二十
冬の寒い日、受験のために私は雪道をさくさくと歩いて受験会場を目指していた。
不安はあったが、今更騒いだところで結果は変わらないと、私は普段どおりの落ち着いた足取りでゆっくりと道を歩いた。慣れ親しんだ田舎の道。
かつてこの道を落葉と共に歩けば、誰もが落葉に視線を注いでいたこの道も、私一人では、誰も目もくれない。この一年ずぅっとそうであった。今更寂しいと思うことはないけれど、時折ふと、前まで落葉がいたその場所をふっと見つめてしまう。
駅から汽車に乗って、しばらくガタガタと揺られる。
相変わらず錆付いた車両は、不気味な悲鳴をあげ、走り続ける。
車内には、私と同じように制服姿の受験生の姿が見て取れた。誰もかれも参考書を開いたり、この期に及んで悪あがきをしている。私はそんな様子を眺めて、ため息をつくと、窓から外を眺めた。見渡す限りの白い雪景色。どこもかしこも雪を積もらせた街並は、雪に潰されてしまっているかのようで、なんとも滑稽である。
やがて汽車が目的の駅につくと、同じような格好をした学生の群れが一斉にホームへと流れ出す。私もその一団に混じってホームから改札に抜けて再び自分の足で歩き出す。
受験会場をめざす学生の中にはちらほらと見覚えのある顔もあるように思えた。かつて私と同じように落葉を妄信した、例の秘密結社の一員が居たような気もしたが、あまり自信はない。
ふっとそれで、これから彼らはどうするのだろうと、軽く疑問に思った、落葉を追いかける、なんてことは多分彼らもしないだろう。枯野落葉という美しい生き物がかつてこの地にいた記憶だけを抱えて彼らは生きていくのだろうか。彼らの過ごした日々とはいったいなんだったのであろうか。彼らは遠くから落葉を愛でるだけで満足であったのか。私には、わからない。ただ、彼らも私と同じように、きっと変わる事のない落葉という美しい生き物を心の中にずっとしまっておくのだろうと、思う。彼らはあれで落葉の事を尊重し、大事に思っていたから、変わりたくないという落葉の願いを、きっと心の中で叶えてくれるはずだ。
受験会場には見知らぬ制服の姿もちらほらとあった。皆一様に緊張している。
当たり前といえば当たり前だ。
私だって多少は緊張していた。
試験が始まるとしかし、そんなことはどうでもよく、ただ私はこれまで積み上げてきた事を、淡々とこなした。
全ての日程を終えて受験会場を出る。相変わらず雪が降っていて、体が震える。
ふと、横をあの秘密結社の少年が横切った、彼も私の姿に気づいたらしく、一瞬、足を止めると、小さく礼を一度して、そのまま去っていった。
枯野落葉という特別な存在の残り香。
私は彼の背を見送って、再びゆっくりと歩き出す。隣に、落葉が居なくとも、私という人間を、例え、落葉のおまけとしてでも、知覚してくれた人がいることに、少しだけ胸を暖かくして。
私はゆっくりと歩いていく。
受験が終わり、日々をただぼぅと過ごすうちに、冬は終わり、学校にいく用もなくだらだらとだらけきって家で過ごしている内に、冬は終わりを告げた。そうして卒業式を終えて、春の頭に私は無事合格し、私の進むべき道が定まった。
多少不安で過ごしていた日々も終わりを告げ、ますますと退屈な入学式までの残り一ヶ月ほどを謳歌していると、我が家に客人がやってきた。ちょうどお昼からうたた寝をしていた所だったので、玄関チャイムに叩き起こされ、不機嫌になりながら居留守を使ってやろうと思ったのだが、玄関先の客人は礼儀も常識も備えて居ないのか、私が無視を続けても根気強くチャイムを鳴らし続けていた。
なんとなく相手が誰かを察して私は諦めて渋々と布団を出ると玄関先まで向かって嗅ぎをあける。
すると勢いよくドアを開けて、久しぶりにみる顔が飛び込んでくる。
「やっぱりいるんじゃないですか、こんにちは羽鳥さん」
「二、三回して反応がなかったら帰りましょう菅さん」
「だって絶対いると思ったんですよ。今あがっても大丈夫ですか?」
「だいじょうぶですけど」
「お邪魔します」
いうが早いか彼女は靴を抜いで勝手にダイニングの方へと走っていく。
私は彼女の脱ぎ散らかした靴をそろえてやってから、ため息をついてその後を追った。
キッチンに入ると彼女は勝手に取り出したやかんでお湯を沸かし、食器棚から二人分のティーカップと紅茶を用意している。勝手知ったる他人の家とはまさにこのことである。私の呆れた顔とは裏腹に彼女は上機嫌だ。
「せっかく友人が尋ねてきたのに何ですかその暗い顔は」
