第二十四章 朝会――「できません」の次に、私は「どこまでなら」と言えるようになった
朝会は、八時十五分に始まる。
この世界に、八時十五分という時刻はない。大倉の倉番小屋の軒下に、千束が砂時計と日時計で決めた刻があるだけだ。その刻になると、リコが小さな鐘を鳴らす。三回。それが朝会の合図だった。
鐘が鳴った。
三の倉の前に、人が集まってきた。
三の倉の屋根は、新しくなっていた。冬のあいだに、倉番たちとガンツの粉屋の若い衆が、焼け落ちた梁を一本ずつ替えた。新しい瓦は、まだ黒くなりきっていなかった。春の朝の光を受けて、少しだけ青く光っていた。
扉の脇の壁に、古い杖が一本、立てかけてあった。
誰も動かさなかった。冬のあいだ、ずっとそこにあった。
倉番たちが並んだ。ダンが、いちばん後ろに立っていた。両手の包帯は、もうなかった。指の腹に、新しい皮が厚く張っていた。
王宮の書記が二人。粉屋組合の使いの若い衆。船頭組合の若い船頭。河岸の孤児院から、年長の子が一人。
それから、深い青の外套のイレーネ王女が、木箱に腰かけていた。
王女は、倉奉行の印を指にはめていた。五日だけの倉奉行ではなかった。年明けの朗読のあとで、王が改めて任じたのだった。
「始めるよ」
リコが、板の前に立った。
板には、炭で数字が書かれていた。リコの字だった。冬のあいだに、リコは札の数字から、ほかの字も覚えていた。まだ、ところどころ形が崩れていた。
「今日の計画」
リコは板を指さした。
「王都の倉。きのうの夕方の数から、きのう出た分を引いて、きのう入った分を足した。今朝の数は、ここ。外れるかもしれない幅は、ここからここ」
リコの指が、二つの数字のあいだをなぞった。
「きのうの差異は、三袋。七の倉で、数え違い。直した」
「三袋」
王女が言った。
「誰の数え違い?」
「あたし」
リコは、鼻を鳴らした。
「白が二枚の山、見落とした。直した」
倉番たちが、笑った。
リコは顔を赤くして、次の行を指した。
「水車小屋。ダン」
「七つとも、回ってる」
ダンが、いちばん後ろから言った。
「予備の臼、二つ刻み終わった。あさって、入れ替え」
「ゾルハーデンへの届け」
「きのうの夕方、ハルトから知らせが来たよ」
若い船頭が手を上げた。
「国境の村々で、きのう食べた分は、ここに書いてある。今朝の船で、その分を届ける。エルマ婆さんが、割符を刻んで待ってるってさ」
リコは板に、数字を書き足した。
千束は、板の脇に立っていた。
黒い手帳を開いて、リコの数字を写していた。
写しながら、顔を上げた。
一人一人の顔を、見た。
リコの顔。ダンの顔。若い船頭の顔。王女の顔。
前の場所では、朝会でモニターしか見ていなかった。赤い線と、積み上がった棒だけを。棒の先にいる人間の顔を、千束は一度も見なかった。
今は、見えていた。
数字の向こうに、顔があった。
◇
「書記さん!」
朝会の途中で、声が飛び込んできた。
若い男が、大倉の門から走ってきた。白い前掛けをつけていた。額に汗を浮かべ、肩で息をしていた。
千束の知らない顔だった。
「河岸の、新しいパン屋です。マルタさんの店の隣に、この春、店を出しました」
「はい」
「来週、春の祭りがあるんです。大聖堂の前で。人が、すごく来るって。マルタさんが、去年はいつもの三倍売れたって」
男は、千束の前で両手を握りしめていた。
「来週、三倍、いけますか」
朝会の全員が、千束を見た。
リコが、にやりと笑っていた。ダンが、腕を組んでいた。王女が、木箱の上で、面白そうに首をかしげていた。
千束は、男の顔を見た。
若かった。二十を少し越えたくらいだろう。目の下に、隈があった。初めての祭りで、初めての店で、粉が足りなくなるのが怖いのだ。
一秒で、数字を見た。
水車小屋の挽ける量。春の倉の数。毎朝の届けの、余裕の一割。
一秒で、答えを決めた。
三倍は、無理だった。
三秒目に、千束は口を開いた。
「できません」
男の顔が、曇った。
千束は、続けた。
「……どこまでなら、を、一緒に決めましょう」
男が、瞬きをした。
朝会の倉番たちが、どっと笑った。リコが手を叩いて笑っていた。王女が、袖で口もとを隠して笑っていた。ダンが、肘を二度叩いていた。
