表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦えない調律係はいらないと追放されましたが、壊れた魔道具の声が聞こえるので辺境で重宝されています  作者: 空乃 カナタ
第1章:捨てられた少年と鳴らない鐘

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/40

第30話 井戸水の味見

 井戸の水を味見する朝、ポロは広場の端でそわそわしていた。


 両手を後ろで組み、井戸へ近づきたいのを我慢している。

 足元の小石をつま先で動かしては、ちらちらとこちらを見る。


「まだ?」


「まだです」


 俺が答えると、ポロは唇を尖らせた。


「朝になったのに」


「朝になっただけでは飲めません。まず音と濁りを見ます」


「それで、ハンナさんと井戸のおじいちゃんが味見して、そのあと僕?」


「はい。安全確認の後です」


「順番、長い……」


 不満そうではあったが、ポロは井戸へ走り寄らなかった。


 昨日の水撫で作業で、井戸の水は一度濁った。

 水脈石に残っていた泥を撫でて浮かせたからだ。


 夕方にはかなり落ち着いたが、飲み水に使うのは一晩待つことにした。


 水も待つ。


 ポロが言ったその言葉は、もう井戸清掃手順書に書かれている。


 俺は井戸の縁へ手を置いた。


 朝の空気は冷たい。

 井戸の石も、夜の冷えを含んでいる。


 耳を澄ませる。


 さら。


 水面の音は軽い。


 さらに奥。

 底の水脈石。


 りん。

 さら。


 昨日より、ずっと澄んでいる。


 まだ完全ではない。

 水脈石の奥には、かすかに鈍い音が残っている。

 けれど、泥に押さえ込まれていた重さは減っていた。


「音は良くなっています」


 俺が言うと、ミラが帳面を開いた。


「清掃翌朝。水音、前日より澄み。水脈石の反応あり。奥にわずかな鈍りあり……」


 彼女の字は、朝でも乱れない。


 井戸の老人が、桶を下ろした。


 ぎい。


 巻き上げ機の音も、前より軽い。

 応急修理のままだが、今は問題ない。


 桶が水面に触れる。


 ぽちゃん。


 しばらく待ってから、水を汲み上げる。


 桶の水は、昨日の夕方より澄んでいた。


 完全に透明とは言えない。

 器の底をじっと見れば、細かな泥がほんの少し沈む。

 だが、昨日の昼のような濁りはない。


 ミラは小さな白い器へ水を移した。


「見た目を確認します」


 器を光にかざす。


 朝日が水を通る。

 水の中で、小さな粒がゆっくり沈んでいく。


「底に細かな泥が少量。濁りはかなり改善」


 ミラが記録する。


 ハンナさんが器を受け取り、匂いを確かめた。


「泥臭さは減ったね」


「食事に使えそうですか?」


「味を見てからだね」


 ポロが息を呑んだ。


「味見……」


「ポロは最後」


 ハンナさんに先回りされ、ポロはこくこく頷いた。


「分かってる」


 まず、井戸の老人が味を見た。


 彼は昔からこの井戸の水を飲んでいる。

 誰よりも、普段の味を覚えている人だった。


 老人は器を両手で持ち、少しだけ口に含んだ。


 すぐには何も言わない。


 舌の上で確かめるように、ゆっくり飲み込む。


 広場にいる村人たちが、静かに老人を見る。


「……軽い」


 老人は言った。


 その声は、小さいが、はっきりしていた。


「昨日よりずっと軽い。昔の井戸の味に、少し戻った」


 ミラの筆が止まる。


「昔の井戸の味、ですか」


「ああ。まだ少し泥の奥味はあるが、嫌な重さは抜けた。水脈石が息をし始めたんじゃろう」


 俺は井戸の底へ耳を澄ませた。


 りん。


 まるで、老人の言葉に応えるような音が返ってきた。


 次に、ハンナさんが味を見た。


 彼女は水を少し口に含み、眉を寄せる。


「飲み水としては、だいぶいい。薄焼きの生地にも使えると思う」


 ポロの顔が明るくなる。


「薄焼き!」


「ただし」


 ハンナさんは指を一本立てた。


「今朝の最初の水は、まだ底の泥が混じりやすい。料理に使うなら、もう一度汲み直して、少し置いてからだね」


「すぐじゃない……」


「すぐじゃない。でも使える」


 ポロはすぐに表情を戻した。


「使える!」


 ミラが記録する。


「ハンナさん確認。飲用可。料理用は汲み直し後、少し置いて使用推奨。最初の水は底泥が混じりやすい」


 俺も水を少し飲んだ。


 冷たい。


 昨日までより、喉を通る音が軽い。

 水の中に、泥の重さは少し残っている。

 だが、嫌な鈍りではない。


 井戸が長く抱えていたものを、少しずつ手放している途中の味だった。


「大丈夫だと思います」


 俺が言うと、ポロが一歩前へ出た。


「僕は?」


 ハンナさんが老人を見る。

 老人が頷く。

 ミラが帳面を見る。

 俺は井戸の音をもう一度聞く。


 さら。

 りん。


「少しだけなら」


 俺が言うと、ポロは両手を上げかけて、途中で止めた。


「井戸のそばでは跳ねない」


「よく覚えています」


 ポロは小さな器を受け取った。


 両手で持ち、真剣な顔で水を見る。

 まるで昨日の薄焼きを見る時と同じ表情だった。


「いただきます」


 ポロは水を一口飲んだ。


 すぐに目を丸くする。


「冷たい!」


 村人たちが笑った。


「味は?」


 ハンナさんが聞く。


 ポロはもう一度、少しだけ飲んだ。


「……前より、すっとする」


「すっとする?」


「うん。前は、なんか口の奥に残ったけど、今日はすっと行く」


 井戸の老人が笑った。


「子どもの舌は正直じゃ」


 ミラは嬉しそうに記録する。


「ポロ確認。前より、すっとする。口の奥に残る感じが減った」


「それも書くの?」


 ポロが照れたように聞く。


「大事な生活の記録です」


 ミラは真面目に答えた。


 味見の結果、井戸水は飲用可となった。


 ただし、清掃翌日のため、最初に汲む水は少し置いてから使う。

 底の泥が落ち着くまでは、朝と夕方に濁りを確認する。

 そして、水撫で清掃は一度で終わりにせず、数日空けてもう一度行う。


 ミラはそれを村人たちへ説明した。


「本日より井戸水は使用可能です。ただし、最初に汲む水は少し置いてください。器の底に泥が沈む場合があります。飲む前、料理に使う前に、見た目と匂いを確認してください」