「勝手に上がりこんで人の家でお茶を淹れる人間を喜んで迎え入れる人がいたら私はその人を聖人としてあがめるでしょうね」
私の言葉を意に介した様子もなく彼女はお茶を淹れると二人分をテーブルの上に置いて腰掛ける。
持参して来たらしい洋菓子店の小さな箱を置いて、こんどは皿とフォークを持ち出してきた。おそらくこれらを洗って片付けるのは私の仕事だろう。彼女と一緒に我が家で勉強していたときも大体そうであった。彼女の家では兄弟のこともあってまともに勉強が出来ないし、お菓子など出そうものなら争いになるのだとかなんとか。
「ケーキまで買ってきて、いったいどうしたのですか」
「羽鳥さん、合格したんでしょ? 私も大学受かったし、奨学金も貰えるし、お祝いしようと思って」
「別段そこまで騒ぐ必要もないと思いますが」
「どうせ暇ですしいいじゃないですか。ほらそれじゃあ頂きます」
いいながら手を合わせて早速彼女はケーキを食べ始める。一年経っても相変わらず自由な人間である。
呆れながらも食べ物に罪はないと、私もケーキを食べ始める。
しばらく食器の鳴る音だけが静かに響いている。
食べ初めてものの数分で菅帳はケーキもお茶も片付けると満足したといった様子で口を開く。
「でもなんか、受験が終わって合格ってわかっても、特になにか変わったって感じしないですよね。漠然となにかもやもやしてるというか」
憂鬱そうにため息を吐く彼女に、私もフォークを動かす手を止めて同意する。
「そうですね、現実味がないというか、未だに、大学生になるってよくわからない感じですね。むしろなんというか、もう大学生になってしまうのだなぁと思うと、不思議な感じがしますね」
私が置いていったと思っていた季節はいつの間にか再び私を追い抜いて、私の心のありようなどまったく気にもかけず、ただただ過ぎ去っていく。何も変わらぬ心のまま、私は普通の女子高校生から、普通の女子大学生になろうとしている。そのことに相変わらず焦りを覚える。
そうして、ふっと、その焦燥感から、ある美しい生き物の事を思い出す。
その感情を形にしたかのような、美しい生き物の事を。
私のそんな表情を読み取ったのか、菅帳もまた少し遠い目をして、何を考えているのか私は察した。
同じように私も、脳裏に、あの美しい、短命で儚い、時に追われる焦燥の生き物の姿を思い描いた。
「枯野さんも東京の大学合格したようですね」
「らしいですね」
そのことは新平先生から聞いていた。我が高校からは初の合格者で快挙なのだそうだ。落葉は自分の道を、私がいなくともしっかりと歩けている事を、私は複雑な気分で聞いていた。
「あたし、羽鳥さんと枯野さんは二人で一組だと思ってたんですけど、違ったんですね」
「そんなこと、最初からわかりきっていたことでしょう?」
「そうなんでしょうけどね、なんというか、二人で居るのが自然というか、上手く言えないけど」
彼女はぽつりぽつりと呟きながら、空のティーカップを眺めている。
「私一人ではまぁ見栄えしませんし不服なのはわかりますが、それなら落葉を追いかければよかったのでは?」
「そういうわけじゃないから、今の羽鳥さんも、なんていうか、素敵だと思う。前までは少し線が細いっていうか、儚い感じだったのに。最近はちょっと枯野さんに似てきたって言うか、存在感ある感じ?」
「私にそういうごまをすっても何もいいことありませんよ?」
「思ったこと言ってるだけだよ」
カラカラと笑う彼女もまた、その存在を一年前より色濃くしている気がする。もしかしたら、私達が気づかぬだけで、私達も、少しずつ何かが変わっていっているのかも知れない。嬉しいような怖いような、複雑な気持ち。
「どうなるのですかねこれから」
「なるようになるんじゃない? あたし達は県内だし、これからもまぁよろしくって所かな」
「そうですね、貴方しか友人が居ないとは、私ももう少し前向きに生きてくるべきでしたか」
「またそうやって人をからかう」
眉を吊り上げる菅帳の顔はしかし、笑っている。
最初はただ、面倒なうるさいだけの他人だと思っていた彼女。
気づけば特別でない普通の友人。普通の生活。
私はきっとこのまま普通の生活を送っていくのだろう。きっとそれで何も間違いはないのだ。
こうして菅帳と笑いあうのも、悪くないと思えるから。
それから、再び少しずつ日々は慌しくなっていった。
