↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
地球と二世界往復サバイバル 〜 前世の異世界へ帰還したら、魔素欠乏症が治った件 〜  作者: Fランク冒険者


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/23

二つの世界の境界線と『次元渡り』

 1日1話公開予定です。

 呼吸が、できない。


 肺の奥に、ガラスの破片を押し込まれたような痛みが走る。必死に空気を吸い込もうとしているのに、喉を通ってくるのは冷たい感触ばかりで、肝心の空気が肺に届いていないようだった。


「はっ……ぁ、くっ……ふぅ……っ!?」


 深夜一時を過ぎた頃、俺はワンルームの床に倒れ、身動きひとつ取れずにいた。


 全身から嫌な脂汗が噴き出している。心臓は今にも破裂しそうなほど激しく脈打ち、手足からは急速に力が抜けていく。指先を動かしようとしても、まるで自分の身体ではなくなったかのように反応が鈍かった。


 玄関の鍵を閉め、靴を脱ごうとしたところまでは覚えている。そこから先は、床に倒れ込むまでの記憶が曖昧だった。


(ああ……またかよ。)


 苦しい息の合間に、俺は心の中で苦笑した。


(参ったな。今日はちょっと頑張りすぎたか?)


 東雲葵(しののめ・あおい)、二十三歳。都内の小さなIT企業で働く、ごく普通のプログラマーだ。


 ただし、昔から原因不明の体調不良に悩まされてきた。


 赤ん坊の頃は特に問題もなかったらしい。ところが、成長するにつれて少しずつ体力が落ちていった。小学生の頃には走るだけですぐに息が上がり、中学に入る頃には体育の授業を見学することも珍しくなくなった。


 大人になってからも状況は変わらなかった。病院で検査を受けても、決定的な原因は見つからない。医師からは自律神経の乱れや慢性的な疲労などを指摘されたが、薬を飲んでも体調が劇的に改善することはなかった。


 それでも、人生を諦めるつもりはなかった。


 体が弱いなら、頭を使えばいい。人並みに動けないなら、できる範囲で工夫すればいい。


 学生時代は友人たちと文化祭の準備に熱中したし、就職してからも、周囲に助けられながら仕事を続けてきた。体調を崩して迷惑をかけることもあったが、同僚たちは必要以上に俺を責めたりしなかった。


 だからこそ、俺もできる限り応えたかった。


(……とはいえ、さすがに今回はきついな。)


 床に頬を押しつけたまま、どうにか呼吸を整えようとする。


 しかし、身体は言うことを聞かなかった。


 指先が冷たくなり、視界の端から黒い靄が広がっていく。部屋の輪郭がぼやけ、心臓の鼓動だけが嫌にはっきりと感じられた。


(これ、本当にまずいんじゃないか!?)


 今までにも、動けなくなるほど体調が悪化したことはあった。しかし、今回は明らかに様子が違う。


 このまま意識を失ったら、次に目を覚ませる保証はない。


(冗談じゃないぞ……! まだ二十三歳だぞ、俺!)


 やりたいことは、いくらでもある。


 友人たちと遊びたい。仕事だって、もっとできるようになりたい。いつか自分の力で何かを作り上げてみたい。


 こんなところで終わるなんて、冗談じゃない。


 その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 記憶の底から、誰かの叫び声が蘇る。


『――おい、アレン。しっかりしろ! 魔素濃度が急低下しているぞ!』

『退避だ! この地下階層には大気中の魔素《マナ》が存在しない。長く留まれば、魔素欠乏症《マナ・ストーヴィング》で命を落とすぞ!』


(……え?)


 聞き覚えのない声のはずなのに、なぜか懐かしい。


 いや、違う。


 俺は、この声を知っている。


 泥と鉄の臭い。湿った石壁。暗闇に浮かぶ魔法陣。手に握った短剣の重み。そして、身体の内側を巡る温かく力強いエネルギー。


 冒険を共にした仲間たちの顔が、次々と脳裏に浮かんだ。


(なんだ、これ……。俺は、こんな場所に行ったことなんて……。)


 記憶が流れ込んでくる。


 広大な大陸。城塞都市。冒険者ギルド。魔物が徘徊する迷宮。そして、魔法が日常に存在する世界。


 そこを駆け回っていた、一人の男の人生。


 名前は、アレン。


 危険な場所へ足を踏み入れ、依頼をこなし、失敗すれば逃げる。そんな日々をどうにか生き延びてきた、ひとりのD級冒険者だった。


 その男の記憶が、俺の中にあった。


(俺が……アレンだった?)