 村人たちは頷いた。


 以前なら、ここまで細かく説明することはなかったかもしれない。

 けれど、水車、挽き石、薄焼き、井戸と続いたことで、村人たちも手順に慣れてきていた。


 ポロが手を上げる。


「札を作ったら?」


「札?」


 ミラが聞き返す。


「井戸に、飲んでいいとか、まだ待つとか書く札。水撫でしてる時は飲んじゃだめだから」


 ミラの表情が変わった。


「それは必要ですね」


 ガンツさんも頷く。


「口で言っても、聞いていない者が来るかもしれん。札はいる」


 ハンナさんが言う。


「畑仕事の帰りに水を汲む人もいるからね。遠くから見て分かる方がいい」


 その場で、井戸用の札を作ることになった。


 工房へ戻り、余っていた板を三枚用意する。


 一枚目は、飲用可。


 ミラが大きな字で書く。


『使用できます』


 ポロが横に、丸印と水の器を描いた。


 二枚目は、確認中。


『水を確認中です。少し待ってください』


 ポロは、器の底に泥が沈んでいる絵を描く。


 三枚目は、清掃中。


『清掃中です。飲み水には使わないでください』


 ポロは、水撫での絵と、大きなばつ印を描いた。


 ガンツさんが板の上に金具をつける。


「井戸の柱に掛け替えられるようにする」


「濡れても大丈夫ですか?」


 ミラが聞く。


「板に油を薄く塗る。字は消えやすいから、後で焼き印にした方がいい」


「焼き印」


 ポロが目を輝かせる。


「水守の印も入れる?」


 ミラは少し考えた。


「井戸の札には、水守の印を小さく入れましょう。大事な水の手順だと分かるように」


「やった!」


 ポロは水守の印を描こうとして、歯車の部分がまた花のようになった。


「少し違いますね」


「難しい……」


「ゆっくりでいいです」


 ミラが横に正しい形を描く。


 水滴。

 歯車。

 輪。


 ポロはそれを何度も見ながら、札の隅に小さな印を描いた。


「できた?」


「少し丸いですが、分かります」


「じゃあ採用?」


「採用です」


 ポロは嬉しそうに板を掲げた。


 井戸に札を掛けると、広場の雰囲気が少し変わった。


『使用できます』


 大きな文字と丸印。


 村人たちはそれを見て、安心したように水を汲み始めた。


 ただし、ミラの説明通り、最初の水は器に置いて様子を見る。

 底に泥が沈んだら、飲み水ではなく掃除や畑の端へ使う。

 澄んだ水を、飲み水や料理用にする。


 面倒ではある。

 けれど、誰も文句を言わなかった。


 水が戻ったことの方が、ずっと大きかったからだ。


 昼前、ハンナさんは井戸水を少し使って、昨日より小さな生地を作った。


 薄焼きを作るためではない。

 粉と水の相性を見るためだ。


 昨日の粉を少し。

 今朝の井戸水を少し。


 それを混ぜる。


 ハンナさんは指先で生地をこね、匂いを確かめた。


「昨日より、粉の匂いが出るね」


 ポロが身を乗り出す。


「おいしくなる?」


「なると思う。ただ、粉がまだ粗いから、薄焼きは固いままだね」


「水だけじゃだめか」


「粉も大事。水も大事。火も大事」


 ポロは真剣に頷いた。


「全部大事」


 ミラが記録する。


「井戸水使用。生地の匂い改善。粉の粗さは継続課題」


 俺は生地を混ぜる音を聞いた。


 ぺた。

 ぺた。


 昨日より少し滑らかだ。

 水の重さが減ったことで、粉と混ざる音も軽い。


「音も少し良いです」


「生地にも音があるの?」


 ポロが聞く。


「あります」


「ごはんの音?」


「そうですね。ごはんになる途中の音です」


 ポロは嬉しそうにした。


「水がよくなった音だ」


 その日の昼、村人たちは井戸の水を少しずつ使い始めた。


