第7章:盤上の駒(2) ― 灰色の外套 ―
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酒場に満ちていた喧騒は、もはや完全に死んでいた。残っているのは、緊張に引きつった客たちの息遣いと、ガス灯のバーナーが立てる微かな音、そして、アイリーンを取り囲む男たちの、重く、威圧的な存在感だけだった。彼らは、この空間の支配者だった。少なくとも、ほんの数秒前までは。
物乞いの男が身を起こしたことで、その完璧な支配に、僅かな、しかし無視できない亀裂が生じた。リーダー格の男の苛立ちは、その亀裂に向けられた。彼の完璧な計画、獲物を静かに、そして確実に追い詰めるというシナリオに、予期せぬ役者が紛れ込んだことへの不快感だ。
「聞こえなかったのか、汚物め」リーダーの男は、物乞いに向かって一歩踏み出した。その動きには、邪魔者を排除するための、躊躇のない暴力性が滲んでいた。「さっさと失せろ。でなければ、その汚いツラを、床の染みに変えてやる」
物乞いは、それでも顔を上げなかった。ただ、その肩が、微かに揺れた。それは、恐怖に震えているようにも、あるいは、何かを堪えているようにも見えた。そして、その震える肩の下から、低く、しかし驚くほど明瞭な声が漏れ出した。
「…五人。店の入口に二人、裏口に一人、そして、ここに二人。全員、右利き。上着の左胸の膨らみは、おそらくリボルバー。だが、この狭い店内で発砲はしない。騒ぎが大きくなりすぎる。故に、得物は棍棒とナイフ。標的は、女性一人。目的は、殺害ではなく捕縛。依頼主は、この騒ぎを『痴話喧嘩』か『酔っ払いの諍い』程度に偽装したいと考えている」
その声は、物乞いのものとは思えぬほど、理知的で、冷徹な響きを持っていた。それは、この場の状況を、まるでチェス盤上の駒の配置を読むかのように、正確に分析していた。
リーダーの男は、一瞬、言葉を失った。彼の表情に、初めて困惑の色が浮かぶ。この物乞いは、何者だ?ただの酔っ払いではない。その分析は、あまりにも的確すぎた。
「…何をごちゃごちゃと…」
男が、虚勢を張って怒鳴りつけようとした、その瞬間。
物乞いは、動いた。
それは、爆発ではなかった。むしろ、真空だった。彼の周囲の空気が、一瞬にして吸い込まれるような、無音の動き。彼は立ち上がったのではない。ただ、そこに『在った』のだ。リーダーの男の、すぐ目の前に。
男は、反応できなかった。彼の鍛え上げられた肉体と、幾多の修羅場を潜り抜けてきたはずの反射神経が、完全に意味をなさなかった。物乞いの手が、まるで幻影のように伸び、男の喉元を掴んでいた。だが、それは掴むというよりは、触れているだけに近い、奇妙な接触だった。指先が、首の動脈と神経が集中する一点を、的確に押さえている。
「第一の誤算」物乞いの声が、今度はすぐ耳元で響いた。その声には、もはや物乞いの演技の欠片もなかった。それは、大英帝国の心臓部で、国家の運命を左右する決定を下す男の声だった。マイクロフト・ホームズの声だった。「君たちは、標的の観察に集中するあまり、周囲の環境分析を怠った。この店には、君たち以外の『部外者』が、もう一人いた」
リーダーの男の顔が、驚愕に見開かれる。彼は、喉を押さえる指に力を込めようとしたが、身体が鉛のように重く、動かなかった。指先から伝わる、的確で、無慈悲な圧力が、彼の全身の神経を麻痺させていた。
「第二の誤算」マイクロフトは、もう一方の手で、男が棍棒を握る手首を、まるで熟した果実を摘むかのように、軽く、しかし抗いがたい力で握りしめた。「君たちは、君たち自身の能力を過信した。君たちの暴力は、無秩序な弱者に対してのみ有効だ。訓練され、目的意識を持った敵の前では、それはただの無駄な動きに過ぎない」
ゴキッ、という鈍い音が響いた。それは、骨が砕ける音というよりは、硬い木の枝が折れる音に近かった。リーダーの男の顔が、苦痛に歪む。棍棒が、力なく床に落ちた。
その全てが、ほんの二、三秒の間に起こった。アイリーンも、残りの襲撃者たちも、そして恐怖に凍り付いていた他の客たちも、何が起きたのかを正確に理解できずにいた。ただ、ぼろ布をまとった物乞いが、屈強な男を、赤子の手をひねるように無力化したという、信じがたい光景だけが、そこにあった。
残りの四人の襲撃者たちが、ようやく我に返った。彼らの顔に、驚きと怒り、そして微かな恐怖が浮かぶ。
「貴様!」
「何をしやがる!」
裏口を固めていた男と、リーダーのそばにいた男が、同時にマイクロフトに襲いかかった。一人はナイフを逆手に、もう一人は棍棒を振りかぶって。
マイクロフトは、無力化したリーダーの体を、まるで盾のようにして前方に突き出した。ナイフを持った男は、咄嗟に仲間を傷つけることをためらい、動きが鈍る。そのコンマ数秒の躊躇が、命取りだった。
マイクロフトは、リーダーの体を押し出す勢いをそのまま利用し、回転するように身を翻した。彼の足が、まるで鞭のようにしなり、棍棒を振りかぶった男の膝の関節を、外側から的確に蹴り抜いた。再び、鈍い破壊音。男は、悲鳴を上げる間もなく、崩れ落ちた。
同時に、マイクロフトの体は、ナイフを持った男の懐に、滑るように潜り込んでいた。彼の肘が、最短距離を走り、男の鳩尾を抉る。空気を絞り出されるような呻き声と共に、男の体は「く」の字に折れ曲がった。マイクロフトは、その男の手からナイフを奪い取ると、流れるような動作で、その柄頭を、男の首筋の神経叢に叩き込んだ。男は、白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。
アイリーンは、その光景を、息を飲んで見つめていた。
これは、格闘ではない。解体だ。
マイクロフトの動きには、一切の無駄がなかった。怒りも、憎しみも、闘争心さえも感じられない。そこにあるのは、人体の構造に対する完璧な理解と、それを最も効率的に破壊するための、冷徹な計算だけだった。弟のシャーロックが極めた格闘術、バリツ。だが、シャーロックのそれには、まだどこか即興性と、相手を打ち負かすことへのある種の喜びが見え隠れしていた。しかし、マイクロフトのそれは、ただ、機能を停止させるためだけの、無慈悲な外科技術に近かった。
彼は、ディオゲネス・クラブの安楽椅子に座る、肥満した頭脳労働者ではなかった。その灰色の、分厚い外套の下には、極限まで鍛え上げられ、制御された、恐るべき『怪物』が潜んでいたのだ。
アイリーンは、初めて彼の本当の姿を目の当たりにし、戦慄した。それは、恐怖というよりも、畏怖に近い感情だった。この男は、大英帝国の頭脳であると同時に、その最も暗く、最も危険な牙でもあるのだと。
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