 信じられるはずがない。


 それなのに、初めて短剣を握った日の感触も、迷宮で仲間と交わした会話も、命からがら逃げ帰った夜の悔しさも、まるで昨日のことのように思い出せる。


 そして、俺は一つの可能性に思い至った。


(魔素……!)


 前世の記憶によれば、アルヴェリアの大気には魔素が含まれている。生物はそれを体内に取り込み、魔力へと変換する。アレンの身体も、その仕組みを前提としていた。


 だが、地球には魔素がない。


 もし、生まれ変わった俺の身体が魔素を必要とする性質を引き継いでいたとしたら。成長するにつれて体内の魔素が減少し、それが幼い頃からの体調不良につながっていたのだとしたら。


 病院で検査を受けても原因が見つからなかったことも、今の異常な衰弱も、説明がつく。


 もちろん、確かめたわけではない。今の俺に分かるのは、そう考えれば辻褄が合うということだけだ。


(俺の身体に必要なものが、この世界にはなかったのか……?)


 原因が分かったところで、苦しさが消えるわけではない。


 むしろ、状況は最悪だった。


 俺の身体が本当に魔素を必要としているのなら、魔素のない地球で生き続けることには限界がある。そして今、身体はその限界を迎えようとしていた。


(どうする!? 何か方法はないのか!)


 必死に前世の記憶を探る。


 魔法の扱い方。身につけていたスキル。冒険者として生き延びるために覚えた知識。


 今の俺に使える可能性があるのは、『アイテムボックス』と『短距離転移』だった。


 アイテムボックスは、荷物を異空間に収納する能力。短距離転移は、自分の身体を数メートル先へ瞬間的に移動させる能力だ。


 どちらも、世界を越えるためのスキルではない。


 特に短距離転移は、発動に魔力を必要とする。今の俺に残された魔力は、ほとんどなかった。


(くそっ! 普通に使ったんじゃ、何もできないまま終わる。)


 スマートフォンまで、あと数歩。


 たったそれだけの距離が、今の俺には果てしなく遠かった。指先に力を込めても、床を引っかくだけで身体は動かない。


(救急車……。誰か、呼んでくれ!)


 声にならない叫びが、頭の中を空回りする。


 心臓が大きく跳ねた。胸の奥が締めつけられ、全身からさらに力が抜けていく。


(嫌だ! まだ死にたくない!)


 仕事も、友人との時間も、これからやりたいことも、何ひとつ手放したくなかった。


 前世では危険な依頼を受けながらも、どうにか生き延びてきた。知識を蓄え、工夫を重ね、窮地を切り抜ける方法を探してきたはずだ。


 ならば、今回だって何かある。


 何か一つでも、使えるものがあるはずだ。


 そのとき、記憶の底に沈んでいた言葉が浮かび上がった。


 ――魔力が尽きたなら、別のものを使えばいい。


(……何だ? 何を使うんだ?)


 誰の言葉だっただろう。


 冒険者仲間の一人だ。迷宮から帰還した夜、焚き火を囲んでいたときに聞いた話だった。あのときは危険な技の話として聞き流していた。使う機会などないと思っていたし、実際、使いたいとも思わなかった。


 だが、今は違う。


(思い出せ! 頼むから、思い出せ!)


 視界が狭まっていく。意識が途切れかけるたび、言葉の端が闇に沈んだ。


 そして、ようやく記憶がつながった。


 ――魔力が足りないなら、命を燃やせ。


(そうだ!)


 魔力の代わりに生命力を消費すれば、スキルや魔法を発動できる。


 ただし、それは禁じ手に等しい。


 生命力は、体力とは違う。休めば回復する疲労とは違い、命そのものを削って力に変える。制御に失敗すれば、術が発動する前に死ぬことさえある。


 あの仲間は、最後に念を押していた。


 ――どうしても死にたくないとき以外、絶対に使うな。


(……なるほど。今が、そのときかよ。)


 こんな形で、あの忠告を思い出すことになるとは。


 笑いたくなったが、もう笑う力も残っていなかった。


 選択肢はない。何もしなければ、俺はここで死ぬ。試して失敗しても死ぬかもしれない。


 なら、わずかでも生き残る可能性がある方に賭ける。


 問題は、どのスキルを使うかだ。


 アイテムボックスでは意味がない。道具を取り出したところで、魔素がないという問題は解決しない。


 残るのは、短距離転移。


 本来なら数メートルを移動するだけの能力だ。世界を越えることなどできるはずがない。まして、地球からアルヴェリアへ戻れる保証など、どこにもなかった。


 それでも、転移先を指定する仕組みそのものを変えられたらどうだろう。


 距離ではなく、場所を。今いる世界ではなく、前世の記憶にある世界を。


 魔素の満ちた場所へ戻ることができれば、この身体を救えるかもしれない。


 無謀な賭けだった。


 転移先を間違えれば、壁の中に埋まるかもしれない。スキルそのものが発動しない可能性もある。生命力を使い切れば、移動に成功したところで命が尽きる。


 それでも、ここに残るよりはいい。


(やるしかない!)


