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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第8章:仮面舞踏会(4) ― 毒と鍵 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 バルコニーから書斎へ戻ると、部屋の空気は、先ほどよりも濃密な、期待と緊張が入り混じったものに変わっていた。公爵は、アイリーンが自らの腕の中に倒れ込んできたことで、完全に彼女を支配できると確信したようだった。彼の仮面の下の唇には、もはや隠そうともしない、捕食者の笑みが浮かんでいる。


「マダム、顔色がまだ優れないようだ」公爵は、彼女のすぐそばに立ち、囁くように言った。「もう少し、休んでいかれるといい。私のアルマニャックは、どんな医者の処方箋よりも、心に効く薬だ」


 彼は、再びデキャンタに手を伸ばそうとした。アイリーンは、その瞬間を逃さなかった。彼女には、時間稼ぎのための、そして公爵を無力化するための、次なる策略が必要だった。


「…ありがとうございます、閣下」彼女は、弱々しく微笑みながら、彼の動きを制した。「ですが、わたくし、強いお酒はあまり得意ではなくて。もし、何か…そう、お水か、あるいは、少し甘い飲み物をいただけると、嬉しいのですが」


 それは、か弱い貴婦人が口にする、ごく自然な願いだった。しかし、その裏には、冷徹な計算があった。この書斎に、水差しや甘いコーディアルが常備されている可能性は低い。公爵は、それを手に入れるために、従僕を呼ぶか、あるいは自ら部屋を出る必要に迫られる。どちらに転んでも、彼女は、ほんのわずかな「一人になる時間」を手に入れることができる。


 公爵は、一瞬、眉をひそめた。獲物を目の前にして、その場を離れることへの、わずかな苛立ち。しかし、彼はすぐに紳士的な仮面を被り直した。

「もちろん、もちろんだとも。気が利かなくて、すまなかった。すぐに、レモネードでも用意させよう」


 彼は、執務机のそばにある、呼び鈴の紐に手を伸ばした。

「待てよ」公爵は、ふと思いついたように、動きを止めた。「階下の喧騒の中で用意させるよりも、私の私室に、上等なコーディアルがあったはずだ。すぐ隣の部屋だ。私が、直々に取ってきて差し上げよう」


 その提案は、アイリーンにとって、望外の幸運だった。従僕を呼べば、その従僕が部屋にいる間、彼女は動けない。だが、公爵自らが部屋を出てくれれば、完璧な密室での、完璧な自由時間が手に入る。


「まあ、閣下自ら? そんな、ご迷惑な…」彼女は、恐縮するふりをして見せた。


「迷惑なものか。美しい女性のためならば、喜んで」

 公爵は、芝居がかった仕草で一礼すると、書斎のもう一つの扉――彼の私室へと繋がる、本棚に偽装された隠し扉――へと向かった。

「すぐに戻る。せいぜい、私の地図でも眺めていてくれたまえ」


 扉が、音もなく閉まり、公爵の気配が完全に消える。

 その瞬間、マダム・ラ・ロシュフコーの憂いを帯びた仮面は剥がれ落ち、アイリーン・ノートンの冷徹な素顔が現れた。


 時間は、おそらく2分もない。


 彼女は、一切の無駄な動きを排し、音もなく執務机へと駆け寄った。手にした鍵を、目標の引き出しの鍵穴に差し込む。鍵は、マイクロフトの予測通り、複雑な構造をしていた。だが、アイリーンは、かつてロンドンの裏社会で生きていた頃、錠前破りの技術も叩き込まれていた。彼女の指は、まるで鍵盤を奏でるピアニストのように、繊細かつ正確に鍵を回した。


 カチリ、と小さな、しかし心臓に響く音がして、錠が開いた。


 彼女は、ゆっくりと引き出しを開けた。中には、公的な書類とは明らかに趣の異なる、数冊の革張りの手帳と、封蝋で閉じられた手紙の束が、整然と収められていた。


 これだ。


 彼女は、まず手帳の一冊を手に取った。それは、公爵の日記のようだった。几帳面な文字で、日々の出来事や、事業に関する所感が記されている。彼女は、超人的な速さでページをめくり、キーワードを探した。『ホワイトチャペル』『ジャック』『娼婦』…。


 そして、数週間前の日付のページで、彼女の指が止まった。


『W地区の“掃除”は、思うように進んでいない。送った“猟犬”どもは、無能揃いか。あの女一人、始末できんとは。計画の障害となる“虫”は、早急に潰さねばならん。マイクロフトの影もちらつく。目障りな男だ。だが、奴も、私が“あの情報”を握っている限り、手出しはできまい』


