第95話 工房に届いた診断料
銀貨が三枚、銅貨が六枚。
行商人が机へ並べた金は、請求書に書いた額と一枚も違わなかった。
「アルバ冒険者組合から。受け取りを頼むよ」
最後の銅貨が、少し傾いて転がりかけた。
俺は指先で止めた。
旧水守門を開けたわけではない。
第二座を取り替えたわけでもない。
それでも、金は届いた。
「不足はありません」
ミラが金額と支払書を確かめ、受領の控えを俺へ向ける。
「エイルさん、署名を」
筆を取る。
請求した時の名前と、同じ名前を書けばいい。
たったそれだけのことなのに、受け取った銅貨の冷たさが、指に残っていた。
◇
最初の観察日から数えて、十三日目だった。
九日目の夕方に出した請求書は、十一日目に組合へ届いていた。
支払書の日付も、その日になっている。
リーネさんと、組合の会計係の確認印。
封じた金を預かった行商人の名。
紙をたどれば、俺たちの請求がどこを通って帰ってきたか分かった。
朝の村の確認は、すでに済ませている。
井戸にも水車にも変わりはなく、工房の床下では、二つの寝石が近い音を返していた。
机にあるのは、新しい不調の知らせではない。
『旧水守門・七日間の記録照合および経過判断』
俺とミラで決めた仕事の名前が、支払書にも、そのまま書かれていた。
『報告書および作業内訳を確認。
請求額、銀貨三枚と銅貨六枚を承認』
工事費への書き換えはない。
交換部材費もない。
ただのお礼でも、次に何かを直すための前払いでもなかった。
「これで、今回の分はおしまいかい?」
行商人が聞く。
俺は支払書から顔を上げた。
「今回の診断料は、これで精算です。門の確認は続きます」
「なるほど。そっちの返事も持っていけばいいんだね」
「はい。受領書と、依頼への返答をお願いします」
ミラが用意した控えへ署名する。
『リント村修理工房 エイル』
書き終えた紙を渡す時、口から出かけた「すみません」を飲み込んだ。
「ありがとうございます。確かに受け取りました」
行商人は頷き、控えを自分の帳面へ挟んだ。
「では、帰りに返答を受け取るよ。昼過ぎまでは、村で商いをしているから」
入口で待っていたポロが、道を空けた。
荷車の車輪が遠ざかる。
机の上の九枚は、まだそこにあった。
◇
「ちゃんと、同じ名前だ」
ポロが支払書を覗いていた。
「何の名前ですか?」
「工房の仕事。石を替えたって、書き直されてない」
俺も、もう一度その行を見た。
記録照合。
経過判断。
その言葉の横に、代金が記されている。
「はい。した仕事のまま、受け取ってもらえました」
ポロは満足そうに頷いた。
新しい炭筆で、入金日の小札を書く。
しゃ。
先日渡したばかりの筆は、まだ持ちやすい長さを保っている。
ミラは、手元の帳面に受領日を書き込んだ。
「紙と墨の立て替え分を戻します。作業分の割り振りは、控えどおりに」
過去に精算した仕事を、もう一度数えない。
今回の作業をした者の分は、消さない。
俺の名前の横にも、金額が残っている。
「エイルさんの分も、これで」
「はい」
短く答えると、ミラの筆も止まらなかった。
以前なら、俺は自分の欄だけを避けて見ていたかもしれない。
今日は、そこに印がつくまで見ていた。
ハンナさんが湯の入った器を運んできた。
ガンツさんは椅子へ腰を下ろすと、入金の控えを一度読んだ。
「受け取ったな」
「はい」
「なら、その金を全部、見えないところへしまい込むなよ」
俺は銀貨を見る。
記念に残しておきたい気持ちはあった。
けれど、短くなった筆や、薄くなった紙束を思い出す。
「使う分も、決めます」
「それでいい」
ガンツさんは、器を両手で持った。
誰も、もっと大きな額にすればよかったとは言わなかった。
俺も、少なく請求しておけばよかったとは思わなかった。
◇
支払書のほかに、リーネさんの手紙が入っていた。
十四日目の旧水守門の点検は、予定どおり行うこと。
観察結果をまとめ、帰還後の道具確認を添えて送ること。
そして、別紙で出した見積もりへの返答。
『十四日目の記録を受領した後の比較と再判断、一回分を依頼します。
別紙の見積もりに記載された範囲と金額でお願いします』
ミラは、その紙を今回の支払書と分けた。
「次の仕事も、依頼が来ました」
「保管の方は?」
「継続保管と、それ以外の追加作業は、まだ相談中です。今回の入金には含まれていません」
俺は頷いた。
ガルドさんの元の素材袋は、木枠の中にある。
左底の縫い目に残った細粒Bも、そのままだ。
乾布四も広げていない。
替え石は床下、二枚の座合わせ片は防護鐘台に残している。
金が届いたからといって、それらを動かしてよいことにはならない。
手紙には、短い追記があった。
『良い変化も、悪い変化も、前の記録と異なる点はそのままお知らせください』
俺は、その一行を読み直した。
代金を受け取ったのだから、相手を安心させたい。
明日の点検でも、冷えが戻っていなければいい。
それは、本当の気持ちだった。
だが、まだ届いていない記録へ、願っている答えを書いてはいけない。
返答用の紙に、俺は二つの文を分けて書いた。
『七日間の記録照合および経過判断の代金を受領しました』