 急に大量には使わない。

 まずは飲み水。

 次に料理。

 畑や洗い物には、濁りが残った水を回す。


 ハンナさんが水の使い分けを教え、ミラがそれを記録した。


『清掃後の井戸水使用目安』

 一、最初の水は器に置いて泥を確認する。

 二、澄んだ上澄みを飲用・料理用へ。

 三、底に泥が沈んだ水は掃除や畑の端へ。

 四、匂いが戻った時は飲まず、井戸を確認する。

 五、札を見てから汲む。


 ポロの絵入り版には、こう書かれた。


『ふだをみる』

『どろがしずむまでまつ』

『うわずみをつかう』

『へんなにおいは、いわないでのまない。ちゃんという』


 最後の一文に、ガンツさんが頷いた。


「大事だ」


 ポロは誇らしげだった。


 午後、俺たちはもう一度井戸の音を聞いた。


 水を使い始めたことで、井戸の底の音が変わるかもしれないからだ。


 俺は縁に手を置く。


 さら。

 りん。


 朝より少し動いている。

 人が水を汲んだことで、底の流れが起きたのだ。


 だが、悪い音ではない。


「水脈石は安定しています」


 ミラが記録する。


「使用開始後、音安定。濁り大きく増えず」


 井戸の老人が桶を覗き込む。


「いい水じゃ」


 その一言で、広場にいた人たちの顔が和らいだ。


 ポロは、井戸の札をじっと見ていた。


「兄ちゃん」


「はい」


「これ、毎日変えるの?」


「必要な時に変えます。清掃中なら清掃中。確認中なら確認中。大丈夫なら使用できます」


「じゃあ、札係いる?」


 ミラが少し考えた。


「札を勝手に変えるのは危ないので、大人が担当します」


「僕は?」


「見習いとして、札が間違っていないか見る係なら」


 ポロの顔が明るくなる。


「井戸札見習い!」


「勝手に変えないこと」


「変えない!」


 ミラは帳面に書いた。


「井戸札確認見習い、ポロ。ただし札の掛け替えは大人が行う」


 ガンツさんがそれを見て言った。


「見習いが増えたな」


「はい!」


 ポロは胸を張った。


 夕方、ハンナさんは今朝の井戸水と昨日より少し細かく挽いた粉で、小さな生地を焼いてみた。


 昨日よりも、さらに小さい薄焼きだった。


 試食用に、ほんの一口。


 焼ける音は軽かった。


 じゅ。

 ぱち。

 ふわ。


 昨日より、焦げた匂いが少ない。


 ハンナさんが小さく割り、まず自分で味を見る。


「うん。昨日より、水の重さがない」


 次に井戸の老人。

 それから俺。

 ミラ。

 最後にポロ。


 ポロは一口かじって、目を丸くした。


「昨日より、すっとする!」


 またその言葉だった。


 村人たちが笑う。


 ハンナさんは頷いた。


「いい感想だよ。水が変わると、食べ物も変わる」


 ポロは薄焼きの欠片を見つめた。


「井戸を直したら、薄焼きもおいしくなるんだ」


「そうです」


 俺は頷いた。


「水車も、挽き石も、井戸も、全部つながっています」


 ポロは少し考えてから、言った。


「村って、道具がいっぱいつながってるんだね」


 ミラの筆が止まった。


 俺も、すぐには返事ができなかった。


 その通りだった。


 井戸。

 水車。

 挽き石。

 結界石。

 防護鐘。

 畑。

 食卓。


 それぞれ別のものに見えて、全部が村の暮らしにつながっている。


「そうですね」


 ミラが静かに言った。


「村は、つながっている道具でできているのかもしれません」


 ガンツさんが腕を組む。


「道具だけではない。使う人間もだ」


「はい」


 ミラは新しいページに、その言葉を書き留めた。


『村は、つながっている道具と、それを使う人でできている。』


 その日の夜、リント村修理工房では井戸水の確認記録がまとめられた。


