第9章:沈黙の証人(1) ― 霧の中の告解室 ―
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時刻は、午前二時をとうに回っていた。
ペルメル街のガス灯が吐き出す光は、窓ガラスに付着した夜霧に滲み、ぼんやりとした琥珀色の暈となって、私の書斎の闇を弱々しく照らしている。ディオゲネス・クラブの石造りの壁は、ロンドンの喧騒と湿気を完全に遮断し、室内には暖炉の樫の木が爆ぜる音と、私が紙をめくる微かな音だけが響いていた。沈黙こそが、このクラブの唯一にして絶対の掟。そして、思考を深めるための、何よりの贅沢であった。
私の手元には、一時間ほど前に、信頼できる部下を介してアイリーン・ノートンから届けられたばかりの戦利品が、静かに置かれている。クレイトン公爵の書斎から盗み出された、二つの紙片。一つは、クロラール水和物の処方箋。もう一つは、封蝋の砕かれた手紙。
処方箋は、それ自体が雄弁な物語を秘めていた。発行した医師の名は、アルフレッド・サマーズ。彼は、数年前の切り裂きジャック事件の捜査線上に、一度だけ名前が挙がった男だ。被害者の一人と親密な関係にあったとされながら、有力者の介入により、早々に捜査対象から外されたという記録が、私の記憶の書庫には保管されている。そしてこのサマーズ医師は、ジャック事件が終息した直後、不慮の事故でテムズ川の藻屑と消えた。偶然にしては、あまりに出来すぎている。
だが、真の価値を持つのは、もう一つの紙片、あの手紙だった。
上質なクリーム色の料紙に、気品がありながらも、どこか神経質な震えを感じさせるインクの文字。そして、差出人を示す紋章。私はそれを一目見ただけで、誰のものかを特定していた。ヴィクトリア女王の従弟にあたる、カンバーランド公爵家のものだ。彼は若い頃から素行に問題があり、数々の醜聞を金と権力で揉み消してきた、王室にとっての悩みの種。ジャック事件が世間を震撼させていた頃、彼はロンドンに滞在し、夜な夜な素性の知れぬ者たちと歓楽街で遊興に耽っていたという非公式な報告も受けている。
手紙の内容は、予想通り、脅迫と懇願が入り混じった、醜悪な代物だった。
『君の“忠誠心”に感謝する。例の件は、くれぐれも内密に頼む。かの女が我々の秘密を漏らすようなことがあれば、それは我々全員の破滅を意味する。必要な手は、すべて打ってくれ。サマーズ医師は、君の指示に忠実に従うだろう』
短い文面だが、行間には底なしの恐怖と、それを隠蔽しようとする権力者の傲慢さが滲み出ていた。
「かの女」とは、おそらくジャックの被害者の一人。「我々の秘密」とは、カンバーランド公爵家の人間が関わった、公にできないスキャンダル。そしてクレイトン公爵は、そのスキャンダルを隠蔽するための「処理係」だった、ということになる。処方箋の存在は、サマーズ医師がその処理に加担していたことを示唆している。
見事な仕事だ、ミセス・ノートン。私は心の中で、姿なき協力者に賛辞を送った。彼女は、我々が描いた仮説のど真ん中を射抜く証拠を、完璧に持ち帰ってきた。
しかし、と私は思考を巡らせる。
この手紙は、クレイトン公爵を法廷で有罪にするには、あまりにも脆弱だ。彼は間違いなく、こう主張するだろう。「私は、カンバーランド公爵家から脅迫されていたのだ。王室の権威を盾に、不本意ながら協力させられた被害者なのだ」と。腐敗した貴族社会では、その言い分がまかり通ってしまう可能性が高い。我々が追い詰めたいのは、蜥蜴の尻尾ではなく、頭そのものなのだ。
物証だけでは足りない。我々が必要としているのは、公爵が自らの意思で、積極的に事件の隠蔽工作を行ったという「生きた証言」だ。脅迫された哀れな被害者ではなく、国家の正義を歪めた共犯者であったことを証明する、人間の言葉。
私は椅子から立ち上がると、書斎の壁一面を埋め尽くす、非公開の政府資料が収められた書庫へと向かった。目指すは、数年前の内務省の記録。切り裂きジャック事件に関する、公式捜査記録とその付属文書だ。
指先が、分厚い革の背表紙をなぞっていく。当時の新聞記事の切り抜き、スコットランドヤードからの報告書の写し、閣議の議事録。その膨大な情報の海の中から、私は意図的に作られた「空白」と「歪み」を探し出す。捜査が特定の方向に進みかけた途端、不自然な形で打ち切られた記録。重要な証人への聴取が、理由もなく延期され、忘れ去られたメモ。そして、事件の収束と同時に行われた、不可解な人事異動。
点と点が、線として結ばれていく。
すべての不自然な動きの中心には、常に一人の男の署名があった。
当時の内務次官、サー・ロデリック・グレイ。
彼は、叩き上げの有能な官僚だった。平民出身でありながら、その実直さと驚異的な記憶力で、内務省のトップにまで上り詰めた男。だが、ジャック事件を境に、彼の経歴には影が差し始める。事件終息後、彼は突如として健康上の理由を盾に、すべての公職を辞任。爵位こそ与えられたものの、それは明らかに、口封じのための名誉職だった。以来、彼はロンドンの社交界から完全に姿を消し、今はケント州の片田舎で、世捨て人のような生活を送っているという。
間違いない。彼こそが、我々の探している「沈黙の証人」だ。
クレイトン公爵からの圧力に屈し、国家の捜査機関を捻じ曲げた男。彼の魂には、今もなお、その罪の意識が、消えない烙印のように焼き付いているはずだ。
