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六月の第三日曜日

 

 その後、唯が泣き止んだ頃を見計らってナースコールを押した。

 医者の簡単な検査を受け、特に問題ないことが分かるとそこからはまた少々警察の方に話を聞かれた。

 警察の方にはこっぴどく怒られ、何故かその話が学校にも伝わり家に山田先生が電話してきてこれまた叱られた。

 そしてすべての面倒ごとが終わり、改めて四人出そろった時、俺と親父は唯に土下座して謝った。唯は意外にも、一度目で許してくれた。親父はかつて母親の自宅で土下座した時と同じように一晩中土下座する覚悟で臨んでいたらしい。

 そしてその翌日、唯は無事に退院した。

 その後はやはり別々の家での生活になった。

 


 しかし運命のいたずらというものは本当に存在するのである。

「というわけで、私たち五月末にアパートを追い出されてしまうので、代わりの住まいが見つかるまでここにお邪魔させていただけないでしょうか?」

 と、わずか二日後には再び我が家の門を叩いてきたのである。

 しかも我が家に行こうと最初に言いだしたのは唯らしい。その事実を聞いた時俺も親父も目が点になった。

 どうして唯がそんな心境になったのかは小百合さんにも知らされてはいないらしい。

しかし変な誤解はされているようで「あの子のこと、お願いします」と真顔で言われた。

 とにもかくにも、再び小百合さんと唯は俺の家で生活するようになった。

 ちなみにいつごろ出ていくかということに関しては特に何も決まっていない。いつまでに新しい家を見つけるという期限も特に設けてはいないらしい。

 小百合さんは「もう唯が望んでくれるのでしたら、私はずっとここで生活させていただこうかと」という意見らしい。

 親父も「まぁ唯ちゃんがいいのなら」と特に反対ではないようだ。

 すなわち、あのゴールデンウィークの時と同じ状態に戻ったのである。

 違う点は、もう二人に再婚の意思がないことと、佐奈の写真を俺の部屋に飾るようになったこと、それと、うちの家事分担に佐奈も入り始めたことぐらいだ。あぁ、一番大切なことを忘れていた。なんとあの五年間も引きこもっていた唯が、再び学校に通いだしたのである。

 これにはもう俺たち全員が驚いた。あんぐりと口を開けたほどだった。小百合さんなんかよよよと涙ぐむ始末だった。

 しかし五年という勉強の遅れは取り返しがたいもので、何故か俺に白羽の矢が立ち、俺が教えることになるということもしばしば。

 親父は俺が唯と近づくことに警戒心を覚えていたが、小百合さんが「まぁいいじゃないですか」と押し通した。

 

 そんな感じで、誰もが誰しも新しい生活を始めようやくそれにも慣れてきた頃。

 ちょうど六月に入って一週間がたった頃だった。

 唯の部屋で唯に英語の勉強を教えているときだった。

「私、バイトをしたい」

 唯にそんな相談を持ち掛けられたのである。

 唯は現在十三歳で、勉強能力としてはよく見積もっても小学校五年生くらいの脳である。無茶な相談だ。そもそも相談する相手が違う。

「小百合さんに相談せい」

「お母さんには内緒で働きたい」

 あらちょっと嫌だわこの子不良になってきちゃってる。

「どした急に?親に言えないものが欲しいのか?面倒なことになるからやめなさい」

「カーネーションが欲しい」

「カーネーション?……はぁん、なるほど。少し時期が遅いけど……まぁ分かった。にしてもどうして今更母の日を意識したんだよ。せめて五月中であれば、もう少し店にはそれなりにグッズなんかも置いてあったと思うぞ?」

