表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
39/63

第8章:仮面舞踏会(5) ― 去り際のワルツ ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

「ありがとう、存じます」

 アイリーンは、差し出されたエルダーフラワー・コーディアルのグラスを、わずかに震える手で受け取った。その震えは、もちろん演技だった。しかし、先ほど目にした肖像画の衝撃と、手の中に隠し持った鍵の冷たい感触が、彼女の演技に、真に迫ったリアリティを与えていた。


 公爵は、彼女のすぐ隣のソファに腰を下ろし、その距離を巧妙に詰めてきた。彼の体温と、アルマニャックの香りが、再び彼女を包み込む。

「マダム、あなたの瞳は、まるで夜の湖のようだ。その奥に、どんな物語が隠されているのか…ぜひ、聞かせていただきたい」

 彼の声は、甘く、ねっとりとしていた。獲物を完全に手中に収めたと信じ込んでいる、捕食者の声だった。


 アイリーンは、コーディアルを一口だけ飲み、そして、わざとむせた。

「ごほっ…申し訳、ありません…」

 彼女は、グラスをテーブルに置くと、苦しげに胸を押さえた。


「大丈夫かね?」

 公爵が、心配するふりをして、彼女の背中に手を伸ばす。


 その瞬間こそが、アイリーンが待っていた最後の好機だった。

「…めまいが…」

 彼女は、そう呟くと、糸が切れた人形のように、彼の腕の中へと崩れ落ちた。今度は、先ほどのバルコニーでの比ではない。完全に、意識を失う寸前の人間を演じきった。


「おい、しっかりしろ!」

 公爵は、慌てて彼女の体を抱きとめた。彼の腕が、彼女の肩と腰を力強く支える。彼の関心は、完全に、腕の中のか弱い獲物に集中していた。


 アイリーンの右手は、だらりと垂れ下がるふりをしながら、最後の仕事を遂行していた。彼女の指先は、公爵のベストのポケットの位置を正確に捉え、スリ取った時とは逆の、流れるような動きで、冷たい金属の鍵をそっと滑り込ませた。鍵が、布地の内側に落ちる、ごく微かな音。それは、オーケストラの遠い響きと、暖炉の薪が爆ぜる音に、完璧に紛れた。


 任務完了。


 アイリーンは、ゆっくりと目を開け、か細い声で言った。

「…申し訳ありません、閣下。どうやら、本当に…旅の疲れが出てしまったようですわ」

 彼女は、公爵の腕から、名残惜しそうに、しかし毅然として身を離した。


「いや、無理もない。長旅の直後に、このような喧騒は、酷だったかもしれんな」

 公爵は、鍵が戻されたことなど露ほども知らず、彼女の体調を気遣う紳士を演じ続けていた。だが、その瞳の奥には、獲物を逃すことへの、隠しきれない失望の色が浮かんでいた。


「これ以上、閣下にご迷惑をおかけするわけにはまいりません。今宵は、これにて、失礼させていただきますわ」

 アイリーンは、ふらつく足取りで立ち上がった。その姿は、誰が見ても、今にも倒れそうな、儚い未亡人そのものだった。


「待ちなさい、マダム」公爵は、彼女の手を掴んだ。「せめて、私の馬車で、お送りさせよう」

「お心遣い、痛み入ります。ですが、迎えの馬車を待たせておりますので」

 彼女は、きっぱりと、しかし優雅にその申し出を断った。彼の馬車に乗れば、どこへ連れて行かれるか、分かったものではない。


 公爵は、しばらく彼女の手を放さなかったが、やがて諦めたように、その指先に口づけをした。

「…ならば、仕方あるまい。だが、約束していただきたい。後日、改めて、お会いする時間をいただけると。今日の、この会話の続きを、ぜひ」


「ええ、喜んで」

 アイリーンは、仮面の下で、完璧な微笑みを浮かべた。その約束が、果たしてどのような形で実現するのか、彼はまだ知らない。


 公爵に書斎の扉まで見送られ、アイリーンは再び、華やかな喧騒が渦巻く廊下へと戻った。彼女は、壁に寄りかかるようにして、数秒間、呼吸を整えた。ドレスの下に隠した証拠品が、彼女の肌に冷たく触れる。


 彼女が大広間を横切り、出口へと向かう途中、一人の男とすれ違った。道化師の仮面をつけた、長身の男。しかし、その仮面の下から覗く瞳は、道化師とは程遠い、剃刀のような鋭さで、一瞬、彼女を射抜いた。見られた、というよりも、値踏みされた、という感覚。アイリーンは、その視線に気づかぬふりをしながらも、全身の神経を研ぎ澄ませた。公爵の“猟犬”か、あるいは、別の何かか。男は、そのまま人混みの中へと消えていったが、アイリーンの背筋に、冷たいものが走った。


 クロークでコートとショールを受け取り、孤独な緊張感の中、彼女は屋敷の正面玄関から、夜の闇へと滑り出た。冷たい夜気が、火照った肌に心地よかった。石段の下には、マイクロフトが手配した、目立たない辻馬車が待機している。


 彼女が馬車に乗り込み、扉が閉められる。その直後、彼女は窓のカーテンの隙間から、屋敷の玄関を振り返った。直感が、そうさせたのだ。案の定、先ほどの道化師の仮面をつけた男が、素早く階段を駆け下り、近くに停まっていた別の馬車へと乗り込むのが見えた。


 やはり、追跡者だ。


 馬車が、ゆっくりと走り出す。石畳の上を転がる車輪の音が、まるで運命の歯車のきしむ音のように聞こえた。


 アイリーンは、深く息を吐き、ショールを外し、ドレスの胸元に手をやった。指先が、冷たい紙の感触を捉える。毒の処方箋。そして、王族に近い貴族からの、封蝋で閉じられた手紙。


 追跡者の馬車の音が、すぐ後ろから聞こえてくる。

 ロンドンの夜霧の中を、二台の馬車が、追いつ追われつ、疾走していく。


 アイリーンは、決意を固めた。彼女は、震える指で、手紙の封蝋に爪を立てた。マイクロフトに渡す前に、知っておかなければならない。自分が、一体、どんな怪物の顎の中に、その手を突っ込んでしまったのかを。


 パキリ、と乾いた音がして、二百年の歴史を誇る名門の紋章が、砕け散った。


 彼女は、ゆっくりと、その手紙を、開いた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

いかがでしたでしょうか? 面白いと感じていただけましたら、ぜひブックマークや評価【☆☆☆☆☆】で応援をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