 俺は残された力を振り絞り、前世の記憶にあるガレリアの隠れ家を思い浮かべた。


 魔素に満ちた空気。土の匂い。木々のざわめき。冒険者として歩いた大地。


 帰りたい。


 生きたい。


(頼む! 俺を、あの世界へ連れていってくれ!)


 短距離転移の術式を思い描き、移動先を指定する。


 いつもなら、近くの空間を選ぶだけでよかった。だが、今回は違う。俺は距離を延ばすのではなく、転移先そのものを世界の向こう側へと広げようとしていた。


 魔力は、ほとんど残っていない。


 だからこそ、生命力を代償にする。


 胸の奥で、何かが燃え上がった。


 痛みが全身を貫く。身体の内側から、命を無理やり引き剥がされるような感覚が走った。


(くっ! 持ってくれよ!)


 これが生命力を代償にするということなのか。


 後悔する暇もなかった。


 視界が白く染まり、身体の感覚が消えていく。


 それでも、俺は最後まで行き先を思い描き続けた。


 次の瞬間、意識は闇に落ちた。


 ◇


「がはっ!」


 背中に硬い床の感触が走った。


 俺は激しく咳き込みながら身体を丸めた。肺が痛み、全身が震えている。それでも、今度は空気が肺に入ってきた。


「はっ……。はぁっ!」


 何度も息を吸い込む。


 苦しさは残っていたが、さっきまでのように空気が入らないわけではない。吸い込むたびに、身体の奥へ何かが満ちていく。


 魔素だ。


 大気中の魔素が体内へ取り込まれ、魔力へと変換されている。枯れ果てた水路に水が流れ込むように、身体の隅々へ力が戻ってくるのが分かった。


「……助かった、のか?」


 俺は床に横たわったまま、周囲を見回した。


 見覚えのある岩壁。壁に埋め込まれた淡い緑色の魔導結晶。岩窟の一部を削り、居住空間に整えた部屋。埃をかぶった机と古びた椅子。隅には、かつて使っていた道具をしまっていた場所がある。


 ここは、ガレリアの近郊に構えた俺の隠れ家だった。


 自然の岩山にできた洞窟を改装したもので、外から見ただけでは人が住んでいるとは分からない。必要な場所だけを掘り広げ、自然の岩壁をできるだけ残してある。入口には幻影の魔道具を設置し、岩肌や周囲の植生に溶け込むように景色を偽装していた。


 場所を知らない者が近くを通りかかっても、入口を見つけるのは難しい。


 冒険者として活動していた頃、街の宿だけでは落ち着かず、ここを拠点にしていた。


(本当に……戻ってきたんだ!)


 思わず笑みがこぼれた。


 俺は生きている。


 何年も原因の分からない体調不良に苦しめられてきた。その理由が本当に魔素の不足だったのかは、まだ断定できない。それでも、今この場所で呼吸ができていることには、確かな意味があった。


「はは……。危なかった。今のは、本気で死ぬかと思ったぞ。」


 額の汗を拭う。


 いや、実際に死にかけていたのだ。笑って済ませられる話ではない。


 それでも、今は生きている。


 それが何よりもありがたかった。


 しばらく横になって呼吸を整えたあと、俺は壁に手をついてゆっくりと立ち上がった。膝はまだ震えていたが、何とか身体を支えられる。数歩歩いてみると、少しずつ感覚も戻ってきた。


 魔素の補給は続いている。


 少なくとも、この世界なら身体を維持できる可能性がある。


(よし。まずは状況確認だ。)


 俺は一度深呼吸をして、気持ちを切り替えた。


 身体の状態を確認し、隠れ家の安全を確かめる。周囲に魔物がいないか、外の様子はどうなっているのか。地球へ戻る方法も調べなければならない。


 やるべきことはいくらでもある。


「よし……。『ステータス』!」


 意識を集中させると、視界の前に青白い文字が浮かび上がった。


 > 【名前】葵・シノノメ(アレン)

 > 【種族】人間

 > 【属性】ニュートラル

 > 【職業】斥候(スカウト)

