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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第7章:盤上の駒(5) ― 新たな役割 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 馬車は、やがて重厚な石造りの建物の前で、その動きを止めた。窓の外には、ガス灯の光にぼんやりと照らされた、飾り気のない、しかし威圧的なファサードが見える。そこは、地図には載らない、大英帝国の神経中枢の一つだった。マイクロフト・ホームズが、その広大な情報網を統括する、秘密の拠点の一つだ。


「着きました」マイクロフトは、扉を開けながら言った。「今夜は、ここでお休みなさい。ロンドンで、ここ以上に安全な場所はない」


 アイリーンが馬車を降りると、冷たい夜気が肌を刺した。彼女は、建物の無機質な壁を見上げた。それは、まるで巨大な墓石のようにも、あるいは、国家という巨大な機械の、心臓部を収めるための頑丈な箱のようにも見えた。


 二人が中に入ると、重い扉が背後で自動的に閉まり、外の世界の音を完全に遮断した。内部は、簡素だが機能的な調度品で整えられ、数人の地味な服装の男たちが、足音も立てずに、それぞれの持ち場へと行き来していた。彼らは、マイクロフトに恭しく一礼するが、アイリーンの存在には、まるで彼女がそこにいないかのように、一切の関心を示さなかった。彼らは、感情を消去するように訓練された、完璧な部品なのだろう。


 マイクロフトは、アイリーンを一つの部屋へと案内した。そこは、来客用の寝室のようだったが、豪華さよりも、むしろ質実剛健さが際立っていた。清潔なベッド、小さな書き物机、そして、窓には厚いカーテンではなく、鉄格子がはめ込まれていた。


「少々、殺風景かもしれないが、警備は万全だ」マイクロフトは、部屋の隅にあるサイドボードを指し示した。「食事と、着替えを用意させた。あなたのサイズに合うかは分からないが、無いよりはましだと思う」


 サイドボードの上には、温かいスープとパン、そして、シンプルなウールのドレスが畳んで置かれていた。

「…至れり尽くせりですこと」アイリーンは、皮肉とも感謝ともつかない口調で言った。「まるで、上等な囚人のようですわね」


 その言葉に、マイクロフトは初めて、わずかに表情を動かした。それは、困惑のようにも、あるいは、かすかな同情のようにも見えた。

「囚人、ではありません。あなたは、我々の最も重要な『協力者』です」彼は、静かに訂正した。「そして、協力者には、新たな役割が与えられます」


 彼は、懐から一枚のカードを取り出し、アイリーンに手渡した。それは、厚手の上質な紙に、美しいカリグラフィーで何事かが記された、招待状だった。


『クレイトン公爵主催 秋の仮面舞踏会』


 その文字を見た瞬間、アイリーンの心臓が、大きく一度、鼓動した。

「これは…」


「クレイトン公爵は、今夜の襲撃が失敗に終わったことを、間もなく知るだろう」マイクロフトは、説明を続けた。「彼は、あなたという『情報源』を失ったと判断する。そして、我々が彼の計画にどこまで迫っているのか、焦りと疑念を募らせるはずだ。彼は、必ず次の手を打ってくる。おそらくは、より直接的で、大胆な手を」


 彼は、アイリーンが持つ招待状を、その灰色の瞳で射抜くように見つめた。

「だからこそ、我々は、彼が動く前に、彼の懐に飛び込む。予定どおり、あなたにはこの舞踏会に出席してもらいたい」


「私が? 正気ですの?」アイリーンは、思わず声を上げた。「彼らは私の顔を知っています。舞踏会に足を踏み入れた瞬間、捕らえられるのが関の山ですわ」


「その通り。だからこそ、あなたは『アイリーン・アドラー』としてではなく、別の誰かとして、そこへ行くのだ」


 マイクロフトは、書き物机の上に置かれていた、もう一つの封筒を手に取った。

「ここには、あなたの新しい『経歴』が入っている。あなたは、大陸から来た、さる富豪の未亡人、マダム・ド・ラ・ロシュフコー。芸術と、そして『古い地図』に目がない、少々風変わりな貴婦人だ。クレイトン公爵は、あなたの持つ莫大な資産と、そして何より、あなたの『無知』に興味を持つだろう。彼は、あなたを新たなカモとして、自ら近づいてくるはずだ」


 それは、あまりにも大胆で、危険な計画だった。敵の牙城の、まさに中心に、彼女一人を送り込むというのだ。

「…それは、私が再び、あなたのチェス盤の駒になるということですね」アイリーンは、招待状を握りしめながら、静かに言った。「今度は、敵陣のど真ん中に置かれる、捨て駒の『ポーン』として」


「いや」マイクロフトは、その言葉を、静かに、しかし力強く否定した。「あなたは、もはやポーンではない。敵のキングに、直接チェックをかけるための、『クイーン』なのだ」


 彼は、アイリーンの目を見つめ、続けた。

「この役を、あなた以上に巧みに演じられる者は、大英帝国のどこにもいない。あなたの知性、あなたの度胸、そして、あなたの美貌。その全てが、この作戦を成功させるための、不可欠な要素なのだ。これは、依頼ではない。私の、あなたに対する『期待』だ」


 その言葉は、不思議な力を持っていた。それは、命令でも、懇願でもなかった。ただ、一人の傑出した知性が、もう一人の傑出した知性に対して送る、最大限の信頼の表明だった。アイリーンは、マイクロフトの灰色の瞳の奥に、冷徹な計算だけではない、ある種の熱のようなものを感じた。それは、この国を守るという、彼の揺るぎない使命感の炎だった。


 アイリーンは、しばらくの間、沈黙した。そして、やがて、彼女の唇に、あの、人を惑わす、挑戦的な笑みが浮かんだ。

「…面白そうですわね、その役。退屈よりは、よほどましですもの」


 彼女は、招待状を机の上に置いた。

「お受けいたしますわ、ホームズ卿。あなたの『クイーン』、見事に演じて差し上げましょう。ただし、一つだけ条件があります」


「何でしょう?」

「このゲームが終わったら、私に最高のシャンパンを一杯、ご馳走してくださいな。クレイトン公爵の、とっておきの年代物を、彼のセラーから失敬してくる、というのはいかが?」


 その大胆不敵な提案に、マイクロフトの鉄仮面のような表情が、ほんの一瞬、和らいだ。彼の口元に、満足げな、ほとんど見えないほどの笑みが浮かんだ。


「承知しました、マダム・ド・ラ・ロシュフコー」彼は、軽く一礼した。「最高の勝利には、最高の祝杯が相応しい」


 こうして、盤上の駒は、新たな配置についた。ホワイトチャペルの闇の中で始まったゲームは、今、ロンドンの華やかな社交界という、より危険で、より欺瞞に満ちた舞台へと、その戦場を移そうとしていた。仮面舞踏会の夜、二人のクイーンが、一つの盤上で激突する。その結末を、まだ誰も知らなかった。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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