第8章:仮面舞踏会(5) ― 去り際のワルツ ―
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「ありがとう、存じます」
アイリーンは、差し出されたエルダーフラワー・コーディアルのグラスを、わずかに震える手で受け取った。その震えは、もちろん演技だった。しかし、先ほど目にした肖像画の衝撃と、手の中に隠し持った鍵の冷たい感触が、彼女の演技に、真に迫ったリアリティを与えていた。
公爵は、彼女のすぐ隣のソファに腰を下ろし、その距離を巧妙に詰めてきた。彼の体温と、アルマニャックの香りが、再び彼女を包み込む。
「マダム、あなたの瞳は、まるで夜の湖のようだ。その奥に、どんな物語が隠されているのか…ぜひ、聞かせていただきたい」
彼の声は、甘く、ねっとりとしていた。獲物を完全に手中に収めたと信じ込んでいる、捕食者の声だった。
アイリーンは、コーディアルを一口だけ飲み、そして、わざとむせた。
「ごほっ…申し訳、ありません…」
彼女は、グラスをテーブルに置くと、苦しげに胸を押さえた。
「大丈夫かね?」
公爵が、心配するふりをして、彼女の背中に手を伸ばす。
その瞬間こそが、アイリーンが待っていた最後の好機だった。
「…めまいが…」
彼女は、そう呟くと、糸が切れた人形のように、彼の腕の中へと崩れ落ちた。今度は、先ほどのバルコニーでの比ではない。完全に、意識を失う寸前の人間を演じきった。
「おい、しっかりしろ!」
公爵は、慌てて彼女の体を抱きとめた。彼の腕が、彼女の肩と腰を力強く支える。彼の関心は、完全に、腕の中のか弱い獲物に集中していた。
アイリーンの右手は、だらりと垂れ下がるふりをしながら、最後の仕事を遂行していた。彼女の指先は、公爵のベストのポケットの位置を正確に捉え、スリ取った時とは逆の、流れるような動きで、冷たい金属の鍵をそっと滑り込ませた。鍵が、布地の内側に落ちる、ごく微かな音。それは、オーケストラの遠い響きと、暖炉の薪が爆ぜる音に、完璧に紛れた。
任務完了。
アイリーンは、ゆっくりと目を開け、か細い声で言った。
「…申し訳ありません、閣下。どうやら、本当に…旅の疲れが出てしまったようですわ」
彼女は、公爵の腕から、名残惜しそうに、しかし毅然として身を離した。
「いや、無理もない。長旅の直後に、このような喧騒は、酷だったかもしれんな」
公爵は、鍵が戻されたことなど露ほども知らず、彼女の体調を気遣う紳士を演じ続けていた。だが、その瞳の奥には、獲物を逃すことへの、隠しきれない失望の色が浮かんでいた。
「これ以上、閣下にご迷惑をおかけするわけにはまいりません。今宵は、これにて、失礼させていただきますわ」
アイリーンは、ふらつく足取りで立ち上がった。その姿は、誰が見ても、今にも倒れそうな、儚い未亡人そのものだった。
「待ちなさい、マダム」公爵は、彼女の手を掴んだ。「せめて、私の馬車で、お送りさせよう」
「お心遣い、痛み入ります。ですが、迎えの馬車を待たせておりますので」
彼女は、きっぱりと、しかし優雅にその申し出を断った。彼の馬車に乗れば、どこへ連れて行かれるか、分かったものではない。
公爵は、しばらく彼女の手を放さなかったが、やがて諦めたように、その指先に口づけをした。
「…ならば、仕方あるまい。だが、約束していただきたい。後日、改めて、お会いする時間をいただけると。今日の、この会話の続きを、ぜひ」
「ええ、喜んで」
アイリーンは、仮面の下で、完璧な微笑みを浮かべた。その約束が、果たしてどのような形で実現するのか、彼はまだ知らない。
公爵に書斎の扉まで見送られ、アイリーンは再び、華やかな喧騒が渦巻く廊下へと戻った。彼女は、壁に寄りかかるようにして、数秒間、呼吸を整えた。ドレスの下に隠した証拠品が、彼女の肌に冷たく触れる。
彼女が大広間を横切り、出口へと向かう途中、一人の男とすれ違った。道化師の仮面をつけた、長身の男。しかし、その仮面の下から覗く瞳は、道化師とは程遠い、剃刀のような鋭さで、一瞬、彼女を射抜いた。見られた、というよりも、値踏みされた、という感覚。アイリーンは、その視線に気づかぬふりをしながらも、全身の神経を研ぎ澄ませた。公爵の“猟犬”か、あるいは、別の何かか。男は、そのまま人混みの中へと消えていったが、アイリーンの背筋に、冷たいものが走った。
クロークでコートとショールを受け取り、孤独な緊張感の中、彼女は屋敷の正面玄関から、夜の闇へと滑り出た。冷たい夜気が、火照った肌に心地よかった。石段の下には、マイクロフトが手配した、目立たない辻馬車が待機している。
彼女が馬車に乗り込み、扉が閉められる。その直後、彼女は窓のカーテンの隙間から、屋敷の玄関を振り返った。直感が、そうさせたのだ。案の定、先ほどの道化師の仮面をつけた男が、素早く階段を駆け下り、近くに停まっていた別の馬車へと乗り込むのが見えた。
やはり、追跡者だ。
馬車が、ゆっくりと走り出す。石畳の上を転がる車輪の音が、まるで運命の歯車のきしむ音のように聞こえた。
アイリーンは、深く息を吐き、ショールを外し、ドレスの胸元に手をやった。指先が、冷たい紙の感触を捉える。毒の処方箋。そして、王族に近い貴族からの、封蝋で閉じられた手紙。
追跡者の馬車の音が、すぐ後ろから聞こえてくる。
ロンドンの夜霧の中を、二台の馬車が、追いつ追われつ、疾走していく。
アイリーンは、決意を固めた。彼女は、震える指で、手紙の封蝋に爪を立てた。マイクロフトに渡す前に、知っておかなければならない。自分が、一体、どんな怪物の顎の中に、その手を突っ込んでしまったのかを。
パキリ、と乾いた音がして、二百年の歴史を誇る名門の紋章が、砕け散った。
彼女は、ゆっくりと、その手紙を、開いた。
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