第34話 一件目の魔力灯
初回外部相談日の朝、リント村修理工房はいつもより早く目を覚ました。
まだ空は薄い青色で、村の屋根には夜露が残っている。
井戸の周りの石畳も、朝の冷えを含んでいた。
けれど、工房の前にはすでに人がいた。
ミラは帳面を抱えて立っている。
ポロは番号札の入った小箱を両手で持っている。
ハンナさんは井戸の水を確認するための白い器を用意していた。
ガンツさんは、いつも通り無口な顔で道具袋を担いでいる。
俺は工房の看板を見上げた。
『リント村修理工房』
看板が朝風に揺れる。
からん。
今日は、アルバから冒険者たちがやって来る。
魔力灯。
方位石。
保存箱。
結界札。
携帯結界灯。
五件の相談品。
けれど、工房を開ける前に、まず見るものがある。
「井戸から確認しましょう」
ミラが言った。
「はい」
俺たちは広場の井戸へ向かった。
井戸札は『使用できます』。
昨夜のまま、正しい札が掛かっている。
ポロが札を指さした。
「札、合ってる」
「確認ありがとうございます」
ミラが頷く。
井戸の老人が、朝の水を少しだけ汲み上げてくれていた。
ハンナさんが白い器に水を移し、濁りを見る。
「底に少しだけ泥はあるけど、昨日と同じくらいだね。飲み水は、少し置いてからなら問題なさそうだよ」
俺は井戸の縁に手を置き、底の音を聞いた。
さら。
りん。
水脈石の音は安定している。
奥にまだ鈍りはあるが、悪くなってはいない。
「井戸、異常なしです」
ミラが記録する。
「相談日朝。井戸札、使用できます。水音安定。濁り少量」
次に、水車小屋へ向かう。
道の途中で、ポロが少し早足になった。
「今日は水車、回す?」
「少しだけ確認します」
「外の人が来る日でも?」
「はい。外の人が来る日だからこそです」
ポロは真剣な顔で頷いた。
「村の音が先」
「そうです」
水車小屋の裏で、まず影車を見る。
ハンナさんが水路の小板を少しだけ開けた。
さら。
細い水が影車に触れる。
こ、と。
北の結界石が淡く応える。
りん。
「影車、正常。北の結界石、安定」
ミラが書く。
次に、水車本体へ少量の水を通す。
こ、とん。
水車は、昨日より少し滑らかに回った。
軸の音も、軸受けの音も落ち着いている。
挽き石は、今日は動かさない。
外部相談日に無理をする必要はないからだ。
「水車、異常なしです」
ガンツさんが頷く。
「よし。工房を開けるぞ」
工房へ戻ると、ミラは受付机の上を整えた。
番号札一から五。
預かり品記録。
相談内容記録。
料金区分表。
『受付中』の札。
『診断中』の札。
『順番待ち』の札。
そして『受け取れません』の札。
ポロは一枚ずつ確認していく。
「受付中、ある。診断中、ある。順番待ち、ある。受け取れません、ある」
「勝手に出さないこと」
ミラが言う。
「分かってる。受付に言う」
「はい」
ガンツさんは外の石場へ向かう道具箱を確認した。
結界札用の砂、水、濡れ布、長い挟み具、厚い革手袋。
「危険確認用、そろっている」
ハンナさんは布を分けている。
「きれいな布と、汚れた布。混ぜないよ」
「ありがとうございます」
俺は診断机の前に立った。
今日最初に見るのは、小型魔力灯だ。
比較的安全な相談品。
けれど、油断はできない。
第三層で二度、灯りが消えかけたという。
迷宮で灯りが消えることは、小さな不調では済まない。
俺は深く息を吸った。
工房の外から、馬車の音が聞こえた。
がた。
がたん。
ポロが窓へ走りかけて、途中で止まった。
「走らない」
自分で言って、早歩きに変える。
ミラは受付机の前に立った。
「開けます」
工房の扉が開かれた。
朝の光が入る。
そして、アルバから来た一行が、集会所前の広場に姿を見せた。
先頭にいたのは、受付係のリーネだった。
眼鏡をかけ、書類を抱えている。
隣には護衛らしい男性が一人。
その後ろに、五人の冒険者たちがそれぞれの相談品を持って並んでいた。
リーネは工房の看板を見上げてから、ミラに向かって頭を下げた。
「アルバ冒険者組合受付、リーネです。本日は初回相談の引率で参りました」
ミラも丁寧に頭を下げる。
「リント村修理工房の受付と記録を担当します。ミラです。本日は、事前にお送りいただいた五件のみの相談受付となります」
「承知しています」
リーネはすぐに書類を差し出した。
「こちらが持ち込み者一覧、組合確認済みの内容、危険確認の補足です」