「もうすぐ父の日だから、翔君は、将さんに何か渡すんでしょ?そのついでなら自然かなって」

「え……っ」

「何その反応?」

「いや、何でもない」

 親父に父の日のプレゼントをあげたことなんて今まで一度もない。……あまりに惨めでなんか言えない。

「だったらバイトなんて面倒なことをしないでも、少しぐらいは俺が出してやるのに」

「それは嫌。母の日のプレゼントと一緒に、お母さんに言うつもりだから」

「いうって、何を?」

「あの、だから、家族に、なってくださいってこと」

「え、なに、まだいってなかったの?」

「だって、なんかそんな雰囲気じゃなかったんだもん」

「いや、ただ「お母さん」って呼ぶだけだろ」

「……ずっと待たせていたから、それなりの雰囲気があった方がいい」

「唯……それを理由に先延ばしにしてただろ」

「だって」

「まぁいいけど。しかしバイトかぁ、しかも親に内緒でかぁ、十四歳の子を親の承諾なしでバイトさせるところかぁ。もう危ないバイトしか思いつかねえ」

「少しくらいだったら、危ない作業が入ってもいい」

「ああ、危ないっていうのはそっちじゃなくて、法に触れるって意……いや、別に覚えなくてもいい」

 しかし、やはり新聞配達をするにしても十八歳未満、特に中学生なんかは親の承諾はもはや絶対条件と言えるだろう。

 いっそのこと親父にだけは真相は話してこのことを頼むべきだろうか。

 ……しかし、俺もあの五月の一件以来親父とあんまり会話してないんだよなぁ。

「でもそれじゃあ、翔君が父の日のお祝いをしようとしていることが将さんにばれちゃう」

「いや、それは別にばれてもいいっていうか、別にサプライズを狙っていたわけでもないし」

 そもそもやる気にすらなっていなかったし。今もあんまり乗り気じゃないし。

「それはダメ。だって、翔君もまだ将さんと仲直りできていないんでしょ?なんか……すごくぎこちないし」

「それは元からだって」

「だったら、それは私の気の所為ってことでいいから、二人には内緒でバイトしたい」

 そうは言われてもという話である。おそらく俺だけだったら内緒でバイトすることもできなくはないのだろうが、さすがに唯は無理だ。しかも頭の中身はほとんど小学生だ。まともに仕事できるかどうかが怪しい。まぁレジ打ちぐらいはできるかもしれないが……。

 ただ、真剣な眼差しをこちらに向けてくる唯に俺も残酷なことを言えるわけもなく。

「少し持ち帰らせてくれ」

 時間をくれと、そう言って話を打ち切った。



 

 俺は学校からも不良認定されてしまったようで、五月は多分一番進路指導室に通った生徒だろう。新任の先生も含め進路指導室の先生は俺の名前と顔をばっちり把握している。

 そんな俺が自ら進路指導室に足を運ぼうものなら、それ相応のことをやらかしたのかと勘繰られるのかもしれない。

 事実、俺が進路指導室に席を置く担任の山田教員のもとに相談したいことがあると訪ねたところ、指導室の端の方に備えられて来客用スペースのソファに座らされ、「で、次は何をやらかした?」と言われた。

「中学生の女の子と働ける場所を探しているんですけど、どこかいいところしらないですか?」

 俺は特に父の日を祝う理由もないので、別にバイトに参加する必要はないのだが、あいつ一人にいろいろ やらせるのはさすがにバイト先にも迷惑がかかる気がしてならない。ここは俺も一緒にそのバイト先を訪ねた方がいいだろう。と思い変に前置きすることもなく素直に打ち明けたのだが、何故か山田教員は固まった。誰かが手でも滑らせたのか湯飲みがガシャンと音を立てて割れる音が響いた。

「先生聞いてます?」

 俺に話を振られた山田教員はハッとし、何やら苦い顔を浮かべながら、「すまんがもう一度言ってくれないか」と言ってきた。

「中学生の女の子と働ける場所を探しているんです。……あっ、中学生とっていうところが重要ですからね」

 自分が働きたいというよりその中学生が働きたいという意思が伝わるよう、中学生の部分を強調しておく。そうもう一度しっかりというと、山田教員はさもめんどくさいものにでも触れたかのような顔をしてお茶に手を伸ばす。

 その気持ちもわからないでもない。というかすごくよく共感できる部分がある。

「……あぁ」

 しかし考えてみればあいつの学習能力に関してはまだ小学生レベル。さすがに中学生に事務仕事をお願いするようなバイトはないだろうがそこら辺の情報は正確に伝えるべきだろうか。

「訂正します。中学生よりかは小学生と働けるお店の方が都合がいいかもしれません」

 ブフウウっ!と山田教員は盛大に口に含んだお茶を俺の顔面に噴出した。

 いや、まぁ気持ちはわかりますよ?確かに小学生が働ける場所を探しているとかもう異常者にしか見えないし、めんどくさい種であることは理解できますが、さすがにお茶を吹き出すのはいかがなものでしょうか?