私は大学進学に先駆け一人暮らしをすることになったからだ。今までずっとあの家で暮らしてきたから、家を出るというのはなんとも非現実的で不安で仕方がなかった。我が家に居た頃も暮らしとしてはほぼ一人暮らしとそう大差なかったのに、本当に一人になると、なんとも言えぬ、寂しさがあった。
なによりも不安だったのは母のことだ。私が居なくて果たしてまともに生活出来るのだろうか。家を火事にしないだろうかとか、床を腐らせたり、ゴミ屋敷にならないだろうかと、とにかく不安で仕方がなかった。
新しく私が住むことになった部屋は、それなりに広く、風呂もトイレも別の割といい部屋ではあったが、私の部屋だと言われてもやはり、違和感しかなかった。現実味がどうにも薄い。
暮らし始めて見て数日経っても、起きて最初に目に入るその間取りと、母の気配を感じない家にただただ、薄ら寒い現実感と、他人の家のような感情しかわいてこなかった。しばらくしたらこれにも、慣れていくのだろうか。よく、わからない。
しかし、考えて見れば、これからしばらくして大学にいくようになり、バイトなんかをもし始めるようであれば、それはますます現実味のないことばかりで、私は果たして生きていけるのだろうかと、なんとも複雑な気持ちになる。
各種手続きやら、電気代等の引き落としの設定やらは、家事のついでに覚えておいて本当によかったと思う。ろくに覚えて居なかったら本当に私は一人暮らしなど出来る気がしなかったであろう。
税金やら何やらも払っていかねばならぬのだろうかと思うと、ドンドンわけのわからぬ不安が増えていく。
知識も、心も育っていないのに、相変わらず体だけはドンドンと成長していく。
鏡に映る自分の姿は日増しに、綺麗になっていく。自分で言うのもなんであるが、進学のためにいろいろと勉強して、落葉と同じように可愛くあることに興味を持ち始めたお陰か、本の少し、菅帳がいっていたように、私は自分の姿に落葉の面影を見るようになった。
ずぅっと隣に居てくれた、まさに非現実を体現したかのような美しい生き物。
道を違えてなお、色濃く残る落葉との記憶。
物心がついてからずっと一緒だった落葉との関係が、こうもあっさりと、私の中で処理されてしまっていることを、少しだけ悲しく思う。
やはり神様なんて、私はこの先も信じない。
入学式までまだあと二週間もある。
新居はまだまだ引越しのごたごたで荷解きしていないものや、足りない家電がいくつかあって、毎日が忙しい。特に致命的なのは冷蔵庫の不在である。事前に私が欲しがった冷蔵庫が皮肉にも、部屋の玄関にどうあっても引っかかって入らなかったのである。なんという悲劇か。そんなわけで新しい冷蔵庫が決まって届くまで、私は毎日のように食材の買出しに出かけねばならなかった。
バイトと奨学金で苦学生をはじめた菅帳が数日置きにさっそくご飯をねだりにくるため日持ちする食材の買いおきもままならないのである。なんということか。
しかし、まぁ母の居ない部屋で一人食べるご飯よりは、友人と食べるご飯の方がおいしいので、大目に見るが。
新しく越してきた町のスーパーの特売日はもう大分把握して来たものの、やはり冷蔵庫がなければ食材が日持ちしないので、まだ綿密な買い物計画は立てられない。早い所やはり冷蔵庫が欲しいと思いながら、私は今日も買い物へ出かける。
出かける前に鏡をのぞく、ロング丈のシフォンスカートにシャツは白、それに黒いジャケットを羽織る。少し長くなってきた髪の毛を気にしながら、メイクは母に教わったものの、あまり凝らないようにしている。私には正直加減がよくわからない。
私は落葉みたいに特別になりたいと思ってはいたけれど、落葉のように甘い服装はとてもではないが似合わない。少しラフなくらいでちょうどいい。
バッグと財布を持って外に出る。今日は卵の小さいパックとキャベツを買おう。早めに食べてしまいたいし、沢山消費できる、お好み焼きがいいだろうか。それなら肉と粉も買わなければ。
夕飯のメニューや買い物の内容を考えながら、アスファルトの道を歩いていく。日はまだ高く、春の陽気はゆるやかで暖かい。
実家付近とは違って、多少近代的なこのあたりでも、道路は変わらず古く、ひび割れた歩道を私はゆっくりと歩いていく。時折、通り過ぎる人の中に私の事を見ている人がいる気がする。その視線はすぐにまた別の何かにひきつけられ、人々は流れていく。私には落葉ほど誰かの目をひきつける魅力などはないけれど、今の私はたしかにここに居ると。そう感じられる。
