第13章:王のチェックメイト(3) ― カルメンの舞台 ―
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ロイヤル・オペラ・ハウスは、今宵もまた、ロンドンの富と権力を一身に集めたかのような華やぎに満ちていた。シャンデリアが放つ無数の光は、貴婦人たちの宝石に反射してきらめき、ビロード張りの客席は、さざ波のような囁きと、香水の甘い匂いで埋め尽くされている。今夜の演目は『カルメン』。情熱的なジプシーの女と、彼女に翻弄され破滅していく兵士の物語。それは、これからこの場所で起ころうとしている、もう一つの現実の悲劇を、皮肉にも予兆しているかのようだった。
その喧騒の頂点に位置する、最も見晴らしの良いロイヤルボックス席に、アイリーン・ノートンは座っていた。彼女は、まるで夜そのものをドレスとして纏ったかのように、深く、艶やかな黒のシルクのドレスに身を包んでいた。胸元には、マイクロフト・ホームズから「衣装代」として送られてきた、ただ一粒の巨大なダイヤモンドが、冷たい光を放っている。その輝きは、彼女の瞳の輝きと競い合うかのようだった。
彼女の表情は、穏やかで、その唇には、観客の誰もが魅了されるであろう、謎めいた微笑みが浮かんでいる。だが、その微笑みの下で、彼女の五感は極限まで研ぎ澄まされていた。ボックス席の入口に立つ、一見するとただの劇場スタッフにしか見えない男。階下の廊下の角に潜む、浮浪者のような風貌の男。彼らが、マイクロフトの配下であり、このボックス席を鉄壁の要塞に変えている「舞台装置」の一部であることを、彼女は知っていた。
アイリーンは、手にしたオペラグラスを、舞台ではなく、階下の観客席に向けた。着飾った人々が、互いに見せびらかすように挨拶を交わし、偽りの笑顔を振りまいている。彼女は、この社交界という名の仮面舞踏会を、かつては自らの舞台としていた。だが今は、まるで高みから人間たちの愚かな営みを観察する、超越者のような気分だった。
マイクロフトの予測通り、クレイトン公爵は現れるだろうか。
そして、彼はどのような顔で、自分と対峙するのだろうか。
その瞬間を想像すると、彼女の心臓は、恐怖ではなく、狩りを目前にした獣のような、冷たい興奮に静かに波打った。彼女は、ただ待つだけの獲物ではない。彼女は、自ら囮となり、獲物を罠の中心へと誘い込む、狡猾な狩人なのだ。
第一幕が終わり、劇場が休憩時間のざわめきに包まれた、その時だった。
ボックス席の重厚な扉が、ノックもなしに、乱暴に開けられた。そこに立っていたのは、アイリーンの予測通りの人物――ハロルド・クレイトン公爵、その人だった。
だが、そこにいたのは、彼女が知る、威厳に満ち、常に他者を見下していた傲岸不遜な貴族の姿ではなかった。彼のタキシードは着崩れ、髪は乱れ、その顔は、この数時間で全ての生命力を吸い取られたかのように、土気色をしていた。そして何よりも、その両目が、正常な人間のそれではないことを物語っていた。血走り、焦点が定まらず、憎悪と焦燥、そして狂気が、どす黒い炎のように燃え盛っている。
「やはり…ここにいたか、女狐め…」
公爵の声は、ひどく嗄れていた。まるで、何日も叫び続けた後のような、獣の呻き声に近い響きだった。
ボックス席にいた他の客たちが、突然の闖入者に驚いて息を呑む。だが、公爵の目には、アイリーン以外の誰も映ってはいなかった。
アイリーンは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。彼女は、驚きも、恐怖も見せなかった。ただ、まるで旧知の友人を迎えるかのように、穏やかな微笑みを浮かべたまま、彼に向かって軽く会釈した。
「ごきげんよう、公爵閣下。今宵の『カルメン』は、なかなかの出来栄えですわ。あなたも、ご覧になりますか?」
その落ち着き払った態度が、公爵の狂気に、さらに油を注いだ。
「ふざけるなッ!」
公爵は、獣のような叫び声を上げ、一歩、また一歩と、アイリーンににじり寄った。周囲の客たちが、悲鳴を上げて後ずさる。
「お前のせいだ…お前と、あのホームズのせいで、全てが台無しになった! 私の人生が…私の築き上げてきた、全てが!」
「全て、ですって?」
アイリーンは、小首を傾げた。その仕草は、どこまでも優雅で、しかし、刃物のように鋭い侮蔑を含んでいた。
