夜半の星の煌めき
口頭試験が終わって1夜明けた後の夜半の時間帯。明日から通常日程に戻るので夜更かしなど禁物も禁物。だがしかし、口頭試験が明けてさわやかな開放感に吹かれて気が緩んだのも事実なのだ。何だか楽園への階段を上って見晴らしの良い丘に出たような達成感というか開放感というか、口頭試験が終わるまでの緊張感ある日々では味わえなかった爽やかさである。
新緑の息吹を感じる、茶畑のような碧々しい風がことさら心地よいものに感じられた。窓から見晴らすゆるやかな山の斜面が絵画のように美しく感じられるのだった。何の鳥か知らないが、独自の鳴き声を持つ鳥の声が枯山水の純和風の庭を思い起こす。
月光が射す窓を少しだけ明けて外の空気を吸った。都会にいる時は気も留めなかった星の瞬きが見えたのだった。時々窓の外を見ると、この東国の山の中では星が語りかけてくるような気がする事がある。
新約聖書にベツレヘムの星が生まれて間もない救世主の元に導いたとか言う話は、ここでは何だかリアリティを持って感じられる事がある。きっと東京都心や実家のあった西国の地方都市ではわからなかったのだろうなと。
「おとぎ話」のように語られがちな、昔の話は、そのリアリティを体感する環境にいないとわからない事はきっと多い。その中にいれば、語りかけて来るものがあるのだろうな。旧約聖書の預言者が聴こえた声も。
などと思いながら、明日のために寝ないといけないなと思う。こんな事を思いつくのも、アメリカ帰りのユダヤ教や中東文化に異様に詳しい、旧約聖書学の教授に吹き込まれてるのかと思う。
ここにくるまで聖書なぞろくに読んだこともなかった。チャールトン・ヘストン演じる旧約聖書の「出エジプト記」を描いた伝説的映画、「十戒」のスペクタルな海が割れるシーンを思い出すのみである。
またローマ帝国時代のチャリオットレースを描いた映画の「ベン・ハー」位しか記憶にない。
旧約聖書も「出エジプト記」の先の「ヨシュア記」やイスラエル王国の絶頂期を描いた「列王記上下」なぞ知る由もなかった。
何だかイスラエルの12支族で構成された古代イスラエル王国は、西欧的な「王国」というよりも、UAEのような「首長国」のような気がしてならない。イスラエル王国というよりも「イスラエル首長国連邦」と言ったほうがいい気がしないでもない。現代イスラエル国家と似ても似つかない。
イスラエルの民は、折角イスラエル王国を建国するのだが、王は神に対して罪を犯す。預言者もとても王政を肯定してるとは言い難い。
ここで中東文化に詳しい教授はこう言うのであって。
「イスラエル行けばわかりますけど、旱魃めちゃキツい。アラブ人はね、現地では滅多に雨の降らないから、雨の日の事を「いい天気」って言うんだよ。中東の人達の感覚では雨の日はそんなの。旧約聖書の中で預言者エリヤはバアル神官団と対峙するんだけど、雨を降らせる神ってのは、抗いがたいものがあったわけよ。ヨルダン川の水量見てみなさいよ、とても大河とは言えたものでもないわけよ。ヤハウェは嫉妬深い神だけどね、それでも背に腹は代えられないってのかな?」
そんな感じで、欧米中心の聖書学の世界からは見えない中東の感覚を説明するという面白さからか、教授の授業にはファンが多かった。
教授の授業にハマればハマる程、UAEのパキスタンの移民労働者の話など、中東は旧約聖書の時代から変わらない事がよくわかるのだった。
イスラエルが「首長国」だと気付いたのもそう。
さらに面白いのは、旧約聖書特に「十戒」に書かれた掟が、どの部族にも適応できる普遍性のある教えだという事にも注目した。
中東の部族社会は独自の部族の掟を持ってる。現代はその掟の上にイスラーム法があるが、中東はイラン位しか厳格なイスラーム法で国家運営をしてないので、西洋の法とミックスなものが多いと。
それで、古代イスラエルは12の支族からなる「部族連合国家」だ。「部族連合国家」は、ローマ帝国のような巨大な帝国に比べるとまとまるのがなかなか難しい。パレスチナ地方は、アッシリアやバビロニア、エジプトなどの大国の通り道なので。
