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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第7章:盤上の駒(1) ― ホワイトチャペルの罠 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 ロンドンの東端、ホワイトチャペルは、街というよりはむしろ、文明の残滓が堆積した巨大な澱みであった。九月の半ばを過ぎても、夏の間に溜め込まれた熱気と腐臭が、石畳の隙間や煉瓦の壁から滲み出し、夜毎に降りる冷たい霧と混じり合って、一種独特の、重く湿った空気を醸成していた。ガス灯の光は、その濃密なヴェールに遮られて拡散し、まるで水底から見上げる月のように、ぼんやりと不確かな輪郭を描くだけだった。


 その頼りない光と影がまだらに織りなす迷路のような路地を、再び一人の女が、慣れた足取りで進んでいた。アイリーン・アドラー。だが、今の彼女の姿から、オペラハウスの舞台で喝采を浴びるプリマドンナの面影を見出せる者は、誰一人としていなかっただろう。


 彼女は、くたびれて色の褪せたショールを頭から深く被り、その下には、ほつれた毛先が不揃いな、艶のない茶色の髪を覗かせている。顔には、巧みな化粧によって、長年の苦労と安酒が刻み込んだ深い皺と、不健康な赤みが作り出されていた。着古した木綿のドレスは、泥と得体の知れない染みで汚れ、その手には、洗濯物を入れていたのであろう、空の大きな籠が抱えられている。その姿は、夫に先立たれ、日々の洗濯仕事で得る僅かな金も酒に変えてしまう、この界隈にごろごろと転がっている、ありふれた未亡人の一人にしか見えなかった。


 彼女の目的地は、「折れたマスト亭」と煤けた看板が掲げられた、この地区でも特に評判の悪い安酒場だった。マイクロフト・ホームズとの同盟を結んで以来、彼女はこの街に幾度となく足を運んでいた。だが、今夜の潜入は、これまでとは一線を画す危険を伴っている。クレイトン公爵という巨大な影が調査線上に浮かび上がった今、彼女が必要としているのは、街の噂話といった曖昧なものではない。公爵の屋敷の内情、彼が私的に雇っているという「特別な使用人」の正体、そして来るべき仮面舞踏会の夜に彼の書斎へ忍び込むための、より具体的で、より危険な情報だった。


 酒場の扉を開けると、むっとするような熱気と、安物のジン、汗、そして満たされない欲望の匂いが彼女を包んだ。ざわめき、怒声、けたたましい笑い声が渾然一体となって、鼓膜を打つ。アイリーンは、誰の目も引かぬよう、背を丸め、うつむき加減にカウンターへ向かった。そして、数枚の銅貨と引き換えに、濁ったエールの入ったマグを受け取ると、店の最も暗い隅にある、空いた席へと滑り込んだ。


 彼女の視線は、しかし、決して床に落ちてはいなかった。ショールの影から、鋭く、そして冷静に、店内の人間模様を観察していた。荒くれ者の船乗り、日雇いの肉体労働者、そして、虚ろな目で客を待つ女たち。誰もが、明日をも知れぬ生を、刹那の酩酊で忘れようとしている。


 数分後、一人の小柄な男が、まるで壁から染み出てきたかのように、彼女のテーブルの向かいに音もなく腰を下ろした。ネズミのように小さく、絶えず周囲を窺うその男は、フィンと名乗る情報屋だった。彼の商売道具は、その大きな耳と、金のためならどんな秘密でも囁く軽い口だ。


「遅かったじゃねえか、マギー」フィンは、彼女が使っている偽名を呼び、テーブルの下で汚れた手をこすり合わせた。「今夜は、やけに“番犬”が多い」


「だからこそ、あなたのような抜け道を知るネズミが必要なのよ」アイリーンは、洗濯女のしゃがれた声を装い、テーブルの上に二枚のシリング銀貨を滑らせた。「西の大きな屋敷の話。何か掴めた?」