 気が付けば、進路指導室はしんと静まり返っていた。そしてみんながみんなこちらの方をいぶかしげに見ている。

「先生。先生がお茶なんか噴き出すのでみんな先生を見てますよ」

「どう考えてもお前を見てるんだよ!」

 しかしそれに気づいている様子のなかった先生に伝えると何故かキレられてしまった。

「お前、本当にどうしたんだ!前はあれだけ無表情で勉強しか能のないやつだったのに!最近は無断欠席ばっかりするし警察の厄介になるし、挙句の果てには小学生の女の子と遊びたいだと!?」

「先生、働きたい。すなわちお金を稼ぎたい。ここは間違えないでください」

 いやまあ中学生がバイトとか、ほとんど遊びのような感じなのかもしれないけど。

「お前ぇ本当にいったいどうしたんだぁ!?私が少し息抜きしろとかそんなことを言ったからか?少しぐれたくなってしまったのか?だからって犯罪に手を染めようだなんて!」

「え……あれ?……働くことに年齢制限なんてありましたっけ?」

 確かに深夜中学生を働かせることは法律に違反するが、休日にバイトをするぐらいなら、大丈夫だったはず。実際新聞配達なんか偶に中学生がやっていることもあるし、法律自体には触れてはいないはずなんだけど……。

「そうかお前アニメでも見すぎたんだろう!?そうだよなあ!?そうだと言ってくれ!お前は犯罪なんかに走るような人間じゃなかった。ただあれだろう?少し疲れて私に息抜きをしろと言われたからアニメでも見たんだろう?それで「小学生は最高だゼ☆」とか言ってるアニメとかに出会っちゃったんだろ?あぁわかる。あれ面白かったからな。お前がそれにはまるのもわかる。だけどな、そんなのアニメだけの話だ!そんなのは現実じゃないんだぁ!」

「え?ちょっ先生?」

 ところが何故か山田教員は俺の肩をつかみ「目を覚ませええ!」などと叫びながら一心不乱に肩を揺さぶってくる。というか何でアニメの話に!?

 どうやら何か決定的な誤解をされているらしく、俺は改めて最初から事情を説明した。

 どうやら三度目の正直よろしく、三度目にして状況はしっかりと山田教員に伝わったらしい。説明している間に冷静さを取り戻した山田教員を見て安心したのか、他の遠巻きに話を聞いていた教員も各々の仕事に戻っていった。


 しかしなぜだろう。

「…………」

 山田教員はキレていた。

 「お互い変な誤解を避けるためにもう一度確認するが、君は中学生の『妹さん』と家族の仲を取り戻すために遅くなりながらも母の日のプレゼントを用意したいがためにアルバイトを探していると?」

