第82話 乾布四の木札
木札の裏には、三つの印があった。
床板を替えた年を示す刻み。
作業を担当した組の印。
そして、布を敷いた場所を示す一文字。
『東』
古い作業布管理帳に残された記録と、すべてが一致していた。
点検板の下にある黄土色の布は、何十年も前に見失われた四枚目の乾布である可能性が高い。
だが、布が何者か分かっても、まだ引き出すことはできなかった。
白い細粉は、布の表ではなく、折り目の下に残っていたからだ。
◇
朝、俺たちはいつもの順番で村の音を確認した。
井戸札は『使用できます』。
ハンナさんが白い器へ水を汲み、朝の光に透かす。
「濁りなし。匂いも味も、昨日と変わらないよ」
俺は井戸の縁へ手を置いた。
さら。
りん。
水脈石の音は澄んでいる。
水車小屋では、影車へ細い水を通した。
こ、と。
北結界石が応える。
りん。
水車本体にも、無理のない水量を流す。
こ、とん。
こ、とん。
二回転。
軸と軸受けの音に乱れはない。
挽き石から落ちた粉も、いつもと同じ粗さだった。
「井戸、水車、影車、粉、異常なし」
ミラが帳面へ記録する。
最後に、北結界石を確認した。
根元の湿りは、もう周囲の土とほとんど見分けがつかない。
石そのものの音。
りん。
……りん。
北側の石片裏に見つけた浅溝。
す。
……り。
中央奥に残っていた冷えの芯は、耳を澄ませても、ほとんど聞こえなかった。
……ん。
「北結界石。石音安定。浅溝の抜け音継続。冷えの芯、ほぼ消失」
ミラが朝の記録を締めた。
ガンツさんは結界石の座りを確かめる。
「追加処置なし」
「はい」
村の音は、今日も落ち着いている。
それを確かめてから、俺たちは工房へ戻った。
◇
工房の北側にある点検板は、昨日閉じた時と同じ状態だった。
二つの木栓。
溝へ戻された麻紐。
板縁の黒布。
低い棚も、布も、空箱も動かしていない。
床下では、白緻石が澄んだ音を返している。
こん。
……りん。
西の寝石。
ご、と。
東の寝石。
ご。
……ぐ。
中央の空気の道。
す。
そして、東側へ垂れた柔らかな音。
ふ。
……さ。
時々、小さな木札が寝石の側面へ触れる。
から。
昨日、点検板を開いて確認した木札の表には、こう書かれていた。
『乾布 四』
床板交換記録には、四枚の乾布を使い、三枚だけ回収したとある。
『東点検板下、布一枚見失う』
布の番号と、見失った場所は一致している。
だが、同じ番号の布が後の修理でも使われた可能性は残っていた。
「木札の裏面を確認する前に、札の付け方を調べます」
ミラが言った。
「裏を見れば早いんじゃない?」
ポロが聞く。
「先に何が刻まれているはずかを確認します」
「見えてから、合う記録を探すんじゃない?」
「はい。先に答えを決めないためです」
ポロは少し考え、頷いた。
「先に、きまりを見る」
ガンツさんも言う。
「札を見るために布を動かすな」
「はい」
点検板は、まだ閉じたままだ。
まず、工房奥に残る古い作業帳を調べる。
◇
ミラが見つけたのは、『作業布札控』と書かれた細い帳面だった。
表紙の角は丸く擦れている。
何度も開かれた記録らしい。
机を拭く。
乾いた布を敷く。
古い紙の埃が、ガルドさんの荷物袋へ混じらないよう、袋は別室の低い台へ木枠ごと残してある。
ミラは作業布札控を、左右から支える受け台へ置いた。
表紙を無理に開かない。
紙が自然に離れる分だけ、ゆっくりめくる。
最初の頁には、木札の付け方が図で残されていた。
『表』
『布の種』
『布の番』
表面には、用途と番号。
点検板の下で見つかった札にも、『乾布 四』とある。
次に裏面。
『上、年の印』
『中、組の印』
『下、置き場の字』
ポロが図を見た。
「裏に三つある」
「はい」
ミラが答える。
「床板交換の年に使われた乾布四なら、裏面にその年、作業組、東の配置印があるはずです」
帳面を床板交換記録の年まで進める。
乾布一。
配置、西。
乾布二。
配置、中央。
乾布三。
配置、北。
乾布四。
配置、東。
四枚とも、同じ年印と作業組印が記されていた。
年印は、小さな半輪の下に二本の短い刻み。
作業組印は、三枚の細い葉を束ねたような杉葉印。
配置印は、それぞれ西、央、北、東。
ポロが別の紙へ三つを描き写す。
半輪。
二本の刻み。
杉の葉。
東。
「木札の裏に、これがあったら同じ布?」
「同じ作業で使われた木札である可能性が高くなります」
ミラが答えた。
「布そのものも同じ?」
