第12章:最後の駒(2) ― 霧中の円舞曲 ―
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クレイトン公爵の屋敷を辞した時、ロンドンの夜は、すでに分厚い霧の外套をまとっていた。私が乗り込んだハンサムキャブの車輪は、湿った石畳の上を滑るように進み、ガス灯の頼りない光は、黄褐色の帳の向こうで滲んでは消える。まるで、街全体が巨大な幽霊船と化し、音もなく時の海を漂っているかのようだった。
私の心は、しかし、この幻想的な夜霧とは裏腹に、氷のように冴え渡っていた。
クレイトン公爵。あの男は、私が差し伸べた「慈悲」という名の最後通牒を、破り捨てるだろう。それは交渉の席を立つ前から分かりきっていたことだ。権力という麻薬に半生を浸し、自らを国家と同一視するまでに肥大した自尊心を持つ人間は、穏やかな終焉を受け入れられない。彼らにとって、忘れ去られることは死よりも辛い屈辱であり、監視下での余生は、永遠に続く拷問に等しい。
ならば、彼が選ぶ道は一つしかない。破滅だ。
だが、ただでは滅びない。自らを奈落へ突き落とした者たちを、可能な限り道連れにしようとするだろう。自らの破滅と引き換えに、一矢報いることだけが、彼に残された最後のプライドの表明方法なのだ。チェスで言えば、追い詰められたキングが、自らの命を捨てて敵のクイーンを相打ちに持ち込もうとする、捨て鉢の、しかし最も予測しやすい一手。
その「一矢」の矛先が、誰に向けられるか。
答えは明白だ。私の駒として動き、彼の牙城に忍び込んだ「あの女」、アイリーン・ノートン。そして、この茶番劇全体の脚本を書き、演出した、この私、マイクロフト・ホームズ。
問題は、その実行の速さだ。公爵の性格から分析するに、彼はこの屈辱的な会談の熱が冷めやらぬうちに、すぐさま行動を起こすだろう。怒りと憎悪が、彼の老獪な判断力を鈍らせ、拙速な行動へと駆り立てる。おそらく、今この瞬間にも、彼の飼う手駒――表社会では決してその存在を認められることのない、影の実行部隊――は、すでに動き出しているはずだ。
私は馬車の窓から、霧に溶けていく街並みを眺めていた。セント・ジェームズ・ストリートが近づき、ディオゲネス・クラブの重厚な扉が、この湿った混沌からの避難所として、私を待っている。だが、私は今夜、その安息の地へ、まっすぐには辿り着けないだろう。
「ここでいい」
クラブまでまだ二ブロックほど手前の角で、私は御者に声をかけた。御者は怪訝な顔をしたが、私が差し出した銀貨の輝きを見ると、黙って馬車を止めた。礼を言う代わりに、私はただ霧の中へと足を踏み出す。
なぜ、馬車を降りたのか。
それは、私なりの礼儀のようなものだ。無関係な人間を、これから起こるであろう厄介事に巻き込むのは、私の美学に反する。そして何より、馬車という狭く閉ざされた空間は、私にとって有利な戦場とは言えない。開けた場所で、自らの間合いで、予測済みの「害虫」を駆除する。それが最も効率的だ。
ペル・メルをディオゲネス・クラブへと向かう短い道程。霧はますます濃くなり、数ヤード先の人影すら見分けるのが困難になっていた。空気は冷たく湿り、石炭の煤とテムズ川の匂いが混じり合った、ロンドン特有の香りが肺を満たす。足音が、くぐもって響く。私の杖が、規則正しく石畳を打つ音。そして――それ以外の、不規則な音。
私の聴覚は、弟シャーロックのように音楽的な繊細さはないが、こと異常を検知する能力においては、彼に劣るものではないと自負している。霧が吸収しきれない、微かな衣擦れの音。背後から、そして左右の路地から、まるで包囲網を縮めるように近づいてくる、複数の気配。彼らは訓練されている。足音を殺し、霧に紛れる術を心得ている。だが、彼らが殺しきれていないものが一つだけあった。殺気だ。獲物を前にした狩人の、抑えきれない高揚と緊張。それは、どんな霧よりも濃く、私の皮膚を刺すように感じられた。
三名。おそらくは四名。
公爵も、私という男を甘く見てはいないらしい。ただの役人、政府の頭脳労働者だと思えば、一人か二人で十分だと考えるだろう。この人数は、私が「ただの役人ではない」という情報が、ある程度伝わっている証左だ。結構なことだ。そうでなくては、退屈すぎる。
私は、歩みを止めなかった。ただ、杖を握る手に、わずかに力を込める。この杖は、アイルランド産の堅いブラックソーン(スピノサスモモ)から削り出された特注品だ。その重心は完璧に調整され、先端には、見た目では分からぬよう、分厚い鉛が仕込まれている。それは歩行を補助する紳士の装身具であると同時に、一撃で人間の頭蓋を砕くことも可能な、凶悪な棍棒でもあった。