「えぇ、その認識であってます」

 本当は妹ではないのだが、ようやく話しが進んだというのにいちいち訂正する気も起きなかった。

 そうしてお互いに誤解がなくなったことを確認し終えると、山田教員は何が気に入らないのか、大きく音を立てて貧乏ゆすりを始めた。

「お前、先ほど自分のした説明のことを思い返し、何か言うことはないか?」

 どうやら山田教員は先ほどまでの説明がたいそう気に入らなかったようだ。しかし俺は特に何もおかしいところは言った覚えがない。

『中学生の女の子と働ける場所を探しているんですけど、どこかいいところしらないですか?』

「……」

 思い返してみるが、やはり山田教員がわざわざ貧乏ゆすりをして不機嫌を見せびらかしてくるほど問題のあることを言ったようには思えない。

「別に」

 しっかりと己の行動を振り返った結果、やはりその結論に達した。

「ほう、つまり貴様は、先ほどまでの説明に何一つ不十分なことはなかったと、まったく別の勘違いをするような余地はないとそういうのかね?」

「要点はしっかりと抑えられていたはずですが?」

「要点しか話してないんだよもう少し付け加えるべき言葉があっただろうが!具体的には『妹と』という言葉とか!『母の日』という言葉を!」

 と、どういうわけかわからないがその後しばらくご立腹の山田教員に怒られた。



 山田教員が何を勘違いし何を考えたのかはわからないが、その後もしばらく剣幕が収まらなかった。

終いには俺の生活態度のことにも言及された。

 これほど怒られるのなら、やはり生徒指導室の扉は叩くべきではなかった。

 俺は顔もそんなに広くはない。きっと俺のクラスで俺の名前と顔をしっかりと覚えている人は中学か高校一年の時の知り合いぐらいだ。そいつらとも、最近はなしてはいない。

 唯には持ち帰らせてくれなどと言ったが、俺が頼れる場所なんてそんなものはないのだ。

 そもそも俺の高校はアルバイトそのものを認めてはいない。就職や家庭の事情など特殊な状況でもなければ働くことは認められていない。山田教員はそんなことをやろうとしている生徒を見たらしっかりと叱らなくてはいけない立場の人間だ。

 山田教員にこんなことを頼んでも期待薄だ。

 そんなことはわかっていた。ダメでもともとだったのだ。ここがだめなら正直に言って親父に頼もうと思ってた。

 しかし、最終的に山田教員は、知り合いをあたってくれることになった。正確にはアルバイトというよりは、職業体験のような扱いとして。金もほとんど出ない。土日二日間働いてせいぜい五千円もらえればいい方だと思ってくれと言われた。最低賃金の半分以下だが十分だった。

 教師の体面もあるのか、「これはアルバイトではなく、職業体験だからな?実習だからな?レポート書かせるからな?間違えるなよ?」そう念押しされた。十分だった。

 普通はこんな対応あり得ない。受験生が何を言っているんだ。そんなこと言ってないで勉強しろと言われるものだと思っていた。

 きっと俺が警察にご厄介になったいきさつをある程度は知っていた山田教員なりの計らいなんだろう。

「学校というところは、勉強をするためのところではない。人として正しく成長するための場所だ。生徒が成長しようとしているなら、それなりに正しい環境を作るのも私たちの仕事だ」