「木札が後で別の布へ付け替えられていなければ、です」
ポロが首を傾げる。
「付け替えることある?」
ミラは札控の注意書きを探した。
『布札、布とともに洗わず』
『布朽ちし時、札を外し、廃印を刻む』
『再用すべからず』
「布が使えなくなった場合、札には廃印を刻み、再利用しない決まりです」
「乾布四の札に廃印がなければ?」
「後の布へ使い回された可能性は下がります」
ガンツさんが言う。
「だが、決まりが必ず守られたとは限らん」
「はい」
ミラが記録する。
『乾布札は原則再利用禁止。
廃棄時、廃印を刻む。
現在の木札裏面および廃印は未確認』
ポロが大きな札を書く。
『木札を、見る』
『布は、まだ動かさない』
◇
点検板を開ける準備は、昨日と同じ条件で行った。
低い棚は動かさない。
床上の布と空箱も、そのまま。
直風なし。
上の小窓だけを開ける。
板の周囲へ黒い乾燥布を敷く。
落ちた埃と、床下にもともとある粉を混ぜないためだ。
見学者なし。
工房入口には、ポロの注意札。
『点検中』
『床を、ふまない』
『板の下へ、手を入れない』
ミラが開放前の音を記録する。
白緻石。
こん。
……りん。
西寝石。
ご、と。
東寝石。
ご。
……ぐ。
中央空隙。
す。
布。
ふ。
……さ。
木札。
から。
白色細粉。
き。
……りん。
「昨日の閉鎖後と、大きな変化なし」
ミラが書く。
ガンツさんが二つの木栓を半巡りさせる。
溝から麻紐が現れる。
紐へ細い木棒を通す。
俺とガンツさんで、左右を同じ速さで持ち上げた。
指一本分。
止める。
粉の移動音なし。
布の移動音なし。
次に、手の幅。
点検板の裏を受け台へ渡す。
向きを変えない。
床へ立てかけない。
小さな開口部が現れた。
白緻石。
二つの寝石。
中央の空気の道。
東側へ垂れた黄土色の布。
木札。
昨日と同じ位置だ。
「視認物、位置変化なし」
ミラとポロが、互いの紙を見ずに図を描く。
描き終えてから比べる。
布の折り目。
木札の向き。
白い粉の筋。
二枚の図は、ほぼ同じだった。
ガンツさんが言う。
「札を見るために鏡を差し込むな」
「はい」
用意した反射板は、開口部の内側へ入れない。
点検板の南縁、床上の観察位置に固定する。
そこから角度だけを変え、床下にある木札の裏を反射させる。
鏡の先端は、床下へ入らない。
布にも、木札にも、白緻石にも触れない。
ミラとポロは、反射板を別々の時間に見ることになった。
先にミラ。
ポロは机の反対側で、札控を閉じたまま待つ。
ミラは反射板の角度を少しずつ変えた。
木札の裏が、斜めに映る。
汚れ。
かすれた刻み。
小さな印。
見えた通りを描く。
先に札控の図を見た記憶があるため、合う形へ寄せないよう、格子ごとに線を写す。
描き終えた紙を伏せる。
次にポロ。
反射板の角度を元へ戻し、もう一度同じ位置から始める。
「見えた形だけ描いてください」
ミラが言う。
「何の印かは、まだ書かない」
「うん」
ポロは舌を少し出すようにして、真剣に線を写した。
半分の丸。
その下に、短い線が二つ。
中央には、三枚の葉のような形。
下には、一文字。
描き終える。
二枚の紙を並べた。
ミラの絵。
ポロの絵。
細かな線の太さは違う。
だが、描かれた形は同じだった。
半輪。
二本の刻み。
杉葉。
『東』
作業布札控に残された、乾布四の裏面記録と一致している。
さらに、札の端を確認する。
布を廃棄した時につける、斜め二本の廃印。
それは見当たらない。
「年印、作業組印、配置印が一致しています」
ミラが静かに言った。
「廃印も、見える範囲ではありません」
ポロの顔が明るくなる。
「なくした四枚目」
ガンツさんがすぐに言う。
「同じである可能性が高い、だ」
「うん」
ポロは言い直した。
「なくした四枚目の可能性が高い」
ミラが正式に記録する。
『木札裏面。
年印、半輪下に二刻み。
作業組印、杉葉形。
配置印、東。
作業布札控の乾布四記録と一致。
廃印、視認範囲になし。
床板交換時に見失われた乾布四と同一である可能性が高い』
◇
布の正体は、ほぼ絞れた。
次に見るのは、白い細粉の位置だった。
布は、東寝石の外側から中央空隙へ端だけを垂らしている。
露出している表面には、薄い灰色の木粉が乗っていた。
床板交換時に落ちた木屑。
後の年月で床板の隙間から入った埃。
そうしたものが混じっているように見える。
だが、白い細粉は表面には広がっていない。
