エピローグ
ツィーリャはこの窓から飛び降りた。
海に落ちたのだろうか?
それとも生まれて初めて羽ばたいたのだろうか?
あの新月の夜は何もかもが暗くて、全てが分からなくて、曖昧だった。闇と海の見分けさえつかなかったほどなのだ。
燈台の小さな部屋から崖の下を眺めて、ツィーリャの生は絶望的だと思った。落ちたにしろ、飛び立ったにしろ、もう二度とクレイアの手の中に戻らないことは変わらないのだ。
ツィーリャの部屋につましく花開いていた野の花を、手向けのつもりで海へ放った。
あの夜の後、当夜に門番がふたり眠りこけていたことが分かった。どうやったのか、台所からウィスキーをくすねて酔い潰れていたらしい。そして侍女がひとり姿を消していた。侍女たちの間ではちょっとした騒ぎになったらしいが、その名前を聞いても、どの侍女なのかクレイアにはわからなかった。
何日か経って、いなくなった侍女の持ち物から、大切そうに木の箱にしまわれていた手紙が見つかった。寝台の下のずっと奥、誰にも見つけられないようなところに隠されていた。
そのほとんどが他愛もない恋文めいた内容だったが、最後の一通、皺だらけの手紙には、ツィーリャを逃がす計画が事細かに書かれていた。まさにあの晩決行される予定のものだった。差出人の名前は書かれていない。だが、美しい筆跡は差出人の生まれを物語っていた。
実際に決行されたのか、それとも失敗に終わったのか、クレイアにはわからなかった。
「街外れの林に二頭の馬の蹄の跡があります」
「…そうか」
続いて、持ち主不明の馬が二頭、林の中で見つかった。一頭は鞍も付けられいつ誰が乗ってもいいように支度されていたが、もう一頭は手綱と鐙だけで他には何も付けられてはいなかった。
いなくなった侍女が馬に乗ってツィーリャを連れ去ったのか、それともふたりは無関係だったのか、それはクレイアにはわからない。何しろ手紙を読んでいないのだ。真実がどうであれ、クレイアには関係がない。
ツィーリャはもういないのだから。
「ツィーリャ様を探されないのですか?」
『カナリア』の支配人が言う。何しろ店はツィーリャの歌を呼びものにしていたのだ。ツィーリャが燈台に閉じ込められてからというもの、客足は遠のくばかりだった。
支配人の言葉に、クレイアは何も返事をしない。
「ツィーリャはいないよ」
その声には何の感情も窺えない。
『カナリア』の主はそれきりツィーリャの話をしなくなった。
その後『カナリア』では新しい歌姫が話題を呼んだ。娼館を併設するその店らしい、妖しい歌を歌うので評判になった。
しかし、どんな歌を歌おうと、オーナーであるクレイアの部屋にその歌姫が呼ばれることはなかった。店にも顔を出さない。経営は支配人に全て任されていた。
『ことばにはかんじょうがあるんです』
夢の中で小さなツィーリャが言う。その横顔は年より随分と大人びて見えた。もしかしたらクレイアよりも。
『かんじょうのこもったことばがすきです。歌にするのはもっとすきです』
そう言ったツィーリャのために作ったのがあの籠。『カナリア』という店だった。クレイアは他に方法を知らなかったので、随分汚い店になってしまったけれど、ツィーリャはその籠の中で嬉しそうに歌ってくれた。
『言葉には感情があるんですよ』
そうだと言うならクレイアは言葉を発すまい。この感情について、何も言葉にはするまい。
クレイアにもわからないのだ。この気持ちが愛なのかどうか。
亡くして痛いだけの感情なら、言葉を忘れよう。もう今更、気持ちに名前を付けるのはよそう。
彼はこれからツィーリャなしで生きていかなければならないのだから。
耳に残るのはツィーリャの澄んだ歌声だけでいい。
恋の始まりを歌ったあの歌。あれが一番美しかった。
手許に残された侍女の手紙の数々は、読まずに箱ごと暖炉に放り込んだ。季節はもう春だが、クレイアの部屋は朝晩には特に冷え込む。暖炉の熾火はまだそのままだ。
そこに放り込まれた手紙は黒と赤の縁取りに見る間に焼かれて灰になっていった。
ツィーリャの救出の計画を書いたという手紙も一緒に焼いた。全て、全て。
一緒にクレイアの心の空洞も焼いてしまった。空洞は炎に舐められて跡形もなく消えてしまった。
全て、全て。