山田教員は、そう言ってくれた。


 きっと面倒なことになるだろうなと思っていた相談がなんやかんやうまい方向に運び、鼻がむずがゆく感じながら俺は未だに部活動連中の怒声が響く校舎を後にした。

 自転車で細道を走り廃れた温泉街を抜け、家にたどり着く。

 すると珍しいことに、庭に自転車が止まていた。

「ただいま」

 玄関を開け中に入ると、見たことのない女性用の履物が一足きれいにそろえられた状態で置かれていた。

「お帰りなさい」

 居間から顔を出した小百合さんが出迎えてくれる。

「誰か来ているんですか?」最初は小百合さんの知り合いかと思った。

「はい。唯のクラスメイトの子が。ちょうど今お手洗いに行っていますけど」

 しかしどうやら唯の友人だったようで少し驚いた。

「へぇ、珍しい」

 あいつの知り合いが家に来たのは初めてだ。いや、もしかしたら俺が知らないだけでもっと来ていたのかもしれないけど。

「すみません、お買い物にいてくるので、二人の対応お任せしてもいいですか?」

 小百合さんは手提げかばんを出し始めた。

「ええ、大丈夫です」

 それくらいならば問題ないと任された。

「ではお願いします。お手洗いから出てきたら、今日は家でご飯食べていってくださいとそれとなく言ってみてください」

「了解です」

 どうやら、これから増えるかもしれない一人分の食材を買いに出かけるようだ。

「ではちょっと行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」

 玄関口でそう軽く挨拶を交わしてから、小百合さんは出かけて行った。

 自転車が走る音が遠ざかって行ったあと、ちょうどトイレの水が流れる音が聞こえた。

 と思ったらすぐに扉が開く音が聞こえ、「ありがとうございました」と元気な声が聞こえてくる。

 そして居間の方に向かってくる途中でばったり出くわした。「こんばんわ」

 すぐに元気な挨拶をされる。

 唯が通っている学校の制服を着た、まさしく元気溢れたという印象を受けるショートヘアの女の子だった。

「初めまして。唯ちゃんのクラスメイトの桃井千尋です」

 そして丁寧に頭を下げられる。

 これには俺もたじたじになりながら「さ、佐久間翔です」と受け答えするしかなかった。

 今どきの中学生の対人スキルの大きさを見せられた。最近の中学生ってすげぇ。

「あれ?」そして桃井さんは同じく居間に小百合さんがいると思っていたのだろう。その姿がないことに首を傾げた。

「あぁ、小百合さんなら買い物に出かけたよ。それと伝言で、今日の夜ご飯は家で食べていくといいってさ」

「えっ!?そ、そんな、悪いですよ」

「でも今買いに行っているのってたぶん君の分だぞ?」

「えぇ、そんなぁ」

 あぁ、だから小百合さん、俺に今日の夕飯食べていくといいって言わせて自分は買い物に出かけたんだな。断ると食材が無駄になるとかそんな理由を作るために。

 ちょっとずるいとは思うが「どうする?」と聞いてみると。

 その子は少々悩むそぶりを見せた後、「せっかく用意していただけるのなら、……お言葉に甘えさせていただきます」と折れた。

 いやぁ小百合さんの対人スキルもなかなかのものだなぁ。と端で感心していると、苦笑いを浮かべていた桃井さんが俺の方に向き直った。

「えっと、唯ちゃんのお兄さんですよね?」

 そういわれて、少しだけドキッとする。

 山田先生に唯のことを「妹」と呼ばれた時には特にそんなこともなかったのに。

 でもどうしてだかは薄々わかっている。

 今も一瞬、思い出が重なったからだ。

 俺は今まで何度もこれに近い状況に遭遇したことがある。

 今まで何度も佐奈が連れてきた友達に遭遇しては、こう言われてきたのだ。

 『佐奈の、お兄ちゃんですよね?』

 だから、今の桃井さんの言葉は少し胸に来た。

 でも俺はそれを悟られたりしないよう、苦笑を浮かべた。

「本当はお兄ちゃんじゃないんだけどね」

「えっ!?そうなんですか!?唯ちゃんがよく『お兄ちゃん』って呼んでいたからてっきりそうなのかなって」

「え?」

 桃井さんの言葉に、今度は俺が首を傾げた。

「え?」

 桃井さんも話がかみ合っていないことに首を傾げ返してきた。

「あっ、いや……唯がそう言っているのなら、それでいい」

「え?え?何ですか?お兄さんって唯ちゃんのお兄ちゃんなんじゃ……あれ、そういえばさっき佐久間って……。そういえばこの家の表札にも、確か佐久間って……え?もしかして唯ちゃんてなんか複雑な事情が!?」

 そして桃井さんが意外なほど頭の回転が速く、いきなり深層部分に手を伸ばしてくる。

 俺は慌てていやいやと手を振った。「そんなことはないよ。大丈夫だよ。気になるようなことを言ってごめん」

 自分でも意外なほどに初対面の女の子相手に言葉が出てきて、少し驚く。不登校から復帰した俺は、初対面の女の子を前になどしたら、先ずは視線を合わせないよう下を向き、相手の言葉に適当に相槌を打つ。その程度のことしかできなかったのに。

 何ですらすら言葉が出てきて、ちゃんと対応できているのだろう?

 その理由にも、結構早く思いいたった。

 ――体に染みついているんだ。兄としての振舞い方が。

 佐奈という妹を持ってからの俺の十四年の人生が、俺の体にまだ、染みついていたんだ。

「唯は、学校でどうかな?浮いたりしてない?」

 俺の記憶では明瞭には思い出せない。妹の友達に、俺がどんな風に対応して、どんな言葉をかけたのか。

 でも、どうしてだろう。俺の心の整理がつくよりも先に、まるで自然な兄を追いかけていくように、体が動く。

 妙に口に馴染むフレーズが飛び出す。

「うぅん、浮いているか浮いていないかって話で言ったら、やっぱり浮いちゃってますね」

 それはそうだろう。だって五月の初めの頃はいきなり不登校になり、勉強だって全くできない。昔の唯がどうかわからないが、今の唯は早々友達付き合いが上手とも思わなかった。