ディオゲネス・クラブの入り口が見える、ガス灯の光がぼんやりと滲む辻に出た、その時だった。
背後から、風を切る音がした。ナイフだ。狙いは、私の背中、心臓の位置。素人ならば、その音に気づいた時には、すでに手遅れだろう。
私は、しかし、振り返らなかった。ただ、体を半歩、左にずらした。それだけで、凶刃は私の分厚いコートの布地を切り裂くだけに終わり、私の肉には達しない。
空振りした襲撃者は、一瞬、体勢を崩す。そのコンマ数秒の隙が、彼にとっての命取りとなった。私はコマのように体を反転させ、体重を乗せた杖を、水平に薙いだ。狙いは、襲撃者の膝。ゴツン、という骨が砕ける鈍い音と共に、男は悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちた。私は、倒れゆく彼の体を意にも介さず、次の敵へと視線を移す。
霧の向こうから、残りの二人が同時に飛び出してきた。一人は拳銃を、もう一人は短い棍棒を手にしている。彼らは仲間の無様な失態を見て、もはや奇襲の利がないことを悟り、力でねじ伏せる戦法に切り替えたのだ。愚かな判断だ。
拳銃を構えた男が、私に狙いを定める。だが、この視界の悪い霧の中では、正確な射撃は望めない。彼の躊躇、その一瞬を見逃すほど、私は甘くはない。私は、崩れ落ちた最初の襲撃者の体から、彼の得物であったナイフを蹴り上げた。宙を舞ったナイフの柄を、左手で掴む。そして、投げる。
私の投擲術は、サーカス団員のように華麗ではない。ただ、最短距離で、目標に突き刺さるように計算されているだけだ。ナイフは、低い唸りを上げて霧を切り裂き、拳銃を構えた男の右腕、手首のすぐ上に深々と突き刺さった。
「ぐあああっ!」
絶叫と共に、男は拳銃を取り落とす。銃声が響く前に、脅威を無力化する。これが基本だ。
残るは、棍棒を持った最後の一人。彼は、二人の仲間が瞬く間に戦闘不能に陥ったのを見て、その顔に驚愕と恐怖の色を浮かべていた。だが、彼は退かなかった。任務を放棄すれば、どちらにせよ待っているのは死だ。彼は獣のような雄叫びを上げ、棍棒を振りかぶり、私に突進してきた。
私は、その直線的な攻撃を、静かに待ち構えた。
男が間合いに入り、棍棒を振り下ろす。その動きは、怒りに任せた、あまりに大振りな一撃だった。私は、その棍棒の軌道を最小限の動きでいなし、男の懐へと踏み込む。私の右肘が、がら空きになった彼の鳩尾に、深く、めり込んだ。
「ごふっ…」
蛙が潰れたような呻き声と共に、男の肺から全ての空気が吐き出される。彼は、目を見開いたまま、糸の切れた人形のようにその場に膝から崩れ落ちた。
わずか数十秒。
辻には、三人の男が転がり、静寂が戻ってきた。霧は、何事もなかったかのように、彼らのうめき声を優しく包み込んでいる。
私は、コートについたわずかな汚れを払うこともせず、彼らに一瞥をくれた。公爵の私兵。元軍人か、あるいは裏社会のならず者か。いずれにせよ、プロとしては二流だ。彼らの懐を探れば、身元を示すものは何一つ出てこないだろう。公爵ほどの男が、そんな初歩的なミスを犯すはずがない。
私は、膝を砕かれた最初の男の前に屈み込んだ。彼は、意識を失いかけている。
「君の雇い主に、伝言を頼みたいのだがね」
私は、彼の耳元で、静かに、しかし明瞭に囁いた。
「『盤上の駒が、キング自身に牙を剥くこともある』…と。まあ、君がこのまま意識を失えば、それも叶わぬことだが」
男が何かを答えようとする前に、私は立ち上がった。もう、彼らに用はない。警察が来る前に、この場を去る必要がある。もっとも、この辺りを巡回する警官は、私がクラブに入るまで、絶妙なタイミングで「別の事件」に足止めを食らう手筈になっているが。
私は、何事もなかったかのように、ディオゲネス・クラブへと続く石段を上り始めた。
この襲撃は、戦争の始まりを告げるゴングに過ぎない。クレイトン公爵は、私とアイリーン・ノートンという二つの駒を盤上から取り除こうとして、失敗した。ならば次は、もっと直接的な、あるいは、もっと陰湿な手を打ってくるだろう。
それでいい。
全ては、私の計算の内だ。
この夜の霧が晴れる頃、この国を蝕む最後の癌は、完全に切除されることになるのだから。
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