第9章:沈黙の証人(2) ― 薔薇と追憶の棘 ―
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ロンドンの煤けた灰色が、車窓の外でゆっくりと緑色へと塗り替えられていく。
ケント州へと向かう一等客車のコンパートメントで、アイリーン・ノートンは、窓の外を流れる穏やかな田園風景を、虚ろな目で見つめていた。羊が草を食む丘、赤煉瓦の農家、そして、晩秋の冷たい風に葉を落とした木々のシルエット。そのすべてが、彼女がこれから演じる役柄――悲しみと失意の底にいる女性――の背景として、完璧に調和していた。
彼女はもはや、オペラ座の喝采を浴びるプリマドンナでも、公爵を惑わす妖艶な未亡人でもない。
今日の彼女は、アリス・サマーズ。数年前に不慮の死を遂げたアルフレッド・サマーズ医師の、存在しない妹。
服装は、上質だが華美な装飾を一切排した、チャコールグレーのトラベリング・スーツ。首元には、小さなジェットのブローチが、控えめな喪の意を示している。化粧もほとんどせず、その白い肌は、まるで長らく陽の光を浴びていないかのように、儚げな印象を与えた。手には、使い古された革の旅行鞄。その中には、マイクロフトが用意した資料の他に、彼女自身が準備した小道具が入っていた。兄の遺品という設定の、古びた医学書。そして、彼女が昨夜、万年筆で書き上げた、偽の手紙。
彼女は、マイクロフト・ホームズという男の用意周到さに、改めて舌を巻いていた。彼から送られてきた資料には、サー・ロデリック・グレイという人間の、魂の解剖図とも言うべき情報が詰まっていた。その中でも、彼女の心を捉えたのは、「強い信仰心」と「薔薇の栽培」という二つの記述だった。
神を畏れ、美を愛でる男。そのような人間が、国家を揺るがすほどの罪を隠し通し、平穏な余生を送れるはずがない。彼の魂は、きっと棘だらけの薔薇の茂みのように、美しさの裏側で、絶えず自らを傷つけ、血を流しているに違いない。
アイリーンの仕事は、その古傷を、そっと開いてやることだ。
アッシュフォードの駅に降り立つと、ひんやりとした、土と枯葉の匂いが混じった空気が彼女を迎えた。ロンドンの淀んだ空気とは違う、澄み切った冷たさが、かえって肺腑に沁みる。彼女は駅前で辻馬車を拾い、運転手に「ウィロウ・クリーク邸へ」と、静かな声で告げた。
馬車が、樫の並木道を抜けると、霧の中に沈むようにして、古びたマナーハウスが姿を現した。チューダー様式の、黒い梁と白い漆喰の壁。かつては威厳があったであろうその建物は、今は蔦に覆われ、どこか寂しげな雰囲気を漂わせている。屋敷の名前の由来であろう、柳の木々が、入り口の小川に沿って、物憂げに枝を垂らしていた。
しかし、その寂寥とした風景の中で、唯一、鮮烈な生命力を放っている場所があった。屋敷の南側に広がる、見事な薔薇園だ。季節は晩秋だというのに、遅咲きの品種が、まるで最後の抵抗のように、深紅や純白の花を懸命に咲かせている。丹精込めて手入れされていることは、一目瞭然だった。あれが、サー・ロデリックの聖域なのだろう。
アイリーンは馬車を降りると、重々しいオーク材の扉の前に立った。真鍮のドアノッカーを手に取り、三度、静かに打ち鳴らす。その音は、まるで静寂そのものに波紋を投げかけるかのように、屋敷の奥へと吸い込まれていった。
しばらくして、扉が軋みながら開いた。現れたのは、白髪をきつく結い上げた、厳格そうな顔つきの家政婦だった。
「ごめんくださいませ。何か御用でございましょうか」
家政婦は、アイリーンの姿を頭のてっぺんから爪先まで、品定めするように見つめた。
アイリーンは、怯えたような、しかし決意を秘めた眼差しで、家政婦を見返した。
「突然の訪問、大変申し訳ございません。わたくし、アリス・サマーズと申します。こちらのご主人様、サー・ロデリック・グレイ様に、どうしてもお目にかかりたく、参上いたしました」
彼女の声は、か細く、しかし凛とした響きを持っていた。
「サマーズ…?」家政婦は、その名前に眉をひそめた。「あいにく、ご主人様は、現在どなた様とも面会をお断りしております。特に、ご予約のない訪問は…」
「存じております」アイリーンは、家政婦の言葉を遮った。「ですが、これは、亡き兄、アルフレッド・サマーズに関する、大変重要な用件なのです。兄の遺品を整理しておりましたところ、サー・ロデリック様に宛てられたと思われる手紙を見つけまして…」
彼女は、鞄から例の偽の手紙を取り出し、封筒を家政婦に見せた。そこには、彼女が模倣した、サマーズ医師のものとされる筆跡で、確かに『サー・ロデリック・グレイ様』と書かれている。
家政婦の顔に、わずかな動揺の色が浮かんだ。サマーズという名前は、この屋敷では禁句だったのかもしれない。
「…少々、お待ちくださいませ」
家政婦はそう言うと、手紙は受け取らずに、扉を少しだけ開けたまま、屋敷の奥へと姿を消した。
アイリーンは、開かれた扉の隙間から、屋敷の中を窺った。薄暗いホールには、鹿の剥製や、先祖のものらしき肖像画が並んでいる。空気は冷たく、埃と、古い木材の匂いがした。まるで時が止まったかのような空間。その静寂が、かえって不気味だった。