「何時も結構静かですし、私が話したきっかけも、先生に頼まれたからでしたから」

 それを聞いて、俺もやっぱりと苦笑いした。

 正直な子だ。今の話は、さすがに唯に聞かせてやれそうにない。

「でも、きっかけはそうだったんですけど。話してみると意外におしゃべりで。負けず嫌いで。普段からなんであんなにおとなしいのか不思議になってくる面白い子なんですよね。なんだか、唯ちゃんが時折見せてくれる姿が、結構私と似てるところがあるなって思って。気づいたら家にまでお邪魔させてもらっちゃう関係になっちゃいました」

「…………」

「ん?どうかしました?」

「いや、何でもない」

 どうやら唯は、いい友達と巡り合うことができたらしい。

 俺はその子に向き直った。

 胸が苦しくなる。

 体に染みついた、何時かの行動を追いかけていくことに。

 これが本当に前に進むということなのかと問いかけてくる自分がいる。

 でも、逃げないことだけは心に決めたから。

「あいつは、意外に意地っ張りで、結構一人で戦おうとするところがあるんだ。勉強だって内容まったくわかんねえくせして人には訊かないし。

 そんなあいつだけど、あいつのこと、これからもよろしくお願いします」

 真剣に唯に向き合ってくれている女の子に、俺は何時かの時と同じように、頭を下げた。

「はい、よろしくお願いされました」




 そして、父の日まであと一週間となった土日、俺は山田教員が探してくれた職場に向かった。探してくれたというよりかは山田教員の知り合いにお願いしたらしい。こちらの事情もある程度話はしておいてくれているようだ。

 俺たちの仕事内容は桃の収穫作業である。天気も快晴で特に問題はなさそうだった。これならよっぽどのことがない限り唯にも問題なくこなせるだろう。

 もちろん小百合さんや親父には内緒なので、そこまでの移動手段はバスだ。

 朝八時に出るバスに乗り込み、東に向かう。

 暫くバスに揺られ、二つほどトンネルを超えると、バスの窓からは結構果樹畑が見えるようになる。


 すると唯は何が面白いのか、バスの外の景色をじっと眺めるようになった。

「何かあるのか?」

「果物畑がある」

「それぐらいしかないじゃないか」

 すると唯はフルフルと首を振った。

「なんか、そういうのが好き。果物畑や畑がいっぱいあって、その間にポツンポツンって家があるって。なんだか生き物と一緒に暮らしてるって気がしてすごく好き」

 あぁなるほど。そういうことか。と俺も納得する。たぶんそういうのは佐奈も好きだろうから。

「田舎っぽいだろ?」

 あえて言ってみた。

「そういうのが好き」

 わかっている。佐奈も田舎っぽさがいいと言っていた。

 俺も今はあまり感じないが、東京に出ていくようなことがあれば、何時か恋しくなる時が来るだろう。


 バスに揺られ続け約一時間。そこからはしばらく果物畑に囲まれた細道を上ることになる。

 ただ、バス停まで今日お世話になる果樹園のおばあさんが迎えに来てくれていた。

 白い手ぬぐいを頭巾のようにして被った、どこにでもいそうなおばあさんだった。

 一応山田教員のおばさんに当たるという話だったが、全然そんな風には見えなかった。

 これは仕事だから、怒られることもあるかもしれないと事前に結構唯を脅しておいたのだが、その必要も全くなかったのではと思えるほどに優しそうなおばあちゃんだった。

 というか実際に優しかった。

 一応これでも職業体験という名でさせてもらっている仕事なのだが、おばあさんには甘い桃と冷たい麦茶でもてなされ、桃の取り方もどういう桃を取ればいいのか、どこを切ればいいのか、そもそも道具の使い方から教えてもらった。


 唯はおばあさんに付き添って実際に桃を取りながら教えてもらった。そんなに危険な場面はなかったが、脚立を使っている間などは少々ひやひやさせられもした。しかしおばあさんの丁寧な教育のおかげで唯もすぐにコツを覚えて桃を収穫した。

