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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第13章:王のチェックメイト(2) ― 崩れ落ちる砂の城 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 その日の朝、ハロルド・クレイトン公爵は、いつもと変わらぬ時間に目を覚ました。寝室の分厚いカーテンの隙間から差し込む光は、彼が支配する世界の揺るぎない秩序を象徴しているかのようだった。執事が運んできた朝食のシルバー・トレイ、完璧にアイロンがけされた朝刊、そしてカフリンクスを直す鏡に映る、自信に満ちた己の姿。その全てが、昨日までと同じ、彼の権力と威光を映し出す小道具にすぎなかった。


 彼はまず、『タイムズ』紙を手に取った。政治・経済の動向を把握するのは、彼の長年の習慣だった。紙面をめくる指が、ふと、社会面の片隅にある小さな記事の上で止まった。見出しはないに等しく、注意深く読まなければ見過ごしてしまいそうな、目立たない囲み記事だ。


『とある貴族院議員の不透明な政治献金疑惑』


 記事には、具体的な名前こそ記されていなかったが、その経歴や所属委員会に関する記述は、明らかにクレイトン公爵自身を指し示していた。数年前に彼が支援した、とある海運会社の設立。その見返りとして、彼の派閥に流れたとされる、出所不明の資金。記事は、断定的な表現を避けつつも、巧妙な筆致で読者の疑念を煽るように書かれていた。


「くだらん…」


 公爵は、吐き捨てるように呟いた。政敵による、ありふれた中傷の一つだろう。これまでにも、似たような攻撃は幾度となく経験してきた。その全てを、彼は権力と金で握り潰してきたのだ。彼は、記事が載ったページを無造作に引き裂くと、暖炉の火に投げ込んだ。紙は一瞬で丸まり、黒い灰となって消えた。まるで、彼の不快感を象徴するかのように。


 だが、その胸の奥に、ほんのわずかな、しかし消えない染みのような不安が残った。記事の論調が、いつものゴシップとはどこか違っていた。感情的な非難ではなく、まるで外科医がメスを入れる箇所を探るかのような、冷たく、事実に基づいた分析的な視線を感じたのだ。


 その不安が、現実の脅威へと姿を変えるのに、時間はかからなかった。

 午前十時。シティにある彼の個人事務所から、緊急の電信が届いた。彼が秘密裏に巨額の投資を行っている、南アフリカのダイヤモンド鉱山会社の株価が、取引開始と同時に、理由不明の売り浴びせによって暴落しているという。


「何かの間違いだろう!」


 公爵は受話器に向かって怒鳴った。だが、電話の向こうのブローカーの声は、パニックで上ずっていた。市場には、その鉱山が、実際にはすでに採掘限界に達しており、近々閉鎖されるという、出所不明の噂が流れているというのだ。それは、公爵と、ごく一部の経営陣しか知らない、絶対の極秘情報のはずだった。


 狼狽する公爵を追い詰めるかのように、凶報は連鎖した。

 正午過ぎ、彼はウェストミンスターの院へと向かった。ロビーを歩いていると、いつもならば駆け寄ってきて丁重な挨拶をするはずの、彼の派閥に属する議員たちが、まるで疫病神でも見るかのように、彼の視線を避け、足早に立ち去っていく。空気が、明らかに変わっていた。


 そして、彼の政敵である、清廉潔白を売りとする改革派の老議員が、記者団に囲まれているのが見えた。老議員は、痛ましげな表情を浮かべながら、声を張り上げていた。

「…我が国の名誉にかけて、看過することはできません。植民地における、非人道的な労働環境の噂が、私の元にもたらされました。私は議会において、政府に対し、徹底的な調査を要求する所存であります!」


 その言葉が、雷鳴のように公爵の耳を打った。非人道的な労働環境。それは、彼のダイヤモンド鉱山で行われている、奴隷労働同然の実態を指しているに違いなかった。なぜ、今になってそんな情報が。誰が、あの老獪な男にそれを吹き込んだのだ。


 公爵は、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。これは、偶然ではない。何者かが、彼の築き上げてきた帝国の、まさに土台となっている部分を、正確に狙って攻撃してきている。見えざる敵は、彼の秘密の全てを知っているのだ。


 その日の午後、予定されていた大使館主催の夜会が、「主催者の急な体調不良」という、見え透いた嘘を理由に延期されるという連絡が入った。それは、社交界からの事実上の追放宣告だった。さらに追い打ちをかけるように、街角で売られている大衆紙の見出しが、彼の目に飛び込んできた。


『クレイトン公爵夫人、悲嘆の日々? 華麗なる一族の内に潜む、冷たい仮面』


 下劣な憶測記事だった。だが、彼の妻が精神を病み、人知れず田舎の療養所に送られているという事実は、紛れもない真実だった。家庭内の、最もプライベートな部分までが、白日の下に晒されようとしている。


