつく。

 濡れた顔は、雨か涙か見分けがつかない。

 掠れた喉。それでも必死に言葉を絞り出す。


「お願いします!大事な、大事な一人娘なんです……!何でもら差し上げます!だから、どうか、あの子を……!」


 リアは小さくうなずく。 

 その手を、そっと母親の手に重ねた。

 雨で冷えきったその指先を、ほんの少しだけ、温めるように握る。


「……大丈夫です。絶対に連れて帰ります」


 リアの声は、優しかった。

 母親の潤んだ目が、更に揺れる。リアは微笑を含んで続けた。


「ミラちゃんには、こんなに温かい、帰る家があるんですから。わたしが、お母さんの代わりに、迎えに行ってきます。だから、お母さんは、炉に火を焚べて、お湯を張って、温かくして出迎えあげて下さい。そしてミラちゃんが帰ってきたら、……優しく抱きしめてあげて下さい」


 雨音の中、母親の表情が崩れる。

 押し殺していた嗚咽が洩れ、彼女はその場に膝をついた。


「……あ、ありがとう、ございまず!ありがとう……!」


 リアはそっと手を離し、カイウスの横に立つ。その目は闇の向こうを見据えていた。


 カイウスは静かに剣の柄に手をかけ、頷いた。

 そしてふたりはぬかるんだ地を踏みしめ、人垣を裂くように駆け出した。


 麦畑の縁へ。小さな命を、掬い出すために。

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