 そして自分一人で収穫すると、その桃を俺に見せてきて、「お兄ちゃん、取れた」とぎこちなくも笑顔を向けてきた。

 俺も笑顔で返す。

「っていうかお兄ちゃんって」

「あ、ち、違うの。……、……これはお母さんをお母さんって呼ぶ練習」

 俺の前ではいつも翔君だったのに、いつの間にか呼び名が変わっていることを指摘すると、唯は慌てて手を振ってごまかした。いや、ごまかしているのか?よくわからない。

「でも友達の前ではいつもお兄ちゃんなんだろ?」

「え?何で知ってるの?」

「この前家に来てた桃井さんに教えてもらった」

「ち、千尋ちゃぁん」

 とげんなりと肩を落とした。

「違うんだよ?もともとそういうつもりはなかったんだけど、翔君のことを千尋ちゃんに説明するときなんて言えばいいのかすごく迷って。それで千尋ちゃんがお兄ちゃん?って聞いてきたから。最初はもう、それでいいかなって」

 あぁなるほど、俺が先生に唯のことを「妹」と呼ばれても、面倒くさいからそれでいいやと流したあのような感覚だろうか。

 俺が納得していると、唯はぽかんと口を開けて首を傾げた。

「どした?」

「絶対怒られると思った」

「どして?」

「翔君って絶対お兄ちゃんって呼ばれること嫌だって思っているって、思ってた」

「いや、別に嫌ってわけじゃないんだけど……。でも心臓に悪いから、そう呼ぶときは先に言ってくれると助かる」

 すると唯は、何かに思いふけるように足元を見つめた。

「こんなに、簡単なんだ」

 ぽつりとそう呟いた。

 そして、改めて顔をあげて、俺を見てぎこちなく笑った。

「私、ひとりっ子で、兄弟いなかったから。お兄ちゃんがいたらいいなって。お兄ちゃんって呼べる人ができることに、ちょっと憧れてた」

 唯は俺にそう告げた後、妙にうれしそうな足取りで収穫作業に戻っていった。

 俺も、しばらくしてから作業に戻った。


 そんな二人のやり取りも時折はさみながら、俺たちは桃の収穫作業に勤しんだ。

 昼には冷やし中華をいただき、たわいない談笑もはさんだ。

 そして夕方まで作業をした。それを二日も行うと、すっかりおばあさんとも仲良くなった。唯は夏休みに行われる職業体験でまたここに来たいと言ったほどだ。おばあさんからも、その時はブドウの収穫があるからぜひ来てほしいと言葉をもらった。

 そしてわずか二日間のバイトを終え、おばあさんから給料袋をいただく。二人とも五千円ずつだ。

 普通のバイトよりかはやはり全然安いが、それでも唯は大喜びでおばあさんにお礼を言った。


 そして父の日を明日に備えた六月の第三土曜日、俺たちはそれぞれ稼いだ金を手に買い物に繰り出した。

 とはいっても俺はそんなに親父に凝ったものを贈るつもりはなかった。

 しかし自分で稼いだ金というのは不思議なもので、あまりくだらないものにこの金を使いたくないと思ってしまう自分もいる。それらの葛藤の末に結局は、唯がカーネーションの鉢植えを買った店で別の店の人オリジナルの鉢植えを用意することにした。


 そして当日、俺たちはそれぞれの親の元へ、その鉢植えを渡しに行った。

 俺は特に思い入れもなかったので、何も言わずにただそっと、親父の目の前にその鉢植えを置いた。

「六月の第三日曜日が父の日なんだってさ。親父、知ってた?」

 そんな冗談と共に、俺はその鉢植えを贈った。

 きっとそれが、俺たちらしいと思った。


 そして唯たちにも、唯たちらしい言葉の贈り方がある。

 俺が親父に贈ったのを確認すると、唯もおずおずと小百合さんの前に歩み沿って、背中に隠したカーネーションの鉢植えを、腕をいっぱいに伸ばして差し出した。

 贈る言葉ももう決まっている。五年間小百合さんが待ち続けた、唯の気持ちをその紅い花に添えて贈った。

「私の、お母さんになってくれませんか?」



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