 > 【レベル】1

 > 【HP】120 / 120

 > 【MP】18 / 85

 > 【ATK】12

 > 【DEF】12

 > 【MATK】18

 > 【MDEF】14

 > 【STR】12

 > 【VIT】12

 > 【AGI】12

 > 【INT】15

 > 【MND】14

 > 【DEX】13

 > 【LUK】15

 > 【所持スキル】

 > ・『短剣術』Lv1

 > ・『アイテムボックス』Lv1

 > ・『次元渡り』Lv1

 > ・『魔素吸収・魔力変換』Lv1

 > ・『気配察知』Lv1

 > ・『索敵』Lv1

 > ・『隠密』Lv1

 > ・『追跡』Lv1

 > ・『罠感知』Lv1

 > ・『危険察知』Lv1

 > ・『野営術』Lv1

 > ・『採集』Lv1

 > ・『解体』Lv1

 > ・『地図作成』Lv1

 > 【状態】

 > ・魔素充填中


(……ん? 『次元渡り』?)


 俺は表示されたスキル名を見つめた。


 さっきまで『短距離転移』だったはずだ。どうやら、死の瀬戸際で術式を無理やり拡張した結果、能力そのものが変化したらしい。


 それに、スキルのレベルはすべて1になっている。


 前世で身につけたスキルも例外ではない。名前や能力の記憶は残っていても、積み重ねてきた熟練度までは引き継がれていないようだ。D級冒険者として活動していた頃の技量を、そのまま使えるわけではないらしい。


 なぜ世界を越えられたのか。生命力をどれほど消費したのか。そして、もう一度使えるのか。


 分からないことは多い。


 だが、一つだけ確かなことがある。


 俺は地球からアルヴェリアへ渡った。


「すごいな……! 世界を越えるスキルって、どういう理屈なんだよ!」


 思わず声が弾んだ。


 危険な経験だった。もう二度と、あんな無茶はしたくない。


 それでも、この能力が使えるなら、俺の人生は大きく変わる。


 地球には現代の技術がある。医療も、機械も、魔法のない世界だからこそ発達した知識もある。


 アルヴェリア(この世界)には魔素があり、魔法があり、前世の記憶がある。


 どちらか一方を諦める必要はないのかもしれない。


(地球で仕事を続けながら、こっちでも暮らせる……?)


 そう考えた途端、胸の奥が熱くなった。


 今までは、体調を崩さないようにするだけで精いっぱいだった。予定を立てても身体がついてこない。やりたいことがあっても、諦めなければならないことが多かった。


 だが、これからは違うかもしれない。


「よし! せっかく生き延びたんだ。これからは、もっと欲張って生きてやる!」


 俺は拳を握りしめた。


 まずは身体を休ませ、それから隠れ家を点検する。自分の能力を把握し、地球へ戻る方法も安全に検証しなければならない。


 焦る必要はない。


 生き延びたのだから、今度こそ慎重に進めばいい。


 ◇


 どれほど休んでいただろうか。


 身体の震えが落ち着き、立ち上がってもふらつかなくなった頃、俺は隠れ家の外へ出てみることにした。


 入口に設置した幻影の魔道具は、今も正常に作動しているようだった。


 俺が仕掛けに意識を向けると、周囲の景色に重ねられた幻影がわずかに揺らぐ。外からは岩肌の一部にしか見えない場所に、隠れ家へ続く通路が口を開けていた。


 そのまま幻影を抜け、外へ出る。


 ひんやりとした森の空気が頬を撫でた。


 目の前には、木々が幾重にも重なる深い森が広がっている。太い幹に絡みつく蔦。足元を覆う下草。岩の隙間から伸びた根が、長い年月をかけて地面を押し広げていた。


 記憶にある景色と似ている。


 だが、どこか違う。


(……こんなに木が大きかったか?)


 隠れ家の周囲は、以前から森に囲まれていた。だが、記憶にある木々よりも幹が太く、枝葉も広く伸びているように感じる。足元の草もずいぶん深く、かつて通ったはずの小道は、ほとんど自然に覆い隠されていた。


 長い間、人の手が入っていなかったのだろうか。


 いや、単に俺の記憶が曖昧になっているだけかもしれない。


 何しろ、地球で過ごしていた間の記憶は二十三年分ある。前世の記憶が鮮明に戻ったとはいえ、すべてを正確に覚えているわけではない。


 それに、今は身体を取り戻したばかりだ。無理をして遠くまで行く必要はない。


 俺は隠れ家の周辺を確かめるため、慎重に歩き始めた。


 森の中には獣道のようなものがいくつもある。だが、かつて自分が使っていた道は、草木に覆われて判別しにくくなっていた。ところどころに倒木があり、岩の隙間から伸びた根が足元を塞いでいる。