「あの、今のは」
「三倍は、できません。水車の挽く量が、足りません。でも祭りの前の三日間だけなら、ほかのパン屋さんの分を少しずつ前に寄せて、一・五倍は届けられます。それから、祭りの当日は、朝と昼の二回に分けて届けます。売れた分を、昼に知らせてください。知らせてくれた分だけ、夕方の窯に間に合わせます」
「一・五倍と、昼にもう一回」
「はい。一度に三倍を抱え込まなくても、足りなくなったら、その日のうちに届きます」
男は、千束の顔をまじまじと見た。
「……それなら、足ります。たぶん」
「たぶん、で十分です。外れたら、祭りの朝に直します」
男は、深く頭を下げた。
それから、来たときと同じように走って、門の外へ消えていった。
リコが、千束の脇腹を肘でつついた。
「チヅカ、三秒かかってた」
「計算していました」
「ちがうよ。顔、見てた」
千束は答えなかった。
手帳に、書いた。
河岸の新しいパン屋。春の祭り。一・五倍。当日、昼に二回目。
最後に、小さく書き足した。
隈あり。初めての祭り。
◇
朝会が終わると、王女が千束を船着き場へ誘った。
春の河は、雪解けの水で太っていた。茶色く濁った流れが、石段のすぐ下まで迫っていた。今朝のゾルハーデンへの船が、札をつけた袋を積んで、上流へ出ていくところだった。船べりで、若い船頭が竿を河底に突いていた。毎朝、深さを確かめてから出るのだと、ネーヴァに叩き込まれたのだという。
「戸倉」
王女は、出ていく船を見ていた。
「秋に、わたくしがあなたに言ったこと、覚えている?」
「どれでしょう」
「嘘もつかないで、と言ったの。そうしたら、あなたは、数字は嘘をつかないと答えた。わたくしが、あなたは? と聞いたら、あなたは答えなかった」
千束は、河を見た。
「覚えています」
王女は、千束を振り返った。
「今なら、答えられる?」
千束は、少し考えた。
それから、王女の目を見た。
「私は、嘘をつくかもしれません」
王女の眉が、わずかに上がった。
「怖くなったら、また何かを隠すかもしれません。数字の後ろに隠れたくなる日も、きっとあります」
「……」
「でも、外れたら言います。毎朝。それだけは、約束します」
王女は、長いあいだ千束を見ていた。
それから、笑った。困ったような笑い方ではなかった。目の下の影は、もうどこにもなかった。
「それで十分よ」
上流へ出ていく船の帆が、春の風をはらんで膨らんでいた。
◇
冬は、終わった。
ミルナ河の流域で、飢えて死んだ者は、一人も出なかった。
朝の計画朗読は、毎朝続いた。千束が読む日もあった。王女が読む日もあった。冬の終わりには、リコが読む日もあった。
外れた朝は、十一回あった。
河の氷が思ったより早く張って、船が三日遅れた朝。上流の倉で、麦の袋が湿気て腐っていた朝。数え違い。届け違い。
十一回とも、その朝の広場で、外れたと言った。
十一回とも、直した数を読んだ。
広場の人々は、外れたと聞いても、市場へ走らなくなった。明日の朝も、数が読まれると知っていたからだ。粉の値段は、冬の終わりに、天命の前の四枚に戻った。
春の需給会議では、上流の谷の畑のことが話し合われた。
ハーゲン将軍が自ら王都へ来て、王と同じテーブルに座った。谷の畑で穫れる麦の数を、両国の倉守が一緒に数えた。決まらなかった。将軍は、来年の春にまた話そうと言って帰っていった。兵は、一人も国境を越えなかった。
天秤商会は、なくなった。中洲の五つの倉は、倉奉行の倉になった。バルトロは、王都の外れの石切り場で、石を数える仕事をしているという。
天命院の塔は、まだ広場の北に立っていた。宣託官たちは、天命を告げるのをやめた。かわりに、空を見て、雲の動きと風の向きを数えるようになった。明日は雨になるかもしれない、と、外れる幅をつけて告げるようになった。
鷲尾の消息は、なかった。
ただ、雪解けの水が河を太らせ始めたころ、ネーヴァが河口から一つの噂を持ち帰ってきた。
海の向こうの、どこかの港町に、妙な商人がいるらしい。店先に札を掲げているのだという。今日は無い、と。明日の朝なら、ある、と。