 もはや、疑いの余地はなかった。

 これは、戦争だ。宣戦布告なき、一方的な殲滅戦。


 公爵は、自邸の書斎に閉じこもり、震える手でブランデーを呷った。彼の頭の中で、全ての出来事が、一つの線で結ばれていく。そして、その線の中心に、一人の男の顔が、ありありと浮かび上がった。


 マイクロフト・ホームズ。


 先日、この書斎で、静かに、しかし絶対的な自信をもって、彼に事実を突きつけてきた、あの氷のような男。あの男が、この全てを仕組んだのだ。法廷という野蛮な手段ではなく、もっと狡猾で、残忍なやり方で、自分を社会的に抹殺しようとしている。


「ホームズ…!」


 公爵は、憎悪に満ちた声で、その名を呟いた。グラスを壁に叩きつける。ガラスの砕け散る甲高い音が、彼の理性が崩壊していく音と重なった。

 そして、もう一人。あの男に情報を渡し、手引きをしたであろう、あの忌々しい女。


 アイリーン・ノートン。


 あの女狐めが、全ての始まりだったのだ。あの女を始末しておけば、こんなことにはならなかった。怒りと屈辱と恐怖が、彼の思考を焼き尽くしていく。全てを失う。名誉も、富も、権力も。このまま、誰にも知られず、社会の片隅で、生きたまま腐っていくのか。


 いやだ。

 それだけは、絶対に許さない。


 もし全てを失うのなら、せめて、元凶となったあの女を、道連れにしてくれる。

 公爵の血走った目に、狂気の光が宿った。彼は、執事にアイリーン・ノートンの現在の居場所を、あらゆる手段を使って調べるよう命じた。金に糸目はつけない。彼の最後の権力が、その一点に集中された。


 答えは、驚くほど早くもたらされた。

 彼女は今宵、ロイヤル・オペラ・ハウスで『カルメン』を鑑賞する予定だという。ロイヤルボックス席で。まるで、自分の勝利を祝う女王のように。


「オペラハウス…カルメン…」


 公爵は、壊れた人形のようにその言葉を繰り返した。そして、獣のような笑い声を上げた。それは、もはや人間の笑い声ではなかった。

 舞台を用意してくれたというのなら、望み通り、その舞台で、この悲劇の結末を見せてやろうではないか。


 彼は、よろめきながら立ち上がると、机の引き出しの奥から、ずしりと重いリボルバーを取り出した。冷たい鉄の感触が、彼の狂気を確かなものへと変えていく。彼は、乱れた髪を掻きむしり、コートを羽織ると、馬車に飛び乗った。


「オペラハウスへ! 急げ!」


 御者にそう叫ぶ声は、完全に嗄れていた。

 馬車が、夕暮れのロンドンを疾走する。その車内で、公爵は、ただ一点、復讐の炎に燃える瞳で、闇を見つめていた。


 同じ頃、アイリーン・ノートンは、届いた電信を手に、静かに窓の外を眺めていた。

『今宵、オペラハウスへ。演目はカルメン。ロイヤルボックスにてお待ちしております。最高の席をご用意いたしました。 M.H.』


 彼女の唇に、微かな、しかし確信に満ちた笑みが浮かんだ。

「最高の席…ですって。本当に、意地の悪い方」


 彼女は、マイクロフト・ホームズの意図を、完璧に読み解いていた。これは、罠だ。そして、舞台だ。追い詰められた獣が、最後の牙を剥き出しにして、自分に襲いかかってくる。それを、満員の観客の前で演じろというのだ。


 彼女は、恐怖を感じなかった。むしろ、背筋がぞくぞくするような、極上の興奮が、彼女の全身を駆け巡っていた。

 彼女は、クローゼットから、最も美しい、夜の闇のような黒のシルクのドレスを選び出した。そして、化粧台の上に置かれた小さな箱を開ける。中には、マイクロフトから送られてきた、ただ一粒の巨大なダイヤモンドが、冷たい光を放っていた。


 それは、彼女への報酬であり、この危険なゲームの参加証であり、そして、彼女が今宵演じる悲劇のヒロインのための、ただ一つの装飾品だった。


 彼女は、そのダイヤモンドを胸元に飾り、鏡の中の自分を見つめた。そこに映っていたのは、これから狩場へと向かう、一人の女王の姿だった。


 ロイヤル・オペラ・ハウスの壮麗なロビーは、着飾った紳士淑女でごった返していた。アイリーンは、その喧騒の中を、まるでモーゼが海を割るかのように、静かに、しかし誰にも止められない威厳をもって進んでいく。

 彼女の目的地は、ロイヤルボックス。

 彼女のために用意された、最高の舞台。


 破滅へと向かう男と、それを待ち受ける女。

 二人の運命が、今、カルメンの情熱的なアリアが響き渡る劇場で、交錯しようとしていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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