第12章:最後の駒(1) ― 女王の罠 ―
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ブルームズベリー地区の、月明かりだけが頼りの静かな裏通り。そこに佇む瀟洒なアパルトマンの最上階に、アイリーン・ノートンは暮らしていた。表向きは、最近ロンドンに戻ってきたばかりの、裕福な芸術愛好家の未亡人の住まい。だが、その磨き上げられた真鍮のドアノブの裏には、彼女だけが知る、幾重もの顔が隠されていた。
今夜も、彼女はオペラハウスの喝采と熱気を背に、たった一人でこの隠れ家へと戻ってきた。馬車を降りる際、御者に渡したチップには、彼女の指先でつけられた微かな香水の匂いが含まれている。万が一、尾行されていた場合、御者が誰にどこまで話したかを後から確認するための、ささやかな保険だった。警戒は、もはや彼女の呼吸そのものだった。
重厚なマホガニーの扉に鍵を差し込み、三度、異なる角度に回す。それは彼女自身が考案した複雑な錠前で、並の腕の錠前師では決して開けることはできない。カタリ、と最後の金属音が静寂に響き、彼女は滑るように室内へと入った。
部屋の中は、彼女の美意識が隅々まで行き届いていた。壁にはロセッティの複製画、窓辺には冬の寒さに耐える気高い蘭の鉢植え。ペルシャ絨毯が足音を吸い込み、暖炉には熾火が赤々と燃え残っている。一見すれば、優雅で、何の変哲もない、洗練された女性の私室だ。
だが、その実態は、蜘蛛の巣のように巧妙に張り巡らされた要塞だった。絨毯の下の数カ所には、侵入者の重みを感知する圧電式のセンサーが仕込まれ、壁の絵画の裏には、緊急時に外部へ信号を送るための電信機が隠されている。暖炉の横に無造作に置かれた火かき棒は、その重心が完璧に調整された、護身用の武器でもあった。
アイリーンは、舞台衣装のコルセットを緩めながら、深く息を吐いた。絹のドレスが床に滑り落ち、彼女は豪奢なシルクのガウンを身に纏う。鏡に映る自分の姿を見つめながら、彼女の思考は、数日前のマイクロフト・ホームズとの密会、そして今夜、彼が対峙しているであろうクレイトン公爵へと飛んでいた。
「灰色の謁見、ね…」
彼女は小さく呟いた。マイクロフトがそう名付けた、公爵との最終交渉。あの氷の塊のような男が、ただ言葉だけで老獪な貴族を屈服させようとしている。その光景を想像し、アイリーンはフッと自嘲気味に微笑んだ。あの兄弟は、揃いも揃ってドラマティックな演出を好む。弟のシャーロックならば、もっと派手な暴露劇を仕掛けたことだろう。だが、兄のやり方は、より静かで、より冷酷だ。まるで、音もなく相手の社会的生命を凍結させていく、絶対零度の冷気のように。
彼女は、マイクロフトから受け取った報酬――分厚い札束の入った封筒――を、ドレッサーの引き出しに無造作に放り込んだ。金は目的ではない。彼女がこの危険なゲームに身を投じたのは、あの男が言った通り、「退屈を紛らわす極上の謎」と、そして何より、自らの知性が鈍っていないことを確かめるためだった。モリアーティという巨大な悪が消え、シャーロック・ホームズという好敵手も舞台から降りた今、ロンドンはひどく退屈な場所に成り下がっていた。マイクロフト・ホームズは、その退屈に、血の匂いのするスパイスを振りかけてくれたのだ。
「…けれど、スパイスが効きすぎているかもしれないわね」
彼女は窓辺に歩み寄り、レースのカーテンの隙間から、霧に沈むロンドンの街並みを見下ろした。クレイトン公爵という男は、ただ追い詰められてすごすごと引き下がるような、殊勝な老人ではない。権力の頂点に長く君臨した者は、その座を追われると知った時、最も危険な獣と化す。プライドを砕かれた獣は、自らが滅びるとしても、敵の喉笛を食い破ろうとするだろう。
マイクロフトはそれを予測しているはずだ。あの男は、チェスの盤面を常に十手先まで読んでいる。ならば、彼が駒として使った自分自身もまた、敵の反撃の対象となることは自明の理。
その時だった。
彼女の鋭敏な聴覚が、階下の玄関ホールから響く、ほとんど聞き取れないほどの微かな金属音を捉えた。それは、正規の鍵ではない何かが、錠前の内部を不躾に探る音だった。ピッキングだ。しかも、相当な手練れの。
アイリーンの全身から、一瞬にしてくつろいだ空気が消え失せた。彼女の瞳は、舞台上で獲物を見つけた鷹のように鋭く細められ、背筋はしなやかな鞭のように張り詰める。心臓の鼓動はわずかに早まったが、それは恐怖からではなく、アドレナリンが全身を駆け巡る、闘争前の興奮からだった。
来た。思ったよりも、ずっと早く。
彼女は音もなく寝室へと後ずさり、ドレッサーの陰に身を潜めた。ピッキングの音は、やがて諦めたように止んだ。素人ならばそこで引き返すだろう。だが、プロは違う。次の瞬間、アパルトマンの建物全体を揺るがすような、鈍い衝撃音が響いた。ショルダーチャージ。ドアを物理的に破壊するつもりだ。
衝撃音は二度、三度と続き、ついにバリバリという木材の砕ける嫌な音と共に、階下の扉が破られた。複数の、重い靴音が、慎重に、しかし迷いなく階段を上がってくる。一人ではない。最低でも、三人。
アイリーンは、ドレッサーの鏡越しに、自室のドアを睨みつけた。彼女の部屋のドアノブは、美しい装飾が施されたガラス製だ。だが、その内部には、彼女がフランスの無政府主義者から手に入れた、特殊な仕掛けが施してある。