しばらく歩いて店の並ぶ区画に近づいてくると。ふと、周囲の人の流れが少し、妙な事に気づく。周りの視線の動き、足の止め方、懐かしい、雰囲気。
ふっと視線を上げると、正面から歩いてくる美しい生き物と、ばっちりと、目が、あった。
二人同時に、足を止めた。
互いにまじまじと見つめ合う。
相変わらず、落葉のその姿は、美しかった。
少しだけ伸びた身長。甘めのひらひらとした服装。長く艶やかな黒髪。
白い肌、紅い唇はきゅうと引き結ばれ、黒い瞳は潤んでいる。
少し、丸みを失った体。以前はしていなかった肘先まである長い手袋。
変わらない所と、変わってしまった所、変わらないように努力をした証。
美しい生き物は、未だ美しいままに、私の目に前にあった。
なぜだか涙が出そうだった。
「柚子」
雑踏に飲まれ、消えてしまいそうな、掠れた落葉の声いつも私を呼んでくれていた優しい声。それも、少しだけ中性的になった気がする。でも、安心する、落葉に名前を呼ばれるのが、私は、今でも好きだと、そう思う。
「落葉」
震える声で、私も名前を呼び返す。かつてのように。
「可愛くなったね、柚子。本当に、可愛くなった。女の子らしくなって、すごく、羨ましい。私もそんな風になりたかった。柚子はやっぱり私の理想だよ。なんで私は柚子になれないんだろう」
美しい生き物の頬を涙が一筋伝う。
「落葉は、一層きれいになりましたね。その可愛らしい服装は、私ではとても似合わない。私も貴方のようになりたかった。落葉は、今も、昔も、ずっと、私の理想です。私は落葉になりたかった」
一年の間、互いを映すことをなかった鏡はしかし、互いに互いの理想をはっきりと映し出していた。
再び繋がった数奇な運命。
しかし、その繋がりは、もう幾ばくもなく断絶する。
神などいない。
私は二度と落葉と出会うことはないだろう。
私はいくら可愛くなろうとも、特別にはなれない。落葉という存在には近づけない。女の子が可愛くあろうとすることは、ごくごく平凡で当たり前のことであり、だからこそ、落葉は私を羨む。
男であるからこそ、可愛い女の子であろうとすることが特別なのだ。その特別であるからこそ枯野落葉という生き物は他の誰よりも美しい。
その特別はこの先時間と共に失われていく。今、こうしている間にもきっと、落葉は怯えている。自分が可愛くなくなっていくことに。それはどれほどの恐怖だろう、私には想像できない。私は女の子だから。可愛くなくなっても、女であるから。価値が失われたとして、それがマイナスに至ることはない。
それでも、私は落葉に特別な憧れを抱いてしまう。
ずっと、ずっと抱いてきたその感情。
私が手に入れたかった特別は、落葉のその生ではなかったのかもしれない。
これから先、それを確認することはできないだろうけれど。
落葉が本当に欲しかったのは、どちらだったのだろうか。よくわからない。
それも同じように、これから、知ることなどないだろう。
私達は二人、じっと見つめあったまま立ち尽くしていた。
周囲の人達が、私達を見つめている。
慣れ親しんだその感覚を懐かしく思う。
「落葉」
もう一度その名を呼ぶ。
「柚子」
答えてくれる声。
溢れそうになる涙をこらえて、唇をひき結ぶ。
さようなら、私の理想。
「さようなら、落葉」
「さようなら、柚子」
私達はそうして別れた。
ついに、互いの望んだものを手に入れることなく、私達は違えた道を歩きだす。
世界中のどこでもきっと毎日のようにおきている、特別でもない友人同士の別れ。
だけれど、私にとっては特別な別れだ。
去っていく落葉に視線が容赦なく突き刺さる。
落葉はあれから逃れるために、これから、自分の道を歩いていく。
今はそれで逃れられたとして、逃れられぬ時の流れが、きっと近いうちに落葉のその背を刺し貫くことだろう。どんなに足掻いても、どんなに走っても、落葉は望みを、願いをかなえられぬまま、その時を迎える。
その悲劇的な生を、私はそれでも美しく、羨ましく思う。
私のこれからの平凡な、普通の生。それはきっと楽しく、無難で、起伏はあれど、超えられぬこともなく、回り道も許される。逃げ切れる人生であろう。その道のりのなんと長いことであろうか。
それでも、もう目の前にある道を、私達は進むことしか出来ない。
だから、私は落葉のその背を見送って、一歩を踏み出す。
神様なんて、信じていやしないけれど、私は落葉の幸せを願わずにはいられない。
かれゆくその先に、どうか、実りがあらんことを。