だが、この老いた元官僚の重い口を開かせるのは、至難の業だろう。彼は、自らが犯した罪の重さと、それを告白した際のリスクを、誰よりも理解している。国家への背信と、クレイトン公爵という強大な敵からの報復。その恐怖が、彼の唇を固く封じている。
論理で説き伏せることは不可能。脅迫は、彼をさらに頑なにするだけだ。
必要なのは、彼の心の奥底に眠る良心と恐怖、その両方を巧みに揺さぶり、告解へと導く技術。それは、冷徹な分析や計算では到達できない、人間の感情の機微を読み解く領域の仕事だ。
私の脳裏に、再びあの女の顔が浮かんだ。
オペラ座の舞台で喝采を浴びるプリマドンナ。ホワイトチャペルの路地裏で酒場の女給に成りすます役者。そして、公爵の腕の中でか弱く崩れ落ちてみせた未亡人。
アイリーン・ノートン。彼女ならば、あるいは。
私はペンを取り、一枚の便箋に向かった。
彼女に、次の舞台を用意せねばなるまい。ケント州の穏やかな田園風景の中に隠された、古びた告解室という名の舞台を。
・・・・・・・・・・
馬車が、ロンドンの裏通りにひっそりと佇むアパルトマンの前で停まった。
アイリーン・ノートンは、追跡者の馬車を巧みに振り切った後、御者にいくつかの偽の行き先を告げさせ、ようやくこの隠れ家へとたどり着いた。
重い扉を開け、室内に滑り込むと、彼女は背中を壁に預け、深く長い息を吐いた。仮面舞踏会の喧騒、公爵のねっとりとした視線、書斎でのスリリングな探索、そして背後から迫る追跡者の気配。張り詰めていた神経の糸が、ぷつりと切れるのを感じた。
彼女は、身につけていた孔雀の羽の仮面を床に投げ捨てると、きつく締め上げられたコルセットの紐を乱暴に引きちぎるように緩めた。シルクのドレスが音を立てて滑り落ち、彼女はようやく、自分自身の呼吸を取り戻した。
暖炉には、まだ熾火が残っている。彼女は薄いガウンだけを羽織ると、小さなグラスにブランデーを注ぎ、一気に呷った。琥珀色の液体が、喉を焼き、冷え切った体の芯に、じんわりとした熱を広げていく。
アイリーンは、暖炉の前の絨毯に座り込み、ドレスの胸元から取り出した二つの紙片を、改めて炎の光にかざした。毒の処方箋。そして、王家の血を引く男からの、破滅的な手紙。
彼女は、馬車の中でその内容を読んで以来、ずっと感じていた戦慄を、再び味わっていた。これは、自分が想像していた以上に、根が深い。単なる殺人事件の隠蔽ではない。大英帝国の最も神聖な領域、王室そのものに繋がるスキャンダルだ。マイクロフト・ホームズは、自分に、怪物の喉笛に手を突っ込ませたのだ。
その怪物の正体を知ってしまった今、もはや後戻りはできない。彼らは、この秘密を知った人間を、決して生かしてはおかないだろう。生き延びる道は、マイクロフトと共に、このゲームに勝ち抜くことだけだ。
その時、控えめに扉がノックされた。
アイリーンは、素早く紙片をガウンの懐に隠し、暖炉のそばに置いてあった拳銃に手を伸ばした。
「誰?」
「マイクロフト・ホームズ様からの、お届けものでございます」
扉の外から聞こえたのは、聞き覚えのある、感情の乗らない男の声だった。マイクロフトの腹心の一人だ。
アイリーンは銃を降ろし、扉の鍵を開けた。立っていたのは、夜霧に濡れたコートを着た、郵便配達員にしか見えない男だった。彼は、無言で一通の手紙を差し出すと、一礼し、闇の中へと消えていった。
手紙の封を切ると、中には数枚の紙が入っていた。
一枚目には、マイクロフトの几帳面すぎるほど整った文字で、簡潔な指示が記されていた。
『次の目標は、サー・ロデリック・グレイ。元内務次官。ケント州アッシュフォード近郊、ウィロウ・クリーク邸に隠遁中。添付の資料を読めば、彼の役割は理解できるはずだ。彼を説得し、クレイトン公爵の圧力に関する証言を引き出せ。方法は、君に一任する。これは、論理ではなく、感情のゲームだ。君の舞台だ、存分に演じたまえ』
二枚目以降は、サー・ロデリック・グレイに関する詳細な経歴書だった。彼の生い立ち、官僚としての功績、家族構成、そして趣味や性格に至るまで、まるで解剖学の教科書のように、一人の人間のすべてが記されていた。妻に先立たれ、子供はいない。唯一の趣味は、薔薇の栽培。性格は、実直だが、極度の心配性。そして、強い信仰心を持つ、とあった。
アイリーンは、資料を読み進めるうちに、マイクロフトの意図を完全に理解した。彼は、自分を、この老人の罪悪感と信仰心につけ込むための「使徒」として送り込もうとしているのだ。
彼女の唇に、いつしか女優としての笑みが浮かんでいた。
挑戦だ。これほどまでに、やりがいのある役はない。
彼女の頭の中で、すでに新しい役柄が形作られ始めていた。それは、告解を求める罪人の前に現れる、過去からの亡霊か。それとも、神の赦しをちらつかせる、慈悲深き聖女か。
アイリーンは、窓の外に広がるロンドンの夜霧を見つめた。霧の向こうにある、ケント州の穏やかな田園風景と、そこに隠された暗い秘密に、彼女は思いを馳せる。
「ええ、存分に演じさせていただきますわ、ミスター・ホームズ」
彼女は、誰にともなく呟いた。
「最高の舞台を、お見せしましょう」
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