序章「ラジオとキッチン」
夕方になると、キッチンからいい匂いがした。
お母さんが夕ご飯の支度をしている時間だった。私はランドセルを玄関に置いて、手を洗って、キッチンに向かった。それが、私の一日の終わりだった。
お母さんの背中に向かって言う。「お母さんあのね」
お母さんは振り返らないまま、「なに?」と言う。でもその「なに?」は、ちゃんと聞いてるよという意味だった。私はそれを知っていた。
ラジオが流れていた。何の番組だったか覚えていない。でもあの音が、あの空気が、私にとっての安全な場所だった。
兄が3人いた。みんな私より大きくて、賑やかで、お母さんを困らせることが得意だった。私はその度に、お母さんの顔を見ていた。疲れた顔をするたびに、私が喜ばせてあげなきゃと思った。末っ子だったから、というより、そうしたかったから。お母さんのことが、好きだったから。
あのキッチンにいる時間が、一番好きだった。
それが変わったのは、小学2年生の春だった。
好きな人ができた。初めてだった。名前を思い出すだけで、胸がふわっとした。誰かにこの気持ちを話したくて、話せる人はお母さんしかいなくて、車で移動中に、勇気を出して言った。
「お母さん、好きな人ができた」
お母さんは笑った。
声を上げて、おかしくて仕方ないという感じで、笑った。
私は窓の外を見た。何も言えなかった。恥ずかしかった。ショックだった。勇気を出して話したのに、という気持ちが、行き場をなくしてそのまま胸の中に沈んでいった。
お母さんに悪意はなかったと思う。今はそう思える。でもあの日の私には、それがわからなかった。
それからお母さんに相談するのをやめた。
友達とケンカして仲間外れにされた時も、先生に誤解されてみんなの前で怒られた時も、ブラジャーが気になり始めた時も、生理がなかなか来なくて心配した時も、男の子に告白されてどうしていいかわからなかった時も、全部1人で考えた。
誰にも言わなかった。言えなかった。
キッチンでお母さんの背中に向かって「お母さんあのね」と言える話は、だんだん少なくなっていった。
でも私はまだ、お母さんのことが好きだった。
好きだったから、喜ばせたかった。喜ばせるために、いい子でいた。いい子でいるために、本当のことを言わなかった。
それが始まりだったと、今なら言える。
ラジオの音だけが、あの頃のまま、記憶の中で流れている。




