5
登山開始から気の遠くなるような時間が流れ、僕は既にへばりきっていた。なるべく岩陰に身を隠すようにして、痛む足を必死に動かす。体中からは絶えることなく汗が流れ、着ている服はべったりと肌に張り付いていた。心臓は苦しいくらいに強く脈打っていて、酸素を欲して息は荒れてしまっていた。それでも僕は懸命に、三人の後ろ姿を死に物狂いで追い続ける。
――キツくなったら、いつでも言いなさいよ。一休みするから。
前もってミレナからはそう伝えられていたのだが、僕は彼らに休憩を求められずにいた。それには至極簡単な理由がある。簡単に言えば、男の意地だ。
「大丈夫ですか?」
僕のすぐ前を歩いているエリシアが、心配そうな表情で振り返り、僕に訊ねてきた。僕はとっさに作り笑いを浮かべた。
「うん、大丈夫だよ」
「でも、かなりキツそうに見えます」
「そんな事ないよ。これくらいは平気」
「そうですか……でも、辛くなったらいつでも言って下さいね。皆さんに伝えますから」
優しげに微笑んで、彼女は再び前を向く。僕は心の中でがっくりと肩を落とした。山登りの経験があるとは聞いていたけれど、まさかエリシアがここまで平然とした態度でいるとは思わなかった。認めたくはない事だが、どうやら体力という面で僕は彼女を下回っているらしい。
――でも、流石にエリシアより早く音を上げられないよ。
悲鳴を上げる体に鞭打って、僕は彼らの後に続き、懸命に足を動かし続けた。
登り始めた時にはまだ姿を現したてだった太陽がすっかり沈みきろうとする頃、僕らはようやく頂上を過ぎ、山陰に隠れられる所まで辿りついた。
「今日はもう休むか」
「そうね、ここまで来ればひとまず安心だろうし。野宿の準備をしましょ」
周りを見渡しながらフォドとミレナが会話しているのを、僕は半ば放心状態で聞いていた。体に力が入らず、僕の足は奇妙なステップを刻み続けている。
「あ、あの。大丈夫ですか?」
いつの間にか傍らにいたエリシアが慌てた様子で問いかけてくる。僕は力無く笑いかけようとしたが、実際に出来ているかどうかは分からない。
「あー、うん。だいじょぶ」
「全然大丈夫そうじゃないですよ。取りあえず、座って……」
彼女が僕の体を支えようと手を伸ばした、その時だった。
「ちょっと! 危ない!」
ミレナの叫びが耳に入ってくる。それと同時にエリシアが目を大きく見開いて恐怖の表情を浮かべたので、僕はその眼差しを追った。
――ゴブリンが一匹、僕達の方向めがけて突進してきていた。
次の瞬間、僕はエリシアを庇うようにしてゴブリンへ背を向けた。無意識の事だった。続いて僕の後頭部に強い衝撃が走る。
――ああ、殴られたんだ。
そう意識すると同時に、僕の視界がまるで霧のかかったようにぼやけていった。続いて、自らの体が地面に倒れたような感覚がしたのだが、不思議と痛みは皆無だった。もやの向こうで誰かが茶色に何かに剣を突き刺しているのが映る。肩まで伸ばされた橙色の髪が朧気に分かるので、恐らくはミレナがゴブリンを倒したのだろうという事は分かった。
そして、僕はこれから死んでしまうのだろうという事も。
――結局、何も分からなかった。
自分が何者なのかすら知らずに逝くのは、少しだけ悲しい気がした。
――でも、みんなが無事なら良いか。
倒れ込む僕の顔を誰かが覗き込んでいるけれど、その誰かは分からない。誰かが僕に声を掛けているけれど、それも耳に入ってこない。けれど、痛みを全く感じないのが不思議に思えた。
――意外と楽な気分だなあ。
ひどい眠気に襲われ、僕は両目を閉じる。その時、目映い光を感じた。体全体を包み込むような、優しくて暖かい光。もしかするとこれが天国の感覚なのかもしれない、そんな事を僕はぼんやりと思った。
思ったのだが。
「い、痛っ!」
何故か後頭部に激しい痛みが押し寄せてきて、堪らず僕は目を開いた。そして驚いた事に、あれほど曇っていた視界が鮮明になっていて、僕を心配そうに覗き込むミレナとフォドの姿もしっかりと目にする事が出来た。二人もどうやら僕が意識を取り戻した事に気がついたらしく、
「あ、やっと起きた」
「心配したんだぜ」
と、安堵の表情を浮かべる。
そして。
「良かった……」
掠れるような声を受けて後ろを振り向くと、そこには珠のような汗を額に浮かべたエリシアの姿があった。彼女は僕の後頭部に自ら杖を向けていたのだが、不思議な事に、その先端は目映く光輝いていた。そしてどうにも、先ほどから僕の体に伝わっている暖かな感覚はそこから発せられているらしい。気がつくと、後頭部の痛みもすっかり引いていた。
「エリシアが助けてくれたんだよね、ありがとう。でも……これって一体何なの?」
戸惑いながら僕が口を開くと、エリシアは弱々しく微笑みながら、こう言ったのだった。
「僧侶の特権、治癒魔法です。唱えると、ちょっと疲れちゃうんですけどね」




