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ある猫の怪  作者: 香月日向
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後編

ばかでかい猫が暴れる話です。

 娘は毎晩のようにタマと散歩へ出掛けた。ほとんど帰ってこない陸軍旦那はそんなこと知る由もない。


 娘は楽しかった。同郷の、心を許せる友達に出会えて、何気ないことで笑いあえることがたまらなく嬉しかった。


 「こんなに笑ったのは久し振り。」


 娘は陸軍旦那に嫁いで以来、心から笑ったことなど無かった。笑顔の作り方は知っていても、笑い方は忘れていたのだ。


 「夜な夜なこっそり出掛けて、どうでもいいこと話して、笑って、帰って寝る。こんだけでも、私は幸せよ。タマちゃんありがとう。」


 おぼろ月を背に立つ、すっとしたタマの影に娘は言った。凛と澄んだ秋の空気を、娘の声が揺らす。


 しばらく、タマは動かない。代わりに風が萩野をざわざわとくすぐる。


 「わたしも、お姉さんと毎晩お散歩に行って、なんにも中身がない話をして、笑っていられるのがとっても幸せ。」


 風が吹く。雲が流れて月光が地上に降り注ぐ。


 タマの頬には、月光を反射する一粒が置かれていた。


 なぜタマが泣くのか、娘には分からなかった。しかし、今までの辛かったことを思うと、娘も自然に目の縁が熱くなった。


 幸せだった。タマと一緒にいられるのが。



 そんなある日。


 娘はいつものようにタマと秘密のお散歩に出掛けた。野山を散策しながら、また意味のない話を続けた。


 話はいつの間にか、生活に関する愚痴に変わっていた。と言うのも、娘はここ最近家事を疎かにするようになっていて、それを姑にきつく言われたことを不服に思っていたからだ。


 「姑さんったら『お友達付き合いもいいですけど、家のことをほったらかしにするなら止めなさい』だって。」


 「いやぁ、姑さんの言い分ももっともだと思うけど……」


 「でもあんな言い方しなくてもいいと思わない?」


 「それは……」


 何時もタマと話すのに夢中になって、ついつい帰りが遅くなってしまう。帰りが遅くなれば寝るのも遅くなり、当然起きるのも遅くなる。この時代、嫁は家の誰よりも早く起きて家事をするのが当たり前とされていた。娘の寝坊は姑には容認しがたいものに違いなかった。


 「それでさ……」


 「おい!」


 娘が更なる愚痴を発しようとしたとき、背後から男の声がした。


 「そんなところで何してる?」


 姿を表したのは陸軍旦那だった。


 「旦那さま!どうしてここに?帰られるなら言ってくれればお食事もご用意したのに?」


 「なんじゃ?わしは家に帰るのに嫁の許可がいるんか?」


 「そういうことではなくて……」


 「うるせぇ!黙れや!」


 陸軍旦那の平手打ちが娘の頬を捉える。娘は顔をおさえて後ずさる。


 陸軍旦那は明らかに酔っていた。足取りも覚束ない。


 酒に呑まれた人は、感情がおさえられないものだ。陸軍旦那の怒りは急激に頂点に達する。


 「おっ母がいっとったど!最近寝坊ばかりだと。夜中に出掛けて遊んどったら寝坊もするわな!」


 「ごめんなさい旦那さま!」


 「ええぃうるせぇ!わしは陸軍の士官様じゃ!その嫁なら!わしが何時帰ってきてもいいようにしておけ!」


 感情のままに、陸軍旦那は娘を殴った。


 「お前のような出来損ない!嫁にもらったわしがアホやった!殺してやる!お国のために働く旦那をぞんざいにする嫁など殺してやる!」


 破綻していた。破綻した理論と感情のままに、陸軍旦那は腰の軍刀を抜きはなった。


 陸軍旦那は月光に輝く軍刀を振り上げる。


 「お止めください!旦那さま!どうか、この不出来な嫁をお許しください!」


 「ならん!」


 いくら陸軍の力が強い時代でも、殺人を犯せば軍人でも普通に裁かれる。しかし今の陸軍旦那には常識的判断能力などなかった。


 陸軍旦那が刀を降り下ろす。娘は自分の死を覚悟して目を閉じた。


 衝撃が娘の体を突き抜けた。しかしそれは陸軍旦那の刀によるものではなかった。横方向からの衝撃に弾き出され、次の瞬間には木の幹に叩きつけられた。


 この状況を助かったと言うには少々疑問がのこるが、娘はなにかに弾き飛ばされ、陸軍旦那の凶刃から逃れることができた。


 地面に転がり、娘は激しく咳き込む。全身が痛む。


 娘が状況を理解する前に、聞いたこともないくらいの絶叫が爆発する。娘は両耳を塞ぎながら顔を上げる。


 見ると、陸軍旦那の腕にタマが噛みついていた。タマの耳のように見える髪の束が生き物のように動いて、尻からは細長い毛の塊のようなものがのび、興奮したように激しく波打っていた。


 「た……タマちゃん?」


 娘を弾き飛ばし、陸軍旦那の刀から守ったのは、タマだった。信じられないことだ。あの小さな少女の体から、娘を弾き飛ばすほどのすさまじい力が発されたとは。


 タマが噛みついている陸軍旦那の腕は、奇妙な角度に曲がり変形していた。


 「放せバケモノ!」


 陸軍旦那が噛まれていない方の手に軍刀を持ち替え、タマを斬りつける。しかしタマは驚くほどの俊敏さで回避する。回避した後、一瞬だけタマの顔が大きく膨らんだように見えた。


 陸軍旦那の腕が切断された。顔が膨らんだように見えたのは、タマが顎の筋肉に力を込めたからだろう。強靭な顎の筋肉をもって、タマは陸軍旦那の腕を食いちぎったのだった。


 激しく出血する腕をめちゃめちゃに振り回し、陸軍旦那は転げまわる。


 「お姉さん……ごめんね……」


 タマが呟く。何故謝るの。タマちゃん、あなたは一体……。声にならない問いが娘の脳内に沈澱していく。


 状況は娘の理解を越えていた。


 少女の姿だったタマが、一瞬にして膨張し、みるみるうちに体毛に覆われた獣に変貌していった。


 娘の脳内に沈澱した疑問が、一気に霧散した。


 「タマ……ちゃん……お前!」


 猫だった。娘が飼っていたキジトラ猫が、タマの正体だったのだ。


 タマ、正体を現した巨大な猫の怪は、陸軍旦那の頭をくわえると、山中に陸軍旦那を引きずっていった。



 娘は家に帰り、ことの次第を話した。しかし誰一人として娘の話を信じるものは居なかった。しまいには、娘は気が触れたのだと言われ、座敷牢に閉じ込められることになった。


 娘が座敷牢に入った後、山中でずたずたに引き裂かれた陸軍旦那が見つかった。村の人々は人食い熊の仕業だとして、猟友会と憲兵に駆除を依頼した。


 娘が狂い、陸軍旦那が見つかって、さらに一週間が過ぎた頃。

 猟友会と憲兵が山の中で、陸軍旦那を殺した獣を仕留めた。獣は憲兵や猟師を数人食い殺し、十人以上に重傷を負わせた。何十発もの鉄砲玉を体に撃ち込まれてようやく倒れたその獣は、巨大な猫だった。


 昔々、ある村の、ある猫の怪の話だった。(終)

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