ミラは受け取り、内容を確認する。
受付同士のやり取りは、とても静かだった。
けれど、どちらも隙がない。
ダリオがいたら「記録する人は強い」とまた言ったかもしれない。
ポロは番号札を持って、ミラの横に立った。
「一番の方、どうぞ」
ミラが言う。
最初に前へ出たのは、革鎧を着た女冒険者だった。
年は二十代半ばくらい。
短く結んだ茶色の髪。
腰には小型の魔力灯が三つ下がっている。
そのうち一つだけ、布で包まれていた。
「ライナです。第三層で使っている魔力灯を見てほしい」
声ははっきりしている。
ただ、少し急いでいるようにも聞こえた。
ミラが受付札を『受付中』へ替える。
「番号札一番です」
ポロが木札を差し出した。
「一番です。勝手に光らせないでください」
ライナは少し驚いた顔をした。
「勝手に?」
ポロは真面目に頷く。
「いきなり強く光らせるの、だめ」
ライナは一瞬戸惑い、それから苦笑した。
「分かった。勝手には光らせない」
ミラが記録を始める。
「品名。小型魔力灯。使用者、ライナさん。使用階層は?」
「主に迷宮第三層。湿気の多い通路と、地下水路沿いでよく使う」
「最後に点検した日は?」
ライナは少し目をそらした。
「……覚えていない」
ミラは表情を変えずに書いた。
「最後の点検日、不明」
「不明って書かれると、少し刺さるな」
「必要な記録です」
リーネが後ろで小さく頷いた。
ミラは続ける。
「不調が出た状況を教えてください」
「第三層の湿った通路で、光が細くなった。完全に消えたわけじゃない。でも、二回、足元が見えにくくなった」
「強光で使用していましたか?」
「普段より少し強くしていた。後ろに新人がいたから、広く照らそうと思って」
「濡らしましたか?」
「水に落としてはいない。ただ、雨の後にそのまま迷宮へ入ったから、外套と一緒に湿っていたかもしれない」
「ご自分で修理しようとしましたか?」
ライナは少し気まずそうにした。
「外殻を開けようとした。でも硬くて、途中でやめた」
ガンツさんの眉が少し動いた。
ミラはそのまま記録する。
「使用者による外殻開封未遂あり」
「未遂……」
ライナは肩を落とした。
「いや、壊してはいないはずだ」
「確認します」
ミラはそう言って、俺に視線を向けた。
「エイルさん、簡易診断をお願いします」
「はい」
俺は布で包まれた魔力灯を受け取った。
手のひらに収まる小型の魔力灯だ。
セシアのものより少し小さい。
携帯しやすいが、その分、内部の部品も細かそうだった。
外殻は青灰色。
表面に細かな傷がある。
留め金は二つ。
片方の留め金に、ほんの少しだけ工具を当てた跡があった。
俺はまず、耳を近づけた。
ちり。
湿気の音。
もう一度。
ち。
……き。
湿気だけではない。
内側の留め金が、少し歪んでいる。
魔力管の奥にも曇りがあるが、光が細くなる直接の原因はそれだけではなさそうだ。
「外殻は開けていませんね」
俺が言うと、ライナが少し安心したように息を吐いた。
「よかった」
「ただ、開けようとした時に、留め金へ少し力がかかっています」
「それで壊れたのか?」
「まだ壊れていません。でも、留め金の片側が浮いています」
ライナの顔が強張る。
「浮いている?」
「はい。見た目には少しだけですが、強く光らせると魔力管の固定がぶれます。その状態で湿気を吸うと、光が細くなると思います」
ミラが記録する。
「簡易診断。湿気あり。魔力管曇り。留め金片側に浮き。外殻開封未遂による力の可能性」
ライナは魔力灯を見つめた。
「そんな小さなことで?」
「迷宮では、小さなことで足元が見えなくなります」
俺は静かに答えた。
ライナは言葉を飲み込んだ。
ポロが、受付机の端で小さな絵を描いている。
魔力灯。
片方の留め金が浮いている絵。
強く光らせると細くなる光。
ばつ印。
「ポロ」
ミラが小声で注意する。
「まだ見習いなので、勝手に説明しません」
「はい」
ポロは口を閉じたまま、絵を描き続けた。
ガンツさんが魔力灯を見た。
「留め金は金具だ。俺が見る」
俺は魔力灯を厚い布の上に置いた。
「強く光らせる前に、外観と音だけで見ます」
「了解」
ガンツさんは細い工具で留め金を触った。
かち。
左側は正常。
右側。
き。
小さく嫌な音。
「浮いているな」
ガンツさんは短く言った。
「曲がりは軽い。だが、何度も強く開け閉めすれば折れる」
ライナが顔をしかめる。
「折れたら?」