 彼女は、クレイトン公爵の名を直接口にはしなかった。この街では、特定の名前を口にすること自体が、命取りになりかねない。フィンの目は、銀貨の輝きに一瞬鋭く光ったが、すぐにまた恐怖の色に曇った。


「…あんた、とんでもねえもんに首を突っ込もうとしてるぜ」彼は、声を潜めた。「あの屋敷に出入りしてる連中は、ただの召使いじゃねえ。特に、旦那様の『庭師』…そう呼ばれてる連中は、庭の手入れなんかしねえ。奴らが手入れするのは、旦那様の庭に生えた『雑草』だ」


「雑草?」

「嗅ぎまわる奴、逆らう奴、旦那様のご機嫌を損ねた奴…そういう『雑草』を、根っこから引っこ抜くのが仕事さ。数日前にも、二人の女が『手入れ』された。あんたも知ってるはずだ」


 マーサ・タブラムとポリー・ニコルズ。フィンは、彼女たちの死が、公爵の私兵による「口封じ」であることを示唆していた。アイリーンは、内心の動悸を抑えながら、さらに核心に迫ろうとした。

「その『庭師』たち、顔や名前は?」


 彼女がそう問いかけた瞬間だった。それまで店内に満ちていた、不協和音のような喧騒が、ふっと、まるで糸が切れたかのように途切れた。ほんの一瞬の静寂。だが、それは死を前にした動物だけが感じ取る、絶対的な危険の兆候だった。


 アイリーンは、反射的に立ち上がろうとした。だが、遅かった。酒場の入口と、裏口に通じる通路に、いつの間にか、屈強な体つきの男たちが、まるで石像のように立ちはだかっていた。彼らは、この店の客層とは明らかに異質だった。服装は地味だが仕立てが良く、その目には、酔いや絶望ではなく、冷たい目的意識だけが宿っている。そのうちの三人が、真っ直ぐに、アイリーンたちのテーブルへと向かってきた。


 フィンは、顔面から血の気を失い、ガタガタと震え始めた。「ひっ…!言っただろ、番犬が多いって…!」


 先頭を歩く、顔に古い傷跡のある男が、テーブルの前に仁王立ちになった。その目は、アイリーンの変装を易々と見透かし、その奥にある本当の姿を射抜くように、侮蔑と冷酷な光をたたえていた。


「ずいぶんと熱心なこったな、奥さん」男の声は、砂利を擦り合わせたように低く、乾いていた。「だが、詮索はそこまでだ。我々の主人は、お前のような美しい花が、汚い泥の中に咲いているのをお望みじゃない。丁重に『移植』して差し上げろ、と仰せだ」


 絶体絶命。男たちの手には、コートの下から鈍い光を放つ棍棒やナイフが握られている。この狭い酒場で、逃げ場はどこにもない。アイリーンは、ゆっくりと腰を浮かせ、最後の抵抗を試みようと、テーブルの上の重いマグに手を伸ばした。彼女の頭脳は、万分の一の勝算を求めて、高速で回転していた。


 その時だった。

 店の最も暗い、忘れ去られたような隅の席で、酒の匂いと埃にまみれたぼろ布の塊のようにうずくまっていた物乞いが、まるで軋む古時計のぜんまいが巻かれるように、ゆっくりと、そして不自然なほど静かに、身を起こした。


 彼の存在に、それまで誰も気づいていなかった。彼は、この酒場の汚れた風景の一部として、完全にそこに溶け込んでいたのだ。


 リーダー格の男は、この予期せぬ動きに、一瞬だけ注意をそらされた。彼は、眉をひそめ、吐き捨てるように言った。

「なんだ、てめえは。邪魔だ、消えろ」


 物乞いは、顔を上げなかった。ただ、その汚れた外套の下で、何かが静かに、そして確実に、その位置を変えた気配があった。路地の先の闇よりも深い沈黙が、その男の周囲にだけ、凝縮されているかのようだった。アイリーンは、その異様な存在感に、背筋を走る冷たいものを感じていた。それは、目の前の屈強な男たちから感じる暴力の予感とは、まったく質の異なる、底知れない何かの気配だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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