第7章:盤上の駒(4) ― 盤面の再構成 ―
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ホワイトチャペルの夜霧は、酒場の外に出た二人を、まるで共犯者を隠すかのように、優しく、そして冷たく包み込んだ。「折れたマスト亭」の中から漏れ聞こえていた呻き声や物音は、分厚い扉が閉まると同時に、完全に世界から切り離された。あと数分もすれば、マイクロフトが手配した『掃除屋』――おそらくは、MI6の前身となる彼の私的な諜報組織の者たち――が到着し、この事件の痕跡を、文字通り跡形もなく消し去るだろう。床に転がっていた男たちも、恐怖に震えていた客たちの記憶も、すべては闇から闇へと葬り去られるのだ。
マイクロフトは、物乞いの外套を脱ぎ捨て、その下に隠していた、仕立ての良いが地味なツイードのジャケット姿に戻った。彼は、まるで汚れた皮を脱ぎ捨てる蛇のように、一瞬にして、ホワイトチャペルの物乞いから、大英帝国の政府高官へとその姿を変えた。
「馬車を待たせてある」彼は、路地の角を指し示しながら、事務的な口調で言った。「ここから先は、徒歩で移動するのは賢明ではない」
二人は、言葉少なに、霧の中を進んだ。アイリーンは、先ほどの衝撃からまだ完全には立ち直れずにいた。彼女は、マイクロフトの冷徹な暴力だけでなく、その計画の周到さに、改めて戦慄を覚えていた。彼は、フィンという情報屋が二重スパイであることを見抜き、クレイトン公爵の私兵をおびき出すための罠として、彼女をホワイトチャペルに送り込んだのだ。彼女自身が、チェス盤の上の『クイーン』であると同時に、敵の『キング』を誘い出すための『ポーン』でもあったという事実に、彼女は屈辱よりもむしろ、ある種の興奮を感じていた。この男のゲームは、それほどまでに複雑で、そして魅力的だった。
路地の角を曲がると、ガス灯の光の中に、一台の簡素なブロアム型馬車が、まるで幻のように静かに停まっていた。御者台には、誰の姿も見えない。だが、マイクロフトが近づくと、馬車の扉が内側から、音もなく開かれた。
「乗りなさい」
マイクロフトに促され、アイリーンは馬車に乗り込んだ。内装は、外見とは裏腹に、上質な革張りで、座席には柔らかいクッションが敷かれていた。彼女が座ると、マイクロフトも乗り込み、扉を閉めた。途端に、外の湿った空気と街の匂いが遮断され、静寂が二人を包む。馬車は、御者の鞭の音も、掛け声もなく、滑るようにして動き出した。
「…私を、囮に使ったのね」アイリーンは、沈黙を破り、まっすぐにマイクロフトを見つめて言った。その声には、非難の色はなかった。ただ、事実を確認するための、静かな響きがあった。
マイクロフトは、窓の外に流れる、霧に滲んだロンドンの夜景から視線を外し、彼女に向き直った。
「正確に言えば、あなたの能力を信頼し、最も効果的な役割を担ってもらった、ということだ」彼は、淡々と答えた。「あなたは、ただの囮ではない。敵の性質と規模を測るための、極めて重要な『観測手』だった。そして、あなたは見事にその役目を果たした」
「もし、あなたの到着が遅れていたら?」
「遅れる、という可能性は存在しなかった」マイクロフトは、きっぱりと言い切った。「私は、あなたが酒場に入る三分前から、物乞いとして店内の隅に座っていた。全ての変数は、計算済みだった」
その絶対的な自信。アイリーンは、小さく息を吐いた。この男と議論をすることは、自然法則に逆らおうとするのと同じくらい、無意味なことなのかもしれない。
「それで、観測の結果はどうでしたの? 偉大なる観測者殿」彼女は、少し皮肉を込めて尋ねた。
「結果は、極めて有益だ」マイクロフトは、指を組んで、その上に顎を乗せた。いつもの、ディオゲネス・クラブでの彼の姿だった。「第一に、クレイトン公爵は、我々が彼の周辺を嗅ぎまわっていることを、正確に把握している。第二に、彼はその脅威を排除するためなら、殺人も厭わない私兵組織を、自由に動かすことができる。第三に、その組織は、ホワイトチャペルのような無法地帯に、即座に展開できるだけの規模と機動力を持っている」
彼は、一度言葉を切り、アイリーンをじっと見つめた。
「そして、最も重要な第四の発見。彼らは、あなたを殺すのではなく、『生け捕り』にしようとした。これは、彼らがあなたから、さらなる情報を引き出そうとしていることを意味する。つまり、彼らは、我々がどこまで知っているのかを、まだ正確には知らない」
「…それが、我々の利点だと?」
「その通り」マイクロフトは頷いた。「彼らは、我々が彼らの秘密――おそらくは、ドイツとの内通や、来るべき仮面舞踏会での計画――にどこまで迫っているのか、確信が持てない。だからこそ、あなたを捕らえ、尋問しようとした。この『情報の非対称性』こそが、我々が次に打つべき手を決定づける、最大の武器となる」
馬車は、いつの間にか、ホワイトチャペルの猥雑な地区を抜け、より整然とした、しかし同じように暗い、官庁街の一角に差し掛かっていた。
「我々の計画は、第二段階へ移行することになる」マイクロフトは、宣言した。「もはや、地道な情報収集の段階は終わった。これより、我々は攻勢に転じる」
「攻勢…? 具体的には、どうなさるおつもり?」
アイリーンの問いに、マイクロフトは、初めて、その唇の端に、ごく微かな、氷のような笑みを浮かべた。それは、勝利を確信したチェスプレイヤーが、最後のチェックメイトを宣告する直前に見せる表情だった。
「クレイトン公爵は、我々を『雑草』だと考えているようだ。庭から引き抜き、処分すべき存在だと。ならば、こちらも彼に相応しい役割を与えて差し上げよう」
彼は、窓の外の闇に目を向けた。その灰色の瞳には、これから動かすであろう、巨大な盤面の駒たちが映っているかのようだった。
「彼は、自らを狩人だと思っている。だが、実際には、我々が仕掛けた、より大きな罠へと誘い込まれている獲物に過ぎない。仮面舞踏会の夜、彼は自らの書斎で、我々が仕掛けた『真実』と対峙することになる。そして、その時、彼は自分が盤上の駒でしかなかったことを、悟ることになる」
その言葉は、もはや単なる予測ではなかった。それは、未来を決定づける、神の託宣にも似た、絶対的な響きを持っていた。アイリーンは、この男が描く壮大な謀略の、まさに中心に自分がいることを、改めて実感した。そして、その運命を、彼女は受け入れようと決意した。この恐ろしくも魅力的なゲームの結末を、この男の隣で、最後まで見届けるために。
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