やがて、廊下の奥から、ゆっくりとした足音が近づいてきた。家政婦に続いて現れたのは、猫背気味の、痩せた老人だった。ツイードの上着を羽織ってはいるが、その下に着たシャツの襟はよれ、憔悴しきった顔には、深い皺が刻まれている。マイクロフトの資料にあった写真よりも、十年は老け込んで見えた。彼が、サー・ロデリック・グレイだった。
彼の視線は、アイリーンの顔を見た瞬間、まるで亡霊でも見たかのように、大きく見開かれた。
「君は…誰だね」
その声は、錆びついた蝶番のように、かすれていた。
「アリス・サマーズと申します」アイリーンは、深くお辞儀をした。「アルフレッド・サマーズの妹でございます」
「サマーズの…妹…?」グレイは、信じられないというように、その言葉を繰り返した。「そんな話は、聞いたことがない…。彼に、妹など…」
「兄は、あまり家族の話をしたがらない人でしたから」アイリーンは、悲しげに微笑んだ。「わたくしたちは、少し複雑な家庭環境で育ちましたもので」
彼女は、ありもしない過去を、さも真実であるかのように語った。その瞳には、本物の哀しみが宿っているように見えた。
グレイは、しばらくの間、アイリーンの顔をじっと見つめていた。彼女の顔のどこかに、死んだ男の面影を探しているようだった。やがて、彼は深いため息をつくと、家政婦に向かって、力なく首を振った。
「…書斎へ、お通ししろ」
書斎は、ホールの陰鬱さとは対照的に、大きな出窓から柔らかな光が差し込む、居心地の良さそうな部屋だった。しかし、壁一面を埋める法律書や歴史書には、うっすらと埃が積もり、暖炉の火も消えかかっている。部屋の主が、もはや知的な探求への情熱を失って久しいことを物語っていた。
グレイは、革張りの大きな安楽椅子に深く沈み込むと、震える指先でアイリーンに椅子を勧めた。
「それで…用件は何かな、ミス・サマーズ。兄君が、私に手紙を?」
「いいえ、サー」アイリーンは、首を横に振った。「兄があなた様に宛てて書いた手紙は、ございませんでした。わたくしが見つけましたのは…兄が、誰かから受け取った手紙の下書きのようなものでした。そこには、あなた様のお名前と、いくつかの…不可解な言葉が記されておりました」
これは、計算された嘘だった。相手に「物証」を提示するのではなく、その存在を匂わせることで、彼の警戒心を解き、想像力を掻き立てる。
「不可解な…言葉?」グレイの声が、わずかに上ずる。
「ええ」アイリーンは、鞄から古びた医学書を取り出し、膝の上に置いた。「例えば、『クロラール水和物』という薬品の名前。そして、『ホワイトチャペルでの奉仕』…『公爵閣下への忠誠』といった言葉が…」
彼女は、一つ一つの単語を、まるで聖句を唱えるかのように、ゆっくりと、はっきりと口にした。
その瞬間、サー・ロデリック・グレイの顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼の唇はわななき、その目は、アイリーンの背後にある、見えない何かを恐れるように、宙を彷徨った。
「…何を言っているのか、分からんね」彼は、かろうじて声を絞り出した。「君の兄君は、立派な医師だった。貧しい者たちのために尽くした、善良な男だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「ええ、存じております」アイリーンは、彼の言葉に静かに頷いた。「だからこそ、わたくしは知りたいのです。善良だったはずの兄が、なぜ、あのような形で…テムズ川の冷たい水の中で、発見されなければならなかったのか。警察は事故として処理しましたが、わたくしには、どうしてもそうは思えません」
彼女は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。窓の外には、あの見事な薔薇園が広がっている。
「サー・ロデリック。あなたは、薔薇をお育てになっていらっしゃるのですね。美しい花を咲かせるためには、病気になった枝や、枯れた葉を、剪定しなければなりませんわね」
彼女は、薔薇園から、部屋の中の老人へと視線を戻した。その瞳は、もはや悲しみに濡れた妹のものではなく、真実を求める審問官の鋭さを帯びていた。
「兄は…誰かの罪を隠すために、『剪定』されたのでしょうか」
グレイは、言葉を発することができなかった。ただ、安楽椅子の上で、老いた体を小さく震わせるばかりだった。彼の顔は、恐怖と、長年押し殺してきた罪悪感がないまぜになった、苦悶の表情に歪んでいた。
アイリーンは、彼がこれ以上、今日この場では何も語らないことを悟った。だが、それでよかった。彼女が蒔いた疑念と恐怖の種は、確かに、彼の魂の奥深くに、深く根を張ったはずだ。
「本日は、突然押しかけ、申し訳ございませんでした」
アイリーンは、再び完璧な悲劇のヒロインに戻り、深く一礼した。
「失礼いたしますわ」
彼女は、返事を待たずに書斎を後にした。
廊下を歩き、玄関の扉を開ける。冷たい外気が、再び彼女を包んだ。
彼女は知っていた。今夜、サー・ロデリック・グレイは、眠れぬ夜を過ごすことになるだろう。そして、彼の良心という名の亡霊が、彼に告解を迫るだろう、と。
ゲームは、まだ始まったばかりだった。
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