足音が、彼女の部屋の前で止まった。息を殺すような、濃密な沈黙。
やがて、ドアノブがゆっくりと、しかし力強く回された。
その瞬間、ガラス製のノブの内部で、仕込まれていた二種類の化学薬品を隔てていた薄い膜が破れた。薬品が混ざり合い、強烈な化学反応を起こす。パァン!という破裂音と共に、ドアノブが粉々に砕け散り、濃密な白煙が廊下へと噴出した。それはただの煙ではない。クロロアセトフェノンを主成分とする、強力な催涙ガスだ。
「ぐっ…!」「目、目がぁ!」「罠だ!」
廊下から、男たちの苦悶の声と激しい咳き込みが聞こえてくる。アイリーンは、この数秒の猶予を逃さなかった。彼女はガウンの裾を翻し、寝室の奥、巨大なワードローブの扉を開ける。そして、中に掛かっていた豪奢なドレスの数々を脇へ押しやると、その背後の壁を強く押した。
ギ、と小さな音を立てて、壁の一部が回転扉のように開く。そこには、隣の書斎へと続く、狭い隠し通路があった。彼女は滑るようにその闇の中へと消え、通路の内側から壁を閉じた。
書斎側へ抜けた彼女は、息を殺して耳を澄ませる。催涙ガスの効果が薄れるのを待って、男たちが部屋へなだれ込んでくるはずだ。書斎の壁に耳を当てると、隣の寝室で、男たちが悪態をつきながら、ベッドやクローゼットを荒々しく探している物音が聞こえてきた。
「いないぞ!」「どこへ消えた!」「あの女狐め…!」
アイリーンは静かに微笑んだ。彼女の舞台へようこそ、無粋な観客たち。これからが、本当のショータイムだ。
彼女は書斎の机の引き出しから、小さなデリンジャー拳銃――真珠貝のグリップがついた、彼女の手にしっくりと馴染む貴婦人の護身具――を取り出した。さらに、暖炉のマントルピースに飾られていた、美しい七宝焼の花瓶を手に取る。その底には、ずっしりとした鉛の重りが仕込まれていた。
寝室の捜索を諦めた男の一人が、書斎へと続くドアを蹴破った。屈強な体格の、顔に醜い傷跡のある男だ。彼は、部屋の中央に優雅に佇むアイリーンの姿を認め、獰猛な笑みを浮かべた。
「見つけたぜ、お嬢さん。公爵様がお呼びだ。死んでから、だがな」
男が懐からナイフを引き抜こうとした、その瞬間。
アイリーンは、手にしていた七宝焼の花瓶を、しなやかな腕の振りで男の顔面めがけて投げつけた。予期せぬ投擲と、見た目からは想像もつかない重量に、男は反応が遅れた。ゴッ、という鈍い音と共に、花瓶は男の鼻を砕き、男は呻き声と共に体勢を崩す。
アイリーンはその隙を決して逃さない。彼女は体勢を崩した男の脇をすり抜け、廊下へと飛び出した。催涙ガスはまだ完全に晴れてはいない。廊下には、もう一人の男が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で壁にもたれかかっていた。アイリーンは、その男の首筋に、デリンジャーの冷たい銃口を押し当てた。
「動かないで。私の言うことを聞けば、命だけは助けてあげるわ」
彼女の声は、氷のように冷たく、甘美な響きを失っていた。
しかし、背後から、催涙ガスの効果からいち早く回復した三人目の男が迫っていた。彼はアイリーンが仲間を人質に取ったのを見て、躊躇なく銃を構えた。プロの暗殺者だ。仲間の命など、任務の障害でしかない。
「終わりだ、女」
絶体絶命。
だが、アイリーンの唇には、なおも余裕の笑みが浮かんでいた。
「ええ、本当に。あなたの終わりよ」
彼女はそう言うと、人質に取っていた男の体を盾にするように突き飛ばし、同時に、廊下の壁に掛かっていたタペストリーの端に結ばれた紐を、強く引いた。
それは、最後の罠だった。
彼女が紐を引いた瞬間、タペストリーの真上、天井に隠されていた重い鉄の網が、滑車を軋ませながら落下した。銃を構えた男は、頭上からの異変に気づき目を見開いたが、もはや遅い。鉄の網は、彼と、突き飛ばされた仲間の両方を、床に叩きつけるように覆いかぶせた。
ガッシャーン!という凄まじい金属音と共に、二人の男は網の下で身動きが取れなくなった。
静寂が戻る。
鼻を砕かれた男は書斎で気を失い、残る二人は網の下で呻いている。アイリーンは、乱れたガウンを整え、デリンジャーをゆっくりと下ろした。彼女の額には汗が滲んでいたが、その瞳は冷徹な計算の色を宿したままだった。
彼女は、網の下で悪態をつく男の一人に近づき、その顔をハイヒールのつま先で冷たく踏みつけた。
「クレイトン公爵は、もっとマシな手駒をお持ちだと思っていたけれど。がっかりだわ」
男の懐から、乱暴に財布を抜き取る。中には、彼の身分を示すものは何もなかった。だが、折りたたまれた紙片が一つ。開くと、そこには彼女の似顔絵と、このアパートの住所、そして殴り書きで「始末しろ」と書かれていた。その筆跡には見覚えがあった。以前、公爵のパーティーで目にした、彼のサインの癖と酷似している。
「…チェックメイトには、まだ早いわよ、閣下」
アイリーンは紙片を握りつぶし、霧の立ち込める窓の外へと視線を向けた。
今頃、マイクロフト・ホームズもまた、公爵が放った別の駒と対峙しているに違いない。
この長い夜は、まだ始まったばかりなのだ。
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