「迷宮内で外殻が浮く。湿気が入る。光が揺れる。最悪、消える」
ガンツさんは容赦なく言った。
ライナは黙った。
「直せますか?」
ミラが確認する。
俺はもう一度、魔力灯の音を聞いた。
ち。
き。
……り。
「仮調整なら今日できます。ただ、湿気抜きと完全乾燥は時間が必要です。強光使用は禁止。完全に安定させるなら、一晩預かりたいです」
「一晩?」
ライナはすぐに聞き返した。
「明後日、第三層に入る予定なんだけど」
ミラが顔を上げる。
「即日修理はお約束できないと事前に掲示しています」
「分かってる。でも、灯りがないと困る」
ライナの声には焦りがあった。
「この魔力灯しかないんですか?」
俺が聞くと、ライナは腰の他の二つを見た。
「予備はある。でも、これが一番広く照らせる」
「では、明後日は予備を使う方が安全です」
「この灯りがあれば、隊列が楽なんだ」
「今の状態で強く使えば、また細くなる可能性があります」
ライナは口を閉じた。
その表情には、不満と不安が混じっていた。
俺は少し前のことを思い出した。
危険だと言っても、聞いてもらえなかった日々。
細かいと言われたこと。
今使えているから大丈夫だと言われたこと。
でも、ここでは言う。
「ライナさん」
「何?」
「この魔力灯は、今はまだ直せる状態です。でも、無理に強光で使えば、留め金がさらに歪みます。湿気が奥へ入ります。そうなると、修理にもっと時間がかかります」
ライナは魔力灯を見た。
「今止めれば、一晩で済むかもしれない。使い続ければ、数日かかるかもしれない。迷宮内で消えれば、もっと危険です」
工房の中が静かになった。
外で待つ冒険者たちの声も、この時だけ遠く聞こえた。
ライナはしばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……分かった。預ける」
ミラがすぐに確認する。
「一晩預かりでよろしいですか。内容は、湿気抜き、留め金仮調整、魔力管の曇り確認。完全修理ではなく、安定確認後に返却予定です」
「分かった」
「強光使用については、返却時の診断結果に従ってください」
「はい」
ライナの返事は、少し悔しそうだった。
けれど、逃げてはいなかった。
ミラは預かり品記録を作る。
「持ち込み時の傷を確認します」
ポロが絵を差し出した。
「ここ、傷。ここ、留め金。ここ、工具の跡」
ミラがそれを見て頷く。
「分かりやすいです。正式記録には私が写します」
ライナがポロの絵を見て、少し驚いた。
「子どもが描いたのか?」
「絵係見習いです」
ポロが胸を張る。
「傷の場所、あとで分かるように描く」
ライナは少しだけ笑った。
「助かる。正直、こういうのは苦手だ」
「僕も字は苦手」
「絵なら分かるな」
「うん」
ポロは満足そうに頷いた。
ガンツさんが留め金を仮調整するための小道具を用意した。
「今ここで分解はしない。外殻を開ける前に、預かり確認を終えろ」
「はい」
ミラは記録を読み上げた。
「預かり品。小型魔力灯一つ。外殻に細かな傷あり。右留め金に工具跡。右留め金浮き。魔力管曇り疑い。湿気あり。使用者による外殻開封未遂あり」
ライナは顔をしかめる。
「やっぱり刺さるな、その記録」
「記録は責めるためではありません」
ミラが言った。
「状態を正しく残すためです」
ライナは少し黙り、それから頷いた。
「分かってる。いや、分かった」
その言葉には、少しだけ変化があった。
預かり記録に署名をもらい、番号札一番を預かり棚へ移す。
ポロが札を替える。
『受付中』から『診断中』へ。
そして、魔力灯の棚に『預かり中』の札を置く。
「一件目、預かり中」
ポロが小さく言った。
ミラが記録する。
「一件目、小型魔力灯。簡易診断終了。一晩預かり。詳細診断へ」
ライナは受付机の前から離れる前に、俺へ向き直った。
「エイルさん、だったな」
「はい」
「光が細くなった時、私は魔力の入れ方が悪かったんだと思っていた。自分の力不足か、灯りの魔石が弱ったのかって」
彼女は魔力灯を見る。
「留め金なんて、見ていなかった」
「見えにくい場所ですから」
「でも、そこが原因だったかもしれないんだろ」
「はい」
ライナは苦笑した。
「迷宮で足元ばかり見てたのに、自分の灯りの足元は見てなかったわけだ」
その言い方に、少しだけ胸が温かくなった。
「次から見れば、大丈夫です」
俺が言うと、ライナは頷いた。