 それでも、岩山の上へ続く道筋には覚えがあった。


 隠れ家は岩山の斜面に設けたものだ。周囲の森を抜けるには、まず岩場を登る必要がある。


 俺は手近な岩に手をかけ、足場を確かめながら登り始めた。


 思ったより身体は動いた。


 地球にいた頃なら、少し坂を上るだけでも息が切れていたはずだ。今も完全に回復したわけではないが、魔素を取り込んだことで、身体の奥に力が戻っている。


(これは助かるな。少なくとも、歩くことに不安を感じなくて済みそうだ。)


 岩場を登るにつれて、周囲の木々が少しずつ低くなっていく。途中には、風雨で削られた岩肌や、斜面に根を張った低木があった。


 何度か足を止めて呼吸を整えながら、俺はさらに上を目指した。


 やがて、木々の間隔が広がり、視界の先に空が見えるようになった。


「おお……!」


 最後の岩を越えたところで、俺は思わず足を止めた。


 眼下には、広大な森が広がっていた。


 木々の海の向こうには、草原らしき場所が見える。そのさらに先、地平線に近いところに、人工物と思われる影があった。


 城壁だ。


 遠すぎて、形もはっきりとは分からない。かすんだ景色の中に、横に長く伸びた線が見えるだけだった。


 その内側には、いくつかの建物らしい影が重なっている。あれが街なのだろう。


(ガレリア……だよな?)


 前世の記憶にある城塞都市の位置と一致する。


 ただ、ここからでは細かな様子までは分からない。城壁の高さも、門の位置も、街の建物の形も判別できなかった。まして、人の姿など見えるはずもない。


 風の音と、森の中から聞こえる鳥の声だけが耳に届いている。街の喧騒も、機械の音も、何ひとつ聞こえない。


 それでも、あの遠くに見える影がガレリアだと思うと、不思議な感慨があった。


 俺が暮らしていた街。


 冒険者として依頼を受け、仲間と酒を飲み、何度も命の危険をくぐり抜けた場所だ。


 帰ってきたのだ。


 そう実感すると、胸の奥が少し熱くなった。


 だが、同時に気になることもある。


 森の様子が記憶と違う。隠れ家へ続く道も、以前よりずっと自然に覆われているように見えた。木々の成長を考えれば、かなりの年月が経過しているのかもしれない。


(俺が地球で過ごしている間に、こちらでも時間が流れたのか?)


 それとも、単に記憶違いなのだろうか。


 今の段階では判断できない。


 遠くの街を眺めても、答えは見つからなかった。


 まずは隠れ家を使える状態に整え、身の回りのことを確認する必要がある。街へ行くのは、その後でも遅くない。


 俺はもう一度、遠くの城壁らしき影を見つめた。


「待ってろよ。いずれ、ちゃんと確かめに行くからな。」


 そう呟いて、岩場を下り始めた。


 ◇


 隠れ家へ戻った俺は、幻影の向こうへ入り、岩窟の内部へと戻った。


 改めて室内を見回す。


 自然の岩窟を改装したこの場所には、以前使っていた机や椅子、棚などが残っていた。壁に埋め込まれた魔導結晶も、かすかに光を保っている。


 ただ、全体に埃が積もり、長い間使われていなかったことは明らかだった。


 食料や日用品の類は見当たらない。寝具もない。水場の設備は残っているが、今すぐ使えるかどうかは分からなかった。


(まずは、ここを生活できる状態にしないとな。)


 幸い、俺には地球へ戻る手段がある。


 必要な物資は向こうで調達すればいい。こちらの世界で一から揃えるより、ずっと手っ取り早いはずだ。


 それに、地球での生活を完全に捨てるつもりもない。


 仕事のこともあるし、会社へ連絡を入れて、しばらく休めるようにしておく必要がある。次元渡りの使い方も、無理のない範囲で確かめなければならない。


 考えることは多いが、今は焦らなくていい。


 俺は椅子に腰を下ろし、しばらく室内を眺めた。


 死にかけた末に、もう一つの人生を取り戻した。


 地球では原因の分からなかった体調不良も、魔素のあるこの世界なら改善できるかもしれない。もちろん、まだ確証はない。それでも、試してみる価値は十分にある。


 そして、ここには前世の記憶がある。


 かつて歩いた街も、見たことのない場所も、これから自分の足で確かめられる。


「さて……。まずは生活の準備からだな。」


 俺は立ち上がり、隠れ家の中を片付け始めた。


 新しい生活は、まだ始まったばかりだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。