嘘か本当か、誰にも分からなかった。
千束は、手帳の端に、その噂を書きとめた。
未確定、とは書かなかった。
かわりに、小さな印をつけた。外れるかもしれない幅のついた、印を。
◇
午後、千束は河岸の孤児院へ行った。
孤児院の窓の板は、外されていた。春の光が、長い板の床の上に、四角く差し込んでいた。子どもたちの声が、部屋の中に満ちていた。騒ぐ声だった。騒ぐ力のある声だった。
部屋の壁に、新しい板が一枚、打ちつけてあった。板には炭で、子どもたちの名前と、その日食べたパンの数が書かれていた。ヘルガ院長が、毎晩つけているのだという。字の書けない子の欄には、白い小石が一つずつ、小さな皿に置かれていた。
台所の隅に、木箱があった。
蓋が開いていた。中に、黒いパンが入っていた。明日の分だった。
「数えよう」
千束が言うと、小さな男の子が駆け寄ってきた。
トビだった。七つから八つになっていた。頬に、肉が戻っていた。灰色の髪が、リコと同じように布で縛ってあった。
「ねえちゃんの、小石でやる?」
「指でやりましょう」
トビは木箱の前にしゃがみ込み、パンを一つずつ指さしながら数えた。
「一。二。三」
数え間違えた。もう一度、最初から数えた。
「四十二。……四十三?」
「新しい子が、一人来ました」
ヘルガ院長が、台所の戸口で言った。
「きのう、河の上の村から。親を冬に亡くした子です」
千束は、手帳を開いた。
孤児院。四十三人。明日の分、四十三個。四分の一ではなく、一個ずつ。
トビが、千束の袖を引いた。
「明日も、ある?」
千束は、トビの顔を見た。
小さな顔だった。秋に、寝台の上で、頬の肉が落ちて目だけが大きかった顔だった。
千束は、しゃがみ込んだ。
トビと、目の高さを合わせた。
「ある」
千束は言った。
「もし外れたら、朝に直す。約束する」
トビは、少し考えた。
それから、にっと笑った。
「ねえちゃんと、同じこと言う」
トビは、ほかの子どもたちのところへ走っていった。
千束は、しゃがんだまま、木箱の中のパンを見ていた。
四十三個。
この世界に来て、いちばん小さな数の約束だった。
けれど、いちばん重かった。
王国の倉を数えた日より。三つの国の倉を一晩で数えた日より。広場で何千という顔の前に立った朝より。
千束は、手帳を閉じた。
◇
その夜、千束は倉番小屋で、日報を書いた。
油皿の灯りの下で、ボールペンを走らせた。インクは、まだ残っていた。日報だけに使ってきたおかげだった。いつか尽きる日のことを、千束はもう恐れていなかった。尽きたら、葦のペンと墨で書けばいい。数え方は、ペンが覚えているのではなかった。指が、覚えていた。
朝会。リコ、計画朗読。差異三袋、七の倉、直した。
河岸の新しいパン屋。祭り。一・五倍。
水車小屋、七つとも。予備の臼、二つ。
ゾルハーデンへの届け、今朝の船。
孤児院、四十三人。新しい子、一人。
千束は、ページの余白に、もう一行足した。
届かない手紙だった。
久保さん。十二年前のあの日の、本当の原因を書きます。原因は、作業者の確認不足ではありませんでした。徹夜をさせて、明け方に段取り替えをさせた、私の計画でした。報告書に、そう書くべきでした。ごめんなさい。
千束はペンを止めた。
長いあいだ、その一行を見ていた。
それから、最後の行に、今日の締めを書いた。
本日の差異、三袋。
その下に、もう一行。
十二年間、毎日書いてきた二文字の場所に。
明日の朝、また数える。
千束は、手帳を閉じた。
窓の外で、風が鳴っていた。
春の夜の風だった。七つの倉のあいだを吹き抜けて、袋の口紐に結ばれた札を揺らしていた。何百という小さな紙が、いっせいに、かさかさと鳴っていた。
あの夜と、同じ音だった。
台風の夜の、自動倉庫の暗がりで、指のあいだで鳴っていた白い札の音。
千束は、窓辺に立った。
月の光の下で、札が揺れていた。一枚一枚に、番号が書いてあった。最後の一桁まで、足し算の合った番号が。
もう、怖い音では、なかった。窓の外の暗がりに、誰かが立っているような気がした。杖をついた、背の曲がった影が。
明日の朝の、音だった。