『井戸水味見結果』

 一、音は清掃前より軽い。

 二、見た目の濁りは減少。

 三、底に細かな泥は少量残る。

 四、老人確認。昔の井戸の味に少し戻った。

 五、ハンナ確認。飲用可。料理用は汲み置き後が望ましい。

 六、ポロ確認。前よりすっとする。

 七、薄焼き生地に使用したところ、匂いと混ざりが改善。

 八、水撫で清掃は数日後に再実施予定。


 ポロの絵入り版は、井戸の札の横に貼られた。


『ふだをみる』

『みずもまつ』

『へんなにおいは、ちゃんという』

『すっとしたら、いいみず』


 最後の一文を見て、ハンナさんが笑った。


「分かりやすいね」


「本当?」


「本当だよ」


 ポロは満足そうだった。


 夜、俺は一人で井戸の前に立った。


 広場は静かだ。

 家々の灯りが少しずつ消えていく。


 井戸の札は、『使用できます』のまま、夜風に揺れていた。


 から。


 小さな音。


 俺は井戸の縁に手を置く。


 さら。

 りん。


 水脈石の奥には、まだ少し泥が残っている。

 けれど、それはもう苦しそうな音ではなかった。


 次の清掃を待つ音。

 少しずつ戻っていく音。


 工房の方から、ミラが歩いてきた。


「ここにいると思いました」


「すみません。気になって」


「私もです」


 ミラは井戸の札を見た。


「札、作ってよかったですね」


「はい。誰が見ても分かります」


「ポロの案です」


「そうですね」


 俺たちはしばらく、井戸の音を聞いていた。


 水車が目を覚まし、粉が落ち、薄焼きが焼けた。

 井戸水も、少しずつ戻っている。


 リント村の暮らしの音が、ひとつずつ整っていく。


「エイルさん」


 ミラが言った。


「明日、アルバ冒険者組合への返答を書こうと思います」


「外部依頼の相談日ですか」


「はい。水車と井戸が少し落ち着いてきました。もちろん、村の修理が優先です。でも、工房として外からの相談にも答えられる段階に来たと思います」


 俺は少し考えた。


 迷宮都市アルバ。

 冒険者組合。

 外部依頼。


 少し前なら、不安の方が大きかったかもしれない。


 でも今は、工房に手順がある。

 ミラの記録がある。

 ガンツさんの技術がある。

 ポロの絵がある。

 ハンナさんの生活の目がある。


 そして、リント村の水と粉と結界が、少しずつ整ってきている。


「いいと思います」


 俺は答えた。


「ただし、相談日は余裕を持って」


「もちろんです」


 ミラは小さく笑った。


「無理な依頼は受けません。順番を守ります」


 それは、工房の約束だった。


 井戸の水が、静かに鳴る。


 さら。


 俺はその音を聞きながら頷いた。


「では、明日、返答を書きましょう」


 リント村修理工房は、村の中の音を少しずつ整えてきた。


 次は、その音が村の外へ届くのかもしれない。


 井戸の札が、夜風で小さく鳴った。


 から。


 使用できます。


 その言葉が、今のリント村にはとても頼もしく見えた。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


今回は、井戸水の味見回でした。


エイルは音を聞き、ミラは濁りを記録し、井戸の老人とハンナは味を確かめます。

そしてポロは、安全確認の後にようやく一口。


「前より、すっとする」


子どもらしい言葉ですが、水が戻り始めたことを伝える大事な感想になりました。


井戸用の札も作られ、リント村の安全管理も少しずつ形になっています。


次回は、アルバ冒険者組合への返答と、外部依頼相談日の準備へ進みます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