「点検表、あるんだよな」
ミラが顔を上げる。
「魔力灯用の絵入り点検表があります。写し代が必要です」
「買う」
即答だった。
ポロの顔が明るくなる。
「絵入り?」
「絵入りで。字だけだと、たぶん読まない」
ライナは正直に言った。
ポロは嬉しそうに、魔力灯用の点検表を取りに行った。
ミラは写し代を記録する。
「魔力灯用絵入り点検表、一部」
ライナは点検表を受け取り、内容を見た。
『光が揺れていないか』
『色が濁っていないか』
『外殻が熱くなりすぎていないか』
『留め金が浮いていないか』
『湿った階層の後は布で拭く』
『強く光らせる前に確認』
その横に、ポロの絵がある。
丸印のついた正常な魔力灯。
ばつ印のついた細い光。
浮いた留め金。
布で拭く手。
ライナはしばらく眺めていた。
「これなら分かる」
ポロが小さく拳を握った。
リーネがその様子を見て、静かに言った。
「組合にも一部、見本として置けますか?」
ミラがすぐに反応する。
「写し代をいただければ」
「もちろんです」
リーネは当然のように答えた。
ミラとリーネの間で、新しい記録が生まれた。
「魔力灯用絵入り点検表、組合見本用一部」
ポロは呆然としている。
「僕の絵、アルバに行くの?」
「見本としてですが」
ミラが言うと、ポロはぱっと顔を赤くした。
「ちゃんと描き直す!」
「今のも十分分かりやすいです」
「でも、アルバの人が見るなら、もうちょっときれいにする!」
ガンツさんが低く言った。
「分かりやすさを崩すな」
「はい!」
一件目の相談は、思っていたより時間がかかった。
受付。
聞き取り。
外観確認。
音診断。
金具確認。
預かり記録。
点検表の写し。
けれど、慌ただしくはなかった。
一つずつ、順番に進んだ。
工房の外では、次の相談者たちが待っている。
方位石の若い二人組。
保存箱の大柄な冒険者。
結界札を持つ魔法使い。
携帯結界灯の持ち主。
ポロが外へ出て、受付札を確認した。
「二番の方、まだ待ってください。順番に、ひとつずつです」
若い二人組が、少し緊張した顔で頷く。
リーネがその横で補足する。
「勝手に袋から出さないでください。方位石はそのままの状態で確認します」
「はい」
工房の中に戻ったポロは、小さく言った。
「順番に、ひとつずつ、ちゃんと言えた」
「よくできました」
ミラが言うと、ポロは照れたように笑った。
俺は預かり棚の魔力灯を見た。
布に包まれ、番号札一番が付けられている。
ちり。
まだ湿気の音がする。
けれど、もう迷宮の中で無理に光らされることはない。
今は、ここで乾き、調整される時間をもらっている。
「エイルさん」
ミラが言った。
「少し休みますか?」
「まだ大丈夫です」
「では、二件目の前に水を飲んでください」
ハンナさんが井戸水を注いだ器を差し出してくれる。
「こういう日は、喉が乾く前に飲むんだよ」
「ありがとうございます」
井戸水を飲む。
すっと喉を通る。
ポロが横から聞いた。
「すっとする?」
「はい。すっとします」
ポロは満足そうだった。
外部依頼の日でも、工房で飲む水はリント村の井戸水だ。
それが少し、俺を落ち着かせてくれた。
ミラは帳面を閉じず、次のページを開く。
「二件目、方位石の準備をします」
俺は頷いた。
一件目は終わった。
いや、預かっただけだ。
本当の修理はこれからだ。
それでも、初めての外部相談の一歩は、確かに進んだ。
診断机の上に、『診断中』の札がある。
工房の看板が外で鳴る。
からん。
井戸の札が遠くで鳴る。
から。
水車小屋の影車が小さく鳴る。
こ、と。
村の音に支えられながら、俺は次の相談品へ向き合う準備をした。
一件ずつ、聞く。
その約束を、胸の中でもう一度繰り返した。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回は、初回外部相談日の一件目、小型魔力灯の診断回でした。
相談日の朝でも、エイルたちはまず井戸、水車、影車、北の結界石を確認します。
外部依頼より先に村の音を聞く。
それがリント村修理工房の約束です。
一件目の魔力灯は、湿気だけでなく、持ち主が外殻を開けようとしたことで留め金に小さな歪みが出ていました。
「使えているから大丈夫」ではなく、迷宮で消えかける前に止めることが大事です。
次回は、二件目の方位石。
魔力石と同じ袋に入れていたことで、針の音が乱れた相談品です。




