第7章:盤上の駒(3) ― 沈黙の支配者 ―
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酒場は、もはや墓場のような静寂に包まれていた。先ほどまでの喧騒が、まるで遠い昔の出来事であったかのように感じられる。床には、三人の男が、まるで壊れた人形のように転がっていた。一人は手首を砕かれ、喉を押さえて呻き、残りの二人は意識を失ってぴくりとも動かない。その中心に、ぼろ布をまとった物乞い――マイクロフト・ホームズが、静かに立っていた。
彼の呼吸は、一切乱れていなかった。その表情は、相変わらず汚れたフードの影に隠れて窺い知れないが、その佇まいからは、激しい戦闘を終えた直後とは思えないほどの、不気味なほどの落ち着きが漂っていた。
店の入口を固めていた残りの二人組は、目の前で起こった信じがたい光景に、完全に凍り付いていた。彼らの仲間が、屈強で鳴らしたはずの同僚たちが、瞬く間に、そしてあまりにも一方的に無力化された。目の前の物乞いは、人間ではない。ホワイトチャペルの闇が生み出した、何か得体の知れない悪夢そのもののように見えた。
彼らの脳裏に、命令よりも先に、生存本能が警鐘を乱打する。逃げろ、と。
一人が、もう一人の顔を見、無言で頷き合う。彼らは、背を向け、夜の霧の中へと逃げ出そうとした。それは、訓練された兵士としてはあるまじき行為だったが、目の前の『怪物』を前にしては、最も合理的な判断だった。
だが、マイクロフトは、彼らを逃がすつもりはなかった。
「無駄だ」
その声は、静かだったが、酒場の隅々まで、そして逃げ出そうとする男たちの背中にまで、氷のように突き刺さった。
マイクロフトは、床に落ちていた棍棒の一つを、まるで杖でも拾うかのように、こともなげに拾い上げた。そして、次の瞬間、彼の腕が鞭のようにしなった。棍棒は、唸りを上げて空中を飛び、逃げようとした男の一人の、まさにアキレス腱のあたりを正確に打ち据えた。
甲高い悲鳴が響き、男は前のめりに体勢を崩す。もう一人の男は、仲間を見捨てることもできず、一瞬、動きを止めた。その一瞬が、彼の運命を決した。
マイクロフトは、すでに動いていた。彼は、倒れた男たちを障害物とも思わぬ滑らかな足取りで駆け抜け、あっという間に二人目の男の背後に回り込んでいた。男が振り返るよりも早く、マイクロフトの手刀が、その首の付け根、延髄へと正確に叩き込まれた。男は、声もなく、その場に崩れ落ちた。
アキレス腱を砕かれた男は、床を這ってでも逃げようともがいた。だが、その頭上に、巨大な影が落ちる。見上げると、フードの奥から、冷たい灰色の瞳が、彼を無感情に見下ろしていた。
「君たちの主人の名は?」マイクロフトの声は、尋問というよりは、事実確認に近かった。「クレイトン公爵か?」
男は、恐怖と痛みで顔を歪め、答えない。ただ、ガタガタと震えるだけだった。
マイクロフトは、小さく、ほとんど聞き取れないほどの溜息をついた。
「合理的ではないな」
彼は、男の健常な方の足首を、その汚れたブーツの上から、ゆっくりと踏みつけた。ミシミシ、と骨が軋む音が、静まり返った店内に響き渡る。
「ああ…! ああああっ!」男の絶叫が、ついに静寂を破った。
「もう一度聞く。主人の名は?」
「く…クレイトン…! クレイトン公爵様だ…!」男は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、叫んだ。「頼む、もうやめてくれ…!」
「目的は?」
「女の捕縛だ…! 生きたまま、屋敷へ連れてこいと…! 口を割らせるために…!」
「なぜ我々の接触を知った?」
「情報屋だ…! フィンとかいうネズミが、俺たちにも情報を売っていたんだ…!」
その言葉に、テーブルの陰で震えていたフィンが、悲鳴のような声を上げた。アイリーンは、冷たい目でその男を一瞥した。裏切りは、この街の日常茶飯事だ。驚きはなかった。
マイクロフトは、男の足から力を抜いた。
「よろしい。君は、他の者よりは、少しだけ合理的だ」
彼はそう言うと、気絶させることさえせず、男をその場に放置した。もはや脅威ではない、ただの壊れた道具と判断したからだ。そして、彼はゆっくりとアイリーンの方へ向き直った。
酒場の他の客たちは、壁に張り付いたり、テーブルの下に隠れたりしたまま、息を殺していた。誰も、声を発しない。誰も、動かない。この物乞いの男が、この場の絶対的な支配者であることを、彼らの本能が理解していた。
アイリーンは、静かに立ち上がった。彼女の顔には、もはや洗濯女の怯えはなく、ただ、目の前の男に対する、底知れない興味と、かすかな戦慄だけが浮かんでいた。彼女は、自分の心臓が、恐怖ではなく、興奮で高鳴っているのを感じていた。
「…見事な『掃除』でしたわね、ホームズさん」彼女の声は、わずかに震えていたが、それは恐怖からではなかった。「弟さんのバリツとは、また趣が違いますこと。彼の技が、時に芸術的な閃きを見せる剣舞だとしたら、あなたのは…まるで屠殺場の解体作業のようですわ」
その皮肉に、マイクロフトは答えなかった。彼は、物乞いのフードをゆっくりと外し、その下から、ディオゲネス・クラブの主としての、冷徹で知的な顔を現した。額には汗一つ浮かんでいない。
「感傷は不要です、ミセス・ノートン」彼は、自分の汚れた外套を見下ろし、眉をひそめた。「この格好は、どうにも肌に合わない。だが、君の安全を確保するためには、最も効率的な手段だった」
彼は、アイリーンが使っていたテーブルに近づき、床に落ちた彼女の洗濯籠を拾い上げた。
「情報屋の裏切りは、想定の範囲内。むしろ、彼らをおびき出すための、撒き餌でした。これで確信が持てた。クレイトン公爵は、我々の動きを確実に掴んでおり、そして、それを潰すために、躊躇なく非合法な実力行使に出る、と」
彼の言葉は、この暴力的な介入が、すべて計画通りであったことを示唆していた。アイリーンは、改めて彼の思考の深さに舌を巻いた。彼は、ただ彼女を尾行し、守っていただけではない。この襲撃そのものを、敵の正体と意志を確認するための、壮大な実験として利用したのだ。
「では、この人たちは?」アイリーンは、床に転がる男たちを顎で示した。
「スコットランドヤードには渡さない」マイクロフトは、きっぱりと言った。「彼らを尋問すれば、公爵の名がすぐに出る。そうなれば、政府内の『穏便な処理』を望む勢力が動き出し、我々の調査は妨害されるだろう。彼らは、我々が『処理』する」
その『処理』という言葉が、どのような意味を持つのか、アイリーンはあえて問わなかった。この男ならば、国家の安寧のためとあらば、何のためらいもなく、彼らの存在をこの世から抹消するだろう。その冷酷さを、彼女は今、はっきりと理解した。
「行こう」マイクロフトは、アイリーンに促した。「ここは、もうじき本当の『掃除屋』が来る。我々が長居する場所ではない」
彼は、何事もなかったかのように、酒場の扉へと向かった。その背中を、アイリーンは複雑な思いで見つめながら、静かに従った。彼女は、恐ろしい男と同盟を結んでしまったという自覚と、同時に、これほど頼もしい味方はいないという確信の間で、心が揺れていた。
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