「あなたが築き上げたものとは、一体何でしょう? 盗まれた富ですか? 踏みにじられた人々の命ですか? それとも、嘘と欺瞞で塗り固められた、空っぽの名誉ですこと?」
彼女の言葉の一つ一つが、短剣のように公爵のプライドを突き刺していく。
「黙れ! 黙れ、黙れッ! お前のような女に、何が分かる!」
公爵は、ついに正気の箍を完全に外した。彼は、コートの内ポケットに手を突っ込むと、ずしりと重いリボルバーを抜き放った。鈍い銀色の銃身が、シャンデリアの光を不気味に反射する。
周囲から、絶叫が上がった。人々はパニックに陥り、狭いボックス席の中で逃げ惑う。だが、アイリーンだけは、その場から一歩も動かなかった。彼女の視線は、銃口ではなく、それを握る公爵の震える手と、狂気に満ちた瞳に、まっすぐに注がれていた。
「撃つのですわ、公爵」
彼女の声は、静かだった。だが、劇場の隅々にまで響き渡るような、不思議なほどの透明感を持っていた。
「さあ、引き金を。ここで私を殺せば、あなたの気は済むのでしょう? あなたの失われた栄光が、戻ってくるのかもしれませんわね?」
彼女は、ゆっくりと一歩、前へ踏み出した。銃口の、まさに目の前へ。
「どうしました? あなたの得意なことでしょう? 力で、暴力で、弱い者を黙らせるのは。ホワイトチャペルの哀れな娘たちにしたように。あなたの秘密を知った、全ての者たちにしたように」
「だ、黙れ……」
公爵の額から、脂汗が噴き出す。彼の腕は、銃の重さに耐えかねるかのように、わなわなと震えていた。目の前の女は、命乞いをするどころか、自ら死へと歩み寄ってくる。その姿は、彼が今まで支配してきた、どの人間とも違っていた。それは、彼の理解を超えた、神々しさすら感じさせる、恐ろしい光景だった。
「私を殺しても、何も変わりはしない。マイクロフト・ホームズは、すでに全ての駒を動かしている。あなたの破滅は、もう止められない。あなたは、ただ、この私という幻を追いかけて、自ら破滅の舞台に上がった、哀れな道化にすぎないのですよ」
アイリーンの言葉は、最後の宣告だった。
それは、公爵の心に残っていた、最後のわずかな理性の糸を、無慈悲に断ち切った。
「う、うわああああああああッ!」
狂気の絶叫と共に、公爵は、アイリーンにその身ごとぶつかっていくように、銃の引き金に指をかけようとした。
その瞬間。
それまで壁の染みのように気配を消していた、劇場スタッフの制服を着た男が、信じられないほどの速さで動いた。彼は、公爵の背後に回り込むと、その腕を鋼のような万力で締め上げ、手首を捻り上げた。
「ぐっ…!」
公爵の手から、リボルバーが力なく滑り落ち、分厚い絨毯の上に、鈍い音を立てて転がった。
同時に、ボックス席の扉が勢いよく開け放たれ、数人の警官と、マイクロフトの部下たちが、なだれ込んできた。彼らは、あっという間に公爵の身柄を取り押さえ、その両腕を背中に回して拘束した。
「離せ! 私を誰だと思っている! 離さんか、下賤の者どもめ!」
公爵は、もはや意味をなさない言葉を叫び続けた。だが、その声は、周囲の観客たちの驚愕と好奇の視線、そして、遠い舞台から聞こえてくるカルメンの情熱的なアリアの中に、虚しく吸い込まれていくだけだった。
アイリーン・ノートンは、その全ての光景を、静かに見下ろしていた。
彼女の足元には、公爵が落としたリボルバーが転がっている。彼女は、まるで汚れたものでも払うかのように、ドレスの裾を軽く揺らした。
ショーは、終わった。
少なくとも、このオペラハウスという舞台の上での、第一幕は。
彼女は、連行されていく公爵の、絶望に歪んだ背中を、冷たい瞳で見送った。
彼の本当の地獄は、これから始まるのだ。明日の朝、彼が新聞を開いた時に、自分が社会的に「死んだ」ことを知る、その瞬間から。
アイリーンは、ゆっくりとボックス席の縁に歩み寄り、階下の喧騒を見下ろした。舞台の上では、カルメンが、愛を裏切ったホセにナイフで刺され、その生涯を終えようとしていた。
だが、この現実の舞台で、最後に立っていたのは、男ではなく、女だった。
彼女は、そっと胸元のダイヤモンドに触れた。その冷たい感触が、彼女に、このゲームの完全な勝利を告げていた。
「あなたの弟君が帰っていらしたら、こう伝えなくてはなりませんわね…」
彼女は、誰に言うともなく、そう呟いた。
「盤上のクイーンは、時に、キングよりも強いのだと」
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