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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第13章:王のチェックメイト(4) ― 新たなるゲームの序曲 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 ロイヤル・オペラ・ハウスで起こった「事件」の顛末は、私の元へ、リアルタイムで届けられていた。クレイトン公爵が、公衆の面前で、アイリーン・ノートン女史に銃を向け、その場で取り押さえられたこと。全てが、私の描いた脚本通りに、寸分の狂いもなく進行した。


 私は、ディオゲネス・クラブの私室で、チェス盤の前に座っていた。盤上には、白のキングと、黒のキングが、それぞれ一つずつ残されているだけだ。私は、白のキングの駒を、指先で静かに撫でた。ゲームは終わった。だが、勝利の昂揚感は、不思議なほどなかった。そこにあるのは、複雑な機械の修理を終えた後のような、静かな安堵と、わずかな空虚感だけだった。


 公爵の社会的生命は、完全に絶たれた。

 オペラハウスでの凶行は、私が仕掛けた情報戦の最後のダメ押しとなった。明日の新聞は、彼の経済的破綻、政治的失脚、そして家庭の崩壊といったスキャンダルに加え、「貴族院議員、オペラハウスで発狂、殺人未遂」という、決定的な見出しで埋め尽くされるだろう。彼は、もはや貴族でも、政治家でもない。ただの、狂気に駆られた犯罪者として、人々の記憶に残る。彼は、法廷で裁かれる前に、社会によって裁かれたのだ。


 彼の身柄は、公式には精神鑑定の名目で、人里離れたサナトリウムへと送られることになる。もちろん、そこは厳重な監視下に置かれた、事実上の終身刑務所だ。彼は二度と、陽の光の下を歩くことはない。大英帝国の威信を傷つけることなく、癌細胞は、静かに、そして完全に摘出された。


 私の仕事は、終わった。


 私は、窓の外に目をやった。ロンドンの夜景が、宝石箱のように広がっている。この街の平和と秩序は、今夜もまた、私の見えざる手によって守られた。だが、そのために、私は何を犠牲にしただろうか。真実を闇に葬り、一人の人間を、法ではなく、情報によって抹殺した。弟、シャーロックが見れば、眉をひそめるだろう。「それは正義ではない、兄さん。ただの、冷酷な計算だ」と。


 その通りだ。これは正義ではない。これは、国家という巨大な機械を維持するための、必要悪だ。それが、私の役割であり、私が自らに課した、孤独な責務なのだ。


 しばらくして、部屋の扉が静かにノックされた。

「入りたまえ」

 私がそう言うと、扉が開き、一人の女性が入ってきた。夜の闇を纏ったような、黒のシルクのドレス。その胸元には、私が贈ったダイヤモンドが、彼女の呼吸に合わせて、静かに揺れている。アイリーン・ノートンだった。


 彼女は、オペラハウスでの激しい出来事の後だというのに、少しも動揺した様子を見せなかった。その瞳は、むしろゲームに勝利した後の狩人のように、生き生きと輝いている。


「お見事でしたわ、ミスター・ホームズ」

 彼女は、私が座るチェス盤の向かい側に、優雅な仕草で腰を下ろした。その声には、心からの賞賛と、ほんの少しの皮肉が混じっていた。

「全て、あなたの筋書き通り。クレイトン公爵は、実に哀れなピエロを演じてくださいましたわ」


「君の演技も、見事だったと聞いている、ミス・ノートン」

 私は、感情を排した声で答えた。「君がいなければ、最後の幕は、あれほど見事に閉じることはなかっただろう」


「お褒めにいただき、光栄ですわ。ですが、一つだけ、あなたの計算違いがあったのではなくて?」

 彼女は、悪戯っぽく微笑んだ。

「私は、あなたが想像していたよりも、ずっとこのスリルを楽しんでしまった。もう少しで、本当に撃たれてみようかと思ったくらいですもの」


 その言葉に、私は初めて、表情をわずかに曇らせた。

「無茶なことを」

「あら、なぜです? 最高の舞台で、悲劇のヒロインとして死ぬ。それも、悪くない結末だとは思いませんこと?」


 彼女の瞳の奥に、常人には理解しがたい、危険な輝きが宿っているのを、私は見た。彼女は、ただの賢い女性ではない。彼女は、私や、あるいはシャーロックと同じ種類の人間なのだ。退屈を何よりも憎み、知的な刺激と、危険なスリルを求める、異質な存在。


「君には、まだ果たしてもらうべき役割がある」と、私は言った。それは、事実だった。モリアーティの残党は、まだロンドンの闇に潜んでいる。彼女の持つ情報は、これからも必要になるだろう。


 だが、その言葉を発した瞬間、私は、それが単なる口実でもあることに気づいていた。私は、この女性を、手放したくないのだ。敵でもなく、協力者でもなく、かといって友人でもない。この、奇妙で、緊張感に満ちた関係を、終わらせたくない。


 彼女は、私の心を見透かしたかのように、くすりと笑った。

「役割、ですって。ええ、もちろん、喜んで。ただし、これからは、あなたの脚本通りに動くだけの駒では、満足できませんわ」


 彼女は、テーブルの上にあった、黒のキングの駒を、そっと指先でつまみ上げた。

「これまでのゲームは、あなたの勝ち。それは認めます。ですが、次のゲームは、私もプレイヤーとして参加させていただきたい」


 彼女は、その黒のキングを、チェス盤の中央に、ことりと置いた。

「あなたと、私で。このロンドンを盤上にして、ゲームを始めませんこと? もちろん、ルールは、お互いの知恵と、策略の限りを尽くすこと。そして、決して相手に、心を読まれないこと」


 それは、紛れもない挑戦状だった。

 国家の安寧という、重く、孤独な責務を背負い続けてきた私の人生に、突如として現れた、唯一の対等なプレイヤーからの。


 私は、しばし彼女の顔を黙って見つめた。その瞳は、真剣だった。彼女は、私との知的な駆け引きそのものを、求めているのだ。


 長い沈黙の後、私は、ゆっくりと口を開いた。

「面白い。その挑戦、受けよう」


 私は、白のキングの駒を手に取り、彼女が置いた黒のキングの隣に、並べて置いた。盤上には、二つのキングだけが、互いを見つめ合うように、静かに立っている。


「ただし、ルールを一つ、追加させてもらおう」

 私は続けた。「このゲームの目的は、相手をチェックメイトすることではない。目的は、いかにして、このゲームを永遠に終わらせないか、だ」


 私の言葉を聞いて、アイリーン・ノートンは、初めて、心の底から楽しそうな、花が咲くような笑顔を見せた。それは、私が今まで見た、どんな宝石よりも美しい光景だった。

「素敵ですわ、ミスター・ホームズ。ええ、最高のルールですわね」


 部屋には、再び静寂が戻った。だが、それは、先ほどまでの空虚な静寂ではなかった。新たなゲームの始まりを告げる、期待に満ちた、心地よい静寂だった。


 シャーロックが、ライヘンバッハの滝から生還し、ロンドンに戻ってきた時、彼は驚くことになるだろう。彼の不在の間に、彼の兄が、生涯でただ一人、対等と認めるに足る、危険で、魅力的なゲームの相手を見つけてしまったことに。


 そして、そのゲームは、おそらく、どちらかがこの世を去るまで、決して終わることはないのだ。

 私は、目の前の「クイーン」を見つめながら、静かに、そう確信した。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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