折り重なった布の下。
下面と東寝石の側面の間。
そこに、細い一本の筋として残っている。
ミラが格子図へ位置を書き込む。
「白色細粉は、布の上面ではなく、折り目の下面側に集中」
ハンナさんが開口部の外から布を見る。
「上から降った木粉なら、布の表に乗るはずだね」
「床板交換時の木屑とは違いますか?」
ポロが聞く。
「少なくとも、同じ落ち方には見えないよ」
ハンナさんは答えた。
「でも、布が折れた後で隙間から入り込んだ可能性はある」
「いつついたかは、まだ分からない」
「そういうことだね」
俺は白い粉の音を聞いた。
き。
……りん。
軽く、澄んだ音。
ガルドさんの荷物袋にある細粒B。
きん。
……ぐ。
そちらには、重さを受けながら擦れた鈍い響きがある。
床下の白い粉には、その濁りがない。
床下の白緻石。
こん。
……りん。
鳴りの返り方は、こちらへ近い。
「床下の白色細粉は、細粒Bとは別の音です」
ミラが記録する。
「白緻石の粉ですか?」
「同じ石材とは断定できません。ただ、重さを受けながら擦れた音ではありません。乾いた緻密石が、表面をわずかに削られたような音です」
ガンツさんが白緻石の東端を見る。
「見える範囲に欠けはない」
「布の下は見えていません」
「そうだな」
白い粉の筋は、東寝石の上面から始まっているようには見えない。
白緻石の東端と、寝石の間。
保管石を置いた時に接触しやすい位置から、中央の息へ向かって伸びている。
「粉の筋は、東寝石の外側から中央空隙方向へ伸びています」
ミラが書く。
「布が空気を吸う位置と近いですね」
「はい」
俺は耳を少し移した。
粉の東端。
き。
中央。
……りん。
西へ行くほど弱くなる。
現在、石同士が擦れて粉を出している音ではない。
粉が増えている気配もない。
「古い粉です」
俺は言った。
ミラが顔を上げる。
「古いと分かりますか?」
「今も削れ続けている音がありません。粉そのものが乾き、音が落ち着いています」
俺は慎重に続けた。
「ただし、何年前の粉かは分かりません。白緻石を床下へ置いた時に出た粉かもしれません。後の床板交換時に何かが触れて出た粉かもしれません」
ミラが記録する。
『白色細粉。
現在進行する擦過音なし。
乾燥し、鳴り安定。
古い付着物の可能性。
発生時期、発生石材は未確認』
ポロが布の絵を描いた。
上面に灰色の点。
下面に白い細線。
『上のこな』
『下の白いこな』
『べつに、きろく』
◇
乾布四は、床下の息を塞いだ。
だが、同時に白い粉を覆い、長い間その位置を守った可能性もある。
布がなければ、粉は空気に流されていたかもしれない。
床板の隙間から入った土や木屑と混じっていたかもしれない。
「忘れ物が、問題と記録の両方になった」
俺が呟くと、ポロがこちらを見る。
「布が悪かった?」
「布が悪いわけではありません」
俺は答えた。
「回収されなかったために、東側の息が弱くなりました。でも、その布が白い粉を守った可能性もあります」
「悪いだけじゃない」
「はい」
ミラは床板交換記録を見た。
「布を見失った人も、わざと残したわけではありません。北水路へ呼ばれ、確認を後へ回したとあります」
「忘れたのは、よくない」
ポロが言う。
「はい。だから記録を残しました」
「でも、昔の人を怒っても、布は動かない」
「その通りです」
ガンツさんが低く言った。
「今やるのは、責めることじゃない。位置を残し、動かしていいか決めることだ」
ミラが今日の判断を整理する。
一、木札の表裏と作業布札控が一致。
二、乾布四の廃印なし。
三、床板交換時に見失われた布と同一である可能性が高い。
四、布は東寝石へ巻きついていない。
五、布端が中央空隙へ入り、東側の通気を弱めている可能性。
六、白い細粉は布の下面に集中。
七、細粉は細粒Bとは異なる音。
八、現在進行する石の擦れは確認できない。
九、布と粉は、まだ動かさない。
ポロが最後の一行を大きく書いた。
『だれの布か、分かった』
『でも、まだ取らない』
◇
点検板を閉じる前に、木札の裏面と白い粉の位置を、もう一度確認した。
ミラとポロが独立して作った図。
ハンナさんの布地記録。
ガンツさんの石の外観記録。
俺の音の記録。
すべてを、同じ格子図へまとめる。
木札。
布の折り目。
白緻石の東端。
東寝石。
中央空隙。
白い粉の筋。
粉の筋は、木札とは離れている。
木札が擦れて出た粉ではない可能性が高い。