 “あの女”。それは、間違いなく自分のことだ。そして、“あの情報”。マイクロフトが恐れる、国家を揺るがすスキャンダル。その核心に触れる記述だ。


 アイリーンは、さらにページをめくった。すると、別の手帳から、一枚の紙片がはらりと滑り落ちた。それは、薬品の処方箋のようなものだった。書かれているのは、素人には解読不能な、複雑な化学記号の羅列。しかし、その紙の隅に、走り書きのようなメモがあった。


『“アトロポス”。少量で、錯乱。過剰摂取で、心臓麻痺。無味無臭。検死でも検出困難。最終手段』


 アトロポス。ギリシャ神話の、運命の三女神のうち、生命の糸を断ち切る女神の名前。それは、明らかに、強力な毒物のコードネームだった。ホワイトチャペルの犠牲者たち。彼女たちは、単に切り裂かれただけではなかった。マイクロフトの検死報告によれば、何らかの薬物によって、抵抗不能な状態にされていた可能性が示唆されていた。これが、その毒か。


 アイリーンは、その処方箋を、ドレスの胸元に隠した。これが、公爵を殺人事件に結びつける、何よりの物証になる。


 次に、彼女は封蝋で閉じられた手紙の束に目をやった。差出人の名前はない。しかし、その紋章に見覚えがあった。それは、王家に連なる、ある高位の貴族の紋章だった。マイクロフトが最も警戒していた人物。


 彼女は、手紙を開封する時間がないことを悟った。だが、この手紙こそが、マイクロフトが求める「切り札」であることは、疑いようもなかった。彼女は、一瞬逡巡した後、大胆な決断を下した。手紙の束の中から、最も新しそうな日付のものを一通だけ抜き取り、処方箋と同じ場所に隠した。そして、残りの手紙を、元の場所に戻し、あたかも一通だけが紛失したかのように見せかける。全てを盗むよりも、一通だけを抜き取る方が、発覚までの時間を稼げるかもしれない。


 彼女は、素早く引き出しを閉め、鍵をかけた。そして、公爵が戻ってくる前に、鍵を彼のベストのポケットに戻さなければならない。


 彼女が、机から離れようとした、その時だった。

 ふと、引き出しの奥に、もう一つ、小さなビロードの小箱があることに気がついた。それは、手帳や手紙とは明らかに異質なものだった。好奇心に駆られ、彼女は、ほんの一瞬だけ、その箱を手に取った。


 蓋を開けると、中には、一房の、色褪せた髪の毛が、リボンで結ばれて、大切そうに収められていた。金色の、美しい髪。そして、その下には、一枚の、小さな肖像画ミニアチュールが隠されていた。


 描かれていたのは、若く、美しい女性の顔だった。儚げな微笑みを浮かべた、青い瞳の女性。アイリーンは、その顔に見覚えがあった。いや、見覚えがある、というレベルではない。その顔は、ここ数週間、彼女の悪夢の中に、何度も現れた顔だった。


 それは、ホワイトチャペルで殺害された、最初の犠牲者。メアリー・アン・ニコルズの、若き日の姿だった。


 なぜ、クレイトン公爵が、彼女の肖像画と髪を?

 二人の間に、一体何が?


 アイリーンの頭脳が、混乱と驚愕で、一瞬、停止した。これは、マイクロフトの仮説にはなかった、全く予期せぬ事実だった。事件の動機は、単なる土地買収の障害排除ではなかったのか? そこには、もっと個人的な、深い情念が絡んでいるのか?


 その時、隠し扉の向こうで、微かな物音がした。

 公爵が、戻ってくる。


 アイリーンは、我に返った。彼女は、弾かれたように小箱を元の場所に戻し、引き出しを閉め、鍵をかけた。そして、何食わぬ顔で、地図の陳列ケースの前に戻った。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。


 隠し扉が開き、銀の盆にグラスを乗せた公爵が、再び姿を現した。

「待たせたな、マダム。極上のエルダーフラワー・コーディアルだ」


 彼の目は、何も気づいていないようだった。

 だが、アイリーンには、もう、彼が以前と同じ人間には見えなかった。彼は、単なる冷酷な権力者ではない。その仮面の下には、歪んだ執着と、狂気を秘めた、全く別の獣が潜んでいる。


「…ありがとうございます」

 彼女は、震えを抑え、完璧なマダム・ラ・ロシュフコーとして、微笑んでみせた。


 彼女の手の中には、まだ、公爵から盗んだ鍵が握られていた。これを、どうやって戻すか。

 そして、彼女の頭の中では、手に入れた情報――毒の処方箋、高位貴族からの手紙、そして、犠牲者の肖像画――が、恐ろしいパズルのピースとして、組み合わさり始めていた。


 この仮面舞踏会は、彼女が想像していたよりも、ずっと深く、暗い闇に繋がっている。

 そして、彼女は今、その闇の、まさに中心に立っていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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