第12章:最後の駒(3) ― 灰色の通信 ―
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ディオゲネス・クラブの重厚なオークの扉が、私の背後で音もなく閉まると、外の湿った霧と喧騒は、まるで別世界のできごとのように遠ざかった。館内は、沈黙という名の分厚い絨毯が敷き詰められたかのように静まり返っている。暖炉の爆ぜる音、古時計の振り子が厳かに時を刻む音、そして、読書に没頭する老紳士たちの、かすかな寝息だけが、その静寂に許された唯一の音響だった。
私は、コートをクロークに預け、その足でまっすぐ自分の私室へと向かった。廊下ですれ違った数人の会員は、私に気づかぬふりをして、あるいは、本当に気づかずに、それぞれの思索の海へと戻っていく。ここは、外界からの情報を遮断し、純粋な思考に没頭するための聖域。私語は厳禁。それが、このクラブの唯一にして絶対のルールだ。
だが今夜、私はそのルールを破る寸前だった。私の思考は、純粋な論理の構築ではなく、血の匂いがする生々しい現実へと向けられていた。先ほどの辻での出来事は、私の予測の範囲内ではあったが、それでも、この聖域にまでその残滓を持ち込んでしまったことに、わずかな不快感を覚える。私のコートには、あの男たちの恐怖と苦痛の匂いが、霧の湿気と共に染み付いている気がした。
自室に入り、鍵をかける。そこは、クラブの他のどの部屋よりも、私自身の思考が色濃く反映された空間だ。壁一面を埋め尽くす書棚には、法学、歴史、統計学、化学、そして各国の機密報告書の写しまでが、私だけの分類法に従って整然と並べられている。部屋の中央には、膨大な書類が山と積まれた巨大なデスク。その脇には、ロンドンの地下水道から政府機関の通信網まで、あらゆる情報を引き出すことができる、私専用の電信設備が鎮座していた。
私はまず、ブランデーをグラスに注ぎ、それを一気に呷った。アルコールの熱が、先ほどの戦闘で昂ぶった神経を鎮め、思考をクリアにしていく。次に、デスクのランプに火を灯し、椅子に深く腰掛けた。
クレイトン公爵は、動いた。そして、失敗した。
最初の襲撃が失敗に終わった今、彼はパニックに陥っているか、あるいは、より一層、怒りを募らせているか。どちらにせよ、彼の次の一手は、さらに予測しやすくなる。追い詰められた獣は、より単純で、より暴力的な行動に訴えるものだ。
問題は、アイリーン・ノートンだ。
彼女の隠れ家にも、刺客は送られているはずだ。彼女が、あの女が、無事に切り抜けていることを、私は信じていた。彼女は、ただ美しいだけの歌姫ではない。そのしなやかな肢体には、どんな獣よりも狡猾で、どんな毒蛇よりも危険な魂が宿っている。彼女は、私の駒であると同時に、自らの意思で動く独立したプレイヤーでもある。私が彼女を選んだのは、まさにその資質故だった。
だが、信じることと、確認することは、全く別の行為だ。
私が電信機に手を伸ばそうとした、その時だった。
チ、チチ、チチチ…
静寂を破り、電信機が微かな音を立てて受信を始めた。それは、政府の公式な暗号通信ではない。私と彼女の間だけで取り決めた、ごくプライベートな、そして緊急時のみに使用される特殊な信号だった。
私は、息を殺して、その短い電文に集中した。
モールス信号は、単語や文章を構成してはいない。ただ、いくつかの数字の羅列が、不規則な間隔を置いて送られてくるだけだ。それは、我々が事前に取り決めたブックコード。ある特定の書籍の、特定のページ、特定の行、特定の単語を示す、解読不可能なはずの暗号。
『…三人の客、来訪。もてなしは、少々手荒かったが、満足して帰った模様…』
電文を解読しながら、私の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。やはり、彼女はやってのけたのだ。「三人の客」とは、刺客の数だろう。「手荒いもてなし」で「満足して帰った」とは、彼女一流の皮肉だ。返り討ちにした、という意味に違いない。
だが、電文はそこで終わらなかった。
『…客の一人が、置き土産。公爵直筆の招待状。次は、もっと盛大なパーティーになりそう…』
私の眉が、わずかに動いた。
公爵直筆の招待状。刺客が、公爵の筆跡が分かるような証拠を所持していたということか。クレイトン公爵ほどの男が、信じがたい失態だ。いや、違う。これは失態ではない。怒りと焦りが、彼の判断を狂わせたのだ。彼は、私やアイリーンをただのチンピラを雇って始末できるような、その程度の相手だと侮った。だからこそ、自分の私兵に直接指示を出すという、最も確実で、最も痕跡が残りやすい手段を選んでしまった。
そして、電文の最後の一文。
『…舞台の幕は、まだ下ろさせない。フィナーレは、私が演出する…』
その一文を解読した瞬間、私は思わず声を殺して笑った。
見事だ、アイリーン・ノートン。彼女は、ただ生き延びただけではない。この事件の主導権を、私から、いや、公爵から奪い取り、自らの手に握ろうとしている。彼女はもはや、私の駒ではない。この盤上で、私と並び立つ、もう一人のクイーンになろうとしているのだ。
「フィナーレは、君が演出する、か…」
面白い。実に、面白い。
シャーロック、お前が見込んだだけのことはある。あの女は、ただ美しいだけの危険な花ではない。その棘には、猛毒だけでなく、我々兄弟と同じ、知性という名の傲慢さが含まれている。
私は、すぐに返信を打った。
これもまた、同じブックコードを使った短い暗号文だ。
『…結構。舞台装置は、こちらで用意する。主役の登場を待つ…』
それは、彼女の行動を承認し、そして、私が必要な支援を約束するという意思表示だ。彼女がどのような「フィナーレ」を考えているのかは分からない。だが、彼女がクレイトン公爵を追い詰めるための「舞台装置」――すなわち、情報、権力、そして物理的な支援――を用意するのは、私の役目だ。
電文を送り終えた私は、椅子から立ち上がり、部屋に隠されたもう一つの扉へと向かった。それは、書棚の裏に偽装された、政府の最高機密文書庫へと直接繋がる、私専用の通路だ。
アイリーン・ノートンが、彼女自身のやり方で公爵にチェックメイトをかけるというのなら、私は、そのための盤面を完璧に整えなければならない。公爵の息のかかった役人、彼が不正に蓄財した資産の隠し場所、彼がもみ消してきた過去のスキャンダルの証人たち。それら全ての情報を、今一度洗い出し、いつでも使える「弾丸」として装填しておく必要がある。
公爵は、私とアイリーンという二つの駒を狙った。だが、彼は致命的な間違いを犯した。彼は、我々が別々に動く、単なる個だと考えた。しかし、今や我々は、互いの能力を認め、一つの目的のために連携する、危険な同盟だ。
霧の夜は、まだ明けない。
だが、この灰色の書斎の中で、私はすでに、血塗られた夜明けの光景を幻視していた。それは、クレイトンのような古い権力が音を立てて崩れ落ち、新しい秩序が生まれる瞬間の、荘厳で、そして残酷な光景だった。
そして、そのフィナーレの舞台で、アイリーン・ノートンというプリマドンナが、一体どのようなアリアを歌い上げるのか。
それを想像するだけで、私の心は、久しぶりに、弟の事件を扱う時と同じような、冷たい興奮に満たされていくのだった。
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