第6章:糸の結び目(4) ― 影との対話 ―
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アイリーンが去った後の個室は、再び思考のための聖域となった。だが、私の思考はもはや、抽象的な情報の海を漂うものではない。クレイトン公爵という明確な目標、そして仮面舞踏会という具体的な戦場が設定された今、私の役割は、後方支援と、もう一つの戦線を開くことにある。
私は、ペンを取り、一枚の便箋に向かった。簡潔な指示を書き記し、蝋で封をする。それを呼び鈴で呼んだ部下に渡し、速やかに指定の住所へ届けるよう命じた。アイリーンが公爵の屋敷に潜入する際に必要となるであろう、いくつかの「道具」を手配するためだ。ピッキングツール、小型の催涙ガス噴霧器、そして万が一のための、護身用の小型拳銃。彼女がそれらを必要としないことを願うが、備えを怠るのは愚者のすることだ。
次なる一手は、私自身の行動だ。私は、リストBに名を連ね、かつ、今もなお警察組織に影響力を残す人物に、直接接触する必要があった。フレデリック・アバーライン。数年前の切り裂きジャック事件で、現場の捜査を指揮した主任警部。彼は、サー・チャールズ・ウォレンのような上層部の人間とは異なり、ホワイトチャペルの泥濘をその足で歩き、被害者の血の匂いをその鼻で嗅いだ男だ。そして、彼は、アリス・マッケンジー事件の捜査が不可解な形で打ち切られたことに、最も強い不満を抱いていた人物でもある。公式記録の裏には、彼が上層部に提出した、捜査継続を求める抗議の報告書が、いくつも埋もれている。
彼は数年前に退職し、今はモンマスシャーの片田舎で、静かな隠居生活を送っていると聞く。だが、彼のような男の嗅覚が、完全に錆びついているとは思えない。彼こそが、数年前に闇に葬られた『過去』の真実を知る、生き証人なのだ。
私は、弟のシャーロックとは違う。変装して相手の懐に飛び込むような、演劇がかった手法は好まない。私の武器は、情報と、権力だ。アバーライン氏をロンドンに呼び出すための口実は、すでに用意してある。内務省の非公式な諮問委員という、私の立場を利用するのだ。「近年の凶悪犯罪の傾向に関する、元ベテラン捜査官からの意見聴取」という、もっともらしい名目で。断られることはないだろう。彼ほどの男なら、この公式の呼び出しの裏に、何か別の意図があることを嗅ぎ取るはずだ。
手配を終えた私は、再び革張りの椅子に深く身を沈めた。窓の外では、いつの間にか冷たい雨が降り始めていた。灰色の空から落ちる無数の雨粒が、ロンドンの街を濡らし、浄化するかのように洗い流していく。だが、この街の暗部にこびりついた血と嘘は、どれほどの雨でも洗い流すことはできない。
私の脳裏に、弟の顔が浮かんだ。シャーロック。彼ならば、この局面をどう打開するだろうか。おそらく彼ならば、すでにホワイトチャペルのどこかの安宿に潜り込み、運び屋の一人に化けて、組織の末端から侵入を試みている頃かもしれない。彼は、事件の渦中に自ら飛び込み、その混沌の中から真実の糸を掴み出すことに、無上の喜びを感じる。
だが、今回の敵は、彼がこれまで対峙してきたどの犯罪者とも質が違う。モリアーティ教授は、犯罪という芸術を極めた、孤高のナポレオンだった。彼との戦いは、二人の天才による知的な決闘だった。しかし、ヘルメス協会は違う。彼らは、思想という大義名分を掲げた、組織的な悪だ。個人の天才ではなく、システムとしての狂気が、この事件の根底にはある。このような敵に対して、シャーロックの個人的な才能は、果たしてどこまで通用するだろうか。彼のやり方は、あまりにも危険すぎる。彼は、自分が思っている以上に、脆い。
だからこそ、私が動かねばならない。彼が光の中で剣を振るうヒーローであるならば、私は影の中で盤面を支配するゲームマスターでなければならない。彼が故国に舞い戻り、この事件に興味を示す前に、私が道筋をつけ、危険な障害物を排除しておく必要がある。それは、兄としての責務であり、同時に、この国を不測の事態から守るための、私の仕事でもある。
私は、再び『1888』と記されたファイルを開いた。メアリー・ジェーン・ケリーの、惨たらしい現場写真。その隣には、彼女の生前の、どこか物憂げな表情を浮かべた写真が並んでいる。彼女もまた、誰かにとっては、かけがえのない人間だったはずだ。今回の被害者、マーサ・タブラムも、ポリー・ニコルズも同様だ。ヘルメス協会が『浄化』すべきだと断じた命は、決して無価値な数字などではない。一つ一つが、それぞれの物語を持つ、個別の人間なのだ。
その当然の事実を、私は時折忘れそうになる。すべてを国家という大きなシステムの部品として、数字とデータとして処理しようとする、私の悪癖だ。だが、アイリーン・アドラーという女は、そのことを私に思い出させてくれる。彼女は、この事件を、個人の尊厳を踏みにじられたことへの怒りとして捉えている。彼女の動機は、私のように抽象的な国家の安寧ではなく、もっと個人的で、生々しい感情に根差している。だからこそ、彼女は強い。そして、だからこそ、私は彼女を必要としている。
雨脚が、強まってきた。図書館の窓を叩く雨音が、まるで時計の秒針のように、規則正しく時を刻んでいる。仮面舞踏会までの、カウントダウンだ。
私は、目を閉じた。私の頭の中では、クレイトン公爵の屋敷の見取り図が、立体的に構築されていく。警備員の配置、巡回ルート、書斎の位置、そして、考えうる限りの脱出経路。アイリーンのためのシミュレーション。同時に、アバーライン氏との対話のシミュレーションも開始する。彼の警戒心を解き、核心的な情報を引き出すための、言葉の駆け引き。
二つの戦線。二つの糸。一つは、アイリーン・ノートンが手繰る、敵の中枢へと続く華やかな絹の糸。もう一つは、私が手繰る、過去の闇へと続く、血に濡れた麻の糸。この二つの糸が交差し、固く結ばれる時、我々は初めて、人形師の首に縄をかけることができるだろう。
蔵書の森の静寂の中で、私は静かに、しかし確実に来るべき戦いのための準備を整えていた。ロンドンの空を覆う雨雲の向こうで、運命の歯車が、ゆっくりと、そして重々しく回転を始めるのを、確かに感じながら。
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