アフガニスタンのように、外敵が攻めてきた時のみ団結して余所者を追い出すが、そうでない時は大体バラけてる。(旧約聖書の士師記の世界もその風景に似てる)
なので唯一神を信じる「一神教」と、どの部族にも適用可能な掟というのは、バラけやすい部族を纏める今で言う所の「国際法」のような性格を持っていると。
政治が不安定化しやすい地域で、「唯一神」とその掟は部族の大連合を生み出すことに成功したのではないかと。
これはイスラームの発足当時、アラブ人の部族の大連合を率いて、当時の文明大国だったサーサーン朝ペルシャを滅ぼしたのは、この効用なのかも知れない。
そう考えると、大国の通り道で、あちこちに出羽守がいるような纏まりにくい土地柄でも団結できる事を表してるのか。それはすごい話だ。
などと、多民族、多宗教で同質性が高くない中東社会の知恵に驚いたものだった。
人口1400万人しかいない少数民族の聖書文学が、なぜキリスト教という普遍宗教の元となったのか。それは、文明が発達すれば大体どこもかしこも、ユダヤ化するのがわかる。
ヨーロッパの中国人やアラブ人の移民は、家族のネットワークの広がりから、ユダヤ人に似たところがある。
ローマ帝国は、中国人やアラブ人のようなあちこちに親戚縁戚がいて、そのネットワークの中で商業や金融業を営む人達を嫌った。
その人達をローマ帝国という「祖国」と「市民社会」に帰属させる必要があった。新約聖書で言われてる事はきっと、ユダヤ教の原点回帰などと言いながら、ローマ帝国の「市民道徳」なのであろうか?と邪推するのは、あまりにも「都市伝説」的なマインドか?
ムー大陸のような半ば荒唐無稽なお話と、当時の政治状況などを慎重に類推すれば、極めて俄然性が高い事を想像するとでは違うような気もするが。この時代の宗教事情そのものがスリラーだ。
ローマ帝国に叛乱を起こしたユダヤ人の「熱心党」というテロリストの、今の中東のテロの光景とどれほど似てるのだろう。
イエス・キリストと共に処刑された「盗賊」は実は政治犯という。十字架刑は当時のローマ帝国に対する「政治犯」に対して実行された刑罰だと考えれば、見える世界も違って来るものだ。
この辺りの当時の事情にも旧約聖書学の教授は詳しかった。ますますハマってしまう。
この時代の宗教と政治事情のスリラーっぷりの考察は止まりそうにもなかった。
イエス・キリストはユダヤ教の律法の適応をまるで「加害行為」のように言ったのだが、これは、パキスタンでマララ・ユスフザイちゃんが、タリバン政権を「加害行為」だと言ったレトリックによく似てると思った。
はっと思考の世界から現実に引き戻された。そろそろ寝ないと次の日に差し支える。窓を閉めて寝床に潜り込む事にした。
5年次の口頭試験が終わった。「マスターの称号」の是が非は置いておいて、いよいよここでの教育が一区切りとなって、夏休み明けから、より実際的な講義が始まるとか何とかそんな話である。
今までみっちりと受けてきた座学が「世間」のただ中において活動するための、行動力を伴ったものと統合されて行くのだ。この年になって「職業革命家」にでもなるような気分だ。東西冷戦が終結した1990年代の記憶が艶めかしい私には、「職業革命家」というのは何となく遠い時代を感じさせる。1917年のロシア革命のような。
「とある教育ユートピア」の綱領にも書いてあるが、西洋文明を跳ね返す鋼鉄の心(鋼鉄の人の間違いなのでは?)を作るのだ。狸は、度胸と行動力のないインテリに嫌気がさしてこの「とある教育ユートピア」を開いたのではなかったのか?
そのような事を考えながら、しがない焼き鳥屋のパートでしかなかった私が、このような「世間」に変革を起こす事に突っ込んで行くとは、全く想像の埒外だとしか言いようがない。
そのような事を考えながら、微睡んで行ったのだった。
初めてキャラのセリフが登場した回です。エッセイ風の小説ですがご購読ありがとうございます。