布の折り目の下にあるため、木札の木粉がそこへ落ちたとも考えにくい。
「白色細粉と木札は、発生源が別である可能性が高い」
ミラが記録する。
ガンツさんは点検板を閉じる準備を始めた。
「今日は布を取らん」
「はい」
「次に開ける前に、白緻石を床下へ置いた時の保管記録を探す」
「初置き時の粉についてですね」
「そうだ」
白緻石を二つの寝石へ載せた時。
石の表面を整えた。
位置を少し動かした。
その時に、澄んだ白い粉が出た可能性がある。
もし記録が残っていれば、布下の粉との比較ができる。
ミラが次の調査項目を書く。
『白緻石初置き記録』
一、寝石へ載せた時の粉の有無。
二、東、西の位置調整記録。
三、初置き時の鳴り。
四、粉を残す、払う判断。
五、乾布四落下以前の点検記録。
六、布回収前に粉の由来を確認。
ポロが書く。
『粉が、いつからあるか』
『布より、まえ?』
『布より、あと?』
点検板を元の位置へ戻す。
板を水平に持ち上げる。
開口部へ、元の向きのまま下ろす。
指一本分で止める。
粉の移動音なし。
布の動く音なし。
木札の音なし。
完全に閉じる。
き。
二つの木栓を半巡り。
麻紐を溝へ戻す。
黒布の上に、新たな粉は落ちていない。
「点検板閉鎖。床下物、位置変化なし」
ミラが記録する。
閉鎖後の音。
白緻石。
こん。
……りん。
西寝石。
ご、と。
東寝石。
ご。
……ぐ。
中央の息。
す。
布。
ふ。
……さ。
木札。
から。
白い粉。
き。
……りん。
昨日までと、大きな変化はない。
床下の記録は、残されたままだ。
◇
夕方、ミラはアルバへ送る追加報告をまとめた。
『工房床下の作業布について、木札裏面を非接触で確認しました。
年印、作業組印、配置印が、床板交換時の乾布四の札記録と一致しました。
廃印は視認範囲にありません。
木札表面「乾布 四」、布種、見失い位置を含め、未回収の四枚目と同一である可能性が高いと判断します。
布は東寝石へ巻きついておらず、端のみが中央空隙へ入り、通気を弱めている可能性があります。
布下面には白色細粉が筋状に残っています。
細粉は、ガルドさんの荷物袋に残る細粒Bとは異なる音を持ちます。
荷重下の擦過残響は弱く、乾いた緻密石に近い澄んだ鳴りです。
現在進行する石の擦れは確認できません。
発生石材および付着時期は未確定です。
布、木札、白色細粉は動かさず、点検板を閉じました。』
ガンツさんが文面を確認する。
「いい」
ポロは、工房用の札を仕上げた。
『乾布四の可能性が高い』
『東の息を、少しふさいでいる』
『白いこなを、守っていたかもしれない』
『まだ、取らない』
ハンナさんがその札を見た。
「忘れ物でも、残したものがあるんだね」
工房の看板が夜風で鳴った。
からん。
井戸の札が鳴る。
から。
影車が鳴る。
こ、と。
北結界石の浅溝から、細い息が抜ける。
す。
……り。
工房の床下では、使われなかった白緻石が澄んだ音を返している。
こん。
……りん。
その下の二つの寝石。
西。
ご、と。
東。
ご。
……ぐ。
そして、東側の息を少しだけ塞いでいる乾布四。
ふ。
……さ。
木札の表と裏は、古い記録と一致した。
布が誰の仕事から残されたものかは、ほぼ分かった。
だが、布の下に守られていた白い粉が、いつ、どの石から生まれたのかは分からない。
乾布四は、答えではなかった。
次の記録を開くための、古い栞だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、床下に残されていた布の木札を、布へ触れずに確認する回でした。
古い作業布札控によると、木札の裏面には、
・作業年の印
・作業組の印
・配置場所の字
が刻まれます。
点検板の下の木札には、
・床板交換年を示す半輪と二本刻み
・杉葉形の作業組印
・配置印「東」
がありました。
すべて、床板交換時の乾布四の記録と一致しています。
また、廃棄された布札へ刻む廃印も確認できませんでした。
そのため、点検板の下の布は、何十年も前に見失われた四枚目の乾布である可能性が高まりました。
ただし、布はまだ回収していません。
布の下面には、細粒Bとは異なる白い細粉が筋状に残っているためです。
この粉には、荷重下で擦れた濁りがなく、乾いた緻密石に近い澄んだ音があります。
乾布四は東側の通気を弱めた一方で、白い粉の位置を長く守っていた可能性もあります。