『十四日目の記録を受領後、七日目との相違と、確認できた範囲を報告します』
ミラが読み、頷く。
「次の依頼は、この内容で受けるのですね」
「はい」
今度は、分からなかったら代金を受け取れない、とは言わなかった。
分からない箇所が残れば、その場所を示す。
前と違うものが届けば、前の答えを守るために隠さない。
代金を受け取ったあとも、それは変えない。
◇
昼前、井戸端に荷車を止めていた行商人のところへ行った。
返答の封書は、ミラが受領書の控えと照合してくれた。
今回の精算と、次の依頼。どちらの話か、混ざらないように書いてある。
封書を渡したあと、俺は荷台の品を見た。
紙の束。
墨。
麻紐。
大小の針。
買い物をせずに戻ってもいい。
まだ工房には残りがある。
そう考えてから、紙束へ手を伸ばした。
「こちらを一束と、墨を一つお願いします」
使う前から、ぎりぎりまで減らす必要はなかった。
支払いを済ませ、品と釣りを受け取る。
ミラが決めた工房の予算から出す分だ。今回の請求へ、さらに足す金ではない。
工房へ戻ると、ポロが包みを見つけた。
「新しい紙?」
「はい。記録用です」
「まだ何枚か残ってたよ」
「残りがなくなる前に、買っておきました」
ポロは一枚だけ抜き、光にかざした。
端まで、何も書かれていない。
今まで、図を描き直す時には、書き損じの紙の裏を探すことが多かった。
残す記録と混じらないように、ミラが一枚ずつ確かめていた。
「失敗しても、次があるね」
「はい。合うように線を直すより、もう一枚に描いてください」
ポロは紙を重ね直した。
角をそろえる手つきが、少し丁寧になった。
ミラは買い物の控えを受け取り、入金とは別の行へ支出を記す。
金は減った。
それなのに、机の上には、明日使えるものが増えていた。
◇
昼の薄焼きは、いつもより少し熱かった。
ハンナさんが焼き上がった順に皿へ分けたからだ。
先に取ったポロが指を振り、ガンツさんに笑われる。
「慌てて食うな」
「冷めたら、硬くなると思って」
「指が先に負けるだろうが」
俺も皿を受け取った。
新しい紙は棚へ収め、墨も蓋を閉じてある。
預かり品から離れた机で、五人分の皿を並べた。
ミラは帳面を閉じてから席についた。
「今日は、エイルさんも先に食べてください」
「はい」
以前なら、あとで食べると言って、何か探したと思う。
昼の間にもう一度音を聞けば、少しでも先へ進める。
そう考えて、冷えた欠片をかじった日もあった。
今日は、そのまま一口食べた。
端は香ばしく、真ん中は柔らかい。
噛むと、麦の甘さが残った。
「受け取った顔に、なってきたね」
ハンナさんが言った。
「そんなに違いますか?」
「金を返しに走りそうな顔じゃ、なくなったよ」
俺は苦笑した。
返すつもりはなかった。
ただ、受け取った分以上に働いて埋め合わせなければ、と少し思っていた。
必要な仕事をしたから受け取った代金なのに、その代金のために、終わりのない仕事を足そうとしていた。
皿を置きかけた手を戻す。
もう一口、温かいうちに食べた。
◇
夕方、机の上には三枚の紙が残っていた。
今回の請求書の控え。
代金を受け取った記録。
十四日目の報告を待つ、次の依頼書。
ミラが最初の二枚を重ね、端へ受領の印を押す。
次の依頼書は、隣へ置いた。
「ここまでは済みました。次は、こちらです」
仕事の区切りが、目に見えた。
旧水守門の問題がすべて終わったわけではない。
それでも、引き受けた一つの仕事を終え、代金を受け取ることはできる。
続きがあるから、いつまでも前の仕事を終わらせないのではない。
俺は、入金の帳面にある自分の名前へ目を落とした。
この工房で受け取る金が、初めてなわけではない。
けれど、旧水守門へ一度も工具を入れなかった判断に、仕事の名前と代金が並んだのは初めてだった。
工房の床下から、石の音が返る。
こん。
……りん。
使われなかった替え石は、今日もそこにある。
銀貨を受け取ったからといって、違う音には聞こえなかった。
明日は十四日目。
アルバでは、セシアさんたちが予定どおり旧水守門を見る。
その結果がここへ届くのは、さらに後だ。
俺は、新しい紙を一枚取り出した。
『十四日目の観察報告との比較』
見出しを書き、その下を空けておく。
右の紙片は、また揺れるだろうか。
西の冷気は、どんな記録になって届くだろうか。
もし、前とは違っていたら。
俺は、その違いを書く。
診断料の受領印の隣で、次の報告を待つ紙は、まだ白かった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
請求書に書いた銀貨三枚と銅貨六枚が、工房へ届きました。
前回は、自分の仕事に値段をつける一歩。
今回は、その代金を受け取り、工房を続けるために使う一歩です。
紙と墨を補充すること。
温かいうちに食事を取ること。
一つの仕事を終え、次の依頼とは区切りをつけること。
どれも小さなことですが、エイルにとっては、働き続けるために必要な変化でした。
そして、代金を受け取っても、明日の結果を先に決めることはできません。
十四日目の点検で何が見つかるのか。
次は、アルバ側の観察へ戻ります。




