第二十三章 出荷――あの夜の札の下に、もう二文字が刻まれていた
夜明け前の船着き場は、霧に沈んでいた。
河の水面から白い霧が立ちのぼり、石段の上まで這い上がってきていた。岸に舫われた小舟の輪郭が、霧の中でぼんやりと揺れていた。河の縁の薄い氷が、ときおり小さく軋んだ。
千束は石段の上に立っていた。
懐に、黒い手帳があった。
霧の向こうから、足音が近づいてきた。何人もの足音だった。白い長衣の宣託官たちが、灯りを手に石段を下りてきた。その真ん中に、灰色の外套をまとった背の高い男がいた。
縄は、かけられていなかった。
ワシオは、宣託官たちの少し前を、自分の足で歩いていた。
石段の下に、ネーヴァが小舟を寄せていた。帆を新しく張り替えた、国境の船頭組合の早船だった。ネーヴァは竿を河底に突き、舟を岸に押しつけていた。首の赤い布が、霧の中で鮮やかだった。
「天へ返す舟は、わたしが漕ぐ」
ゆうべ、ネーヴァはそう言った。
「海までは、わたしの河だ。河口から先は知らないがね。誰かが送ってやらなきゃ、あの男は河口の氷で舟ごと潰れちまう」
河口をふさいでいたベルカの船は、ゆうべのうちに道を開けていた。朝の朗読の数を聞いた船長が、船を退かせたのだった。
広場では、ゆうべ遅くまで、偽りの宣託官を吊るせという声が上がっていた。王は、天命院の掟のとおりにすると告げた。海へ流す。それ以上でも、以下でもなく。王女がそう願い出たのだと、千束はあとで聞いた。
ワシオは、牢に残ることもできた。
王女がそう言ったとき、ワシオは笑って首を振ったという。
向こうに、まだ誰も売ってない海がある。
それだけ言ったのだと。
宣託官の長老が、石段の途中で立ち止まった。
「書記どの。四半刻だけだ」
長老はそう言って、宣託官たちを連れて石段を上っていった。王女が、話をつけてくれたのだった。
石段の下に、千束とワシオだけが残った。
ネーヴァは、舟の上で背中を向けていた。竿を握ったまま、霧の中の河を見ていた。
◇
「いい朝だな」
ワシオが言った。
「霧で、何も見えません」
「見えないから、いいんだよ。誰にも見られずに出ていける」
ワシオは石段に腰を下ろした。
千束も、一段離れて腰を下ろした。冷たい石が、外套越しに伝わってきた。
「首は、まだつながってるな」
「陛下が、掟のとおりにすると」
「ありがたいこった。吊るされるのは、営業の死に方じゃねえ」
ワシオは、霧の中の河を見ていた。
「戸倉」
「はい」
「あの夜のロット。出たか」
千束は、ワシオの横顔を見た。
「……分かりません。私も、あそこで」
「そうだったな」
ワシオは、膝の上で両手を組んだ。
「お前、何度も俺に聞いたよな。出荷されたかって。俺は、覚えてないって言った」
「はい」
「嘘だった。いや、嘘じゃないな。本当に、覚えてなかった。三十三年のあいだに、あの夜のことは、お前の叫んでる顔しか残ってなかった」
ワシオは、少し黙った。
「思い出したのは、きのうだ。広場で、お前が札を並べたとき」
「……」
「表の札と、控えの札が、同じ番号で二枚ずつ並んでた。それを見てたら、急に思い出した。あの夜、俺が何を持ってたか」
ワシオは、自分の右手を見下ろした。
「保留札だ。黄色い、あの札」
千束の胸の奥で、何かが鳴った。
「あの夜な。会社を出る前に、品証の夜勤から連絡が来たんだ。金属検出の記録が欠けたロットがある。行き先は量販店の、子ども向けの小分けの棚だって」
千束は、息を止めた。
「子どもの口に入る。金属が混じってたら、取り返しがつかない。それなのに、うちの営業の若いのが棚を埋めるためにトラックを呼んじまってた。俺が三倍出せって言ったせいでな。若いのは、保留のロットまで積もうとしてた」
ワシオは、霧の向こうを見ていた。
「だから、止めに行ったんだ」
「……止めに」
「ああ。俺が三倍って言ったせいで、積もうとしてる。だったら、俺が止めなきゃならない。でも、俺は営業本部長だ。客に『出せません』って電話をかけるのは、死んでもごめんだった。だから、せめて札に書こうと思った。運転手は、札の字だけは読むからな。札に書いてあれば、積まない」
ワシオは、右手の指を動かした。
ペンを握るように。
「出荷停止。鷲尾。そう書いた。書いてる途中で、お前が飛び込んできた」
千束は、懐の手帳に手を当てた。
「お前、俺が札を剥がしに来たと思ったんだろう」
「……はい」
「だよな。そういう顔してた」
ワシオは、小さく笑った。
「無理もない。俺は三十年、一度も止めたことがなかったんだから」
◇
千束は、懐から手帳を取り出した。
最後のページを開いた。
黄色い保留札が、挟まっていた。
この世界に落ちてきたとき、手に握っていた札。雨に打たれ、河に落ちた札。焚帳の山に積まれかけ、ダンに拾われてトマの箱に入れられた札。
表面は、ほとんど白くなっていた。加工された紙の上で、インクはとうに流れ落ちていた。上のほうに、「出荷」の二文字の、影のような名残があるだけだった。その下は、何も見えなかった。
「それ」
ワシオが、息を呑んだ。
「あの夜の札か」
「握っていました。目が覚めたとき」
「……持ってきちまったのか」
「持ってきてしまいました」
千束は、札を手のひらに載せた。
何も見えなかった。
けれど、千束は知っていた。
秋のはじめ、三の倉で目を覚ましたとき。指先に、何かが触れた。紙の表面の、かすかなでこぼこ。誰かが強い力でペンを押しつけた跡。
トマの声が、頭の中で鳴った。
目を閉じよ。
千束は、目を閉じた。
指の腹で、なぞるんじゃ。爪を立てるな。力を抜け。
千束は、人差し指の腹を、札の上に置いた。
ゆっくりと、なぞった。
上のほう。二つの字の形があった。インクの名残と同じ形だった。
出荷。
その下。
指が、止まった。
何もないはずの紙の上に、溝があった。浅い溝。ボールペンの先が、紙を押し込んだ跡。インクは流れても、紙のへこみは残っていた。
刻みは、刻んだ者の手の癖が残る。
千束は、溝をなぞった。
一画。二画。横に一本。縦に。込み入った字だった。人偏があった。
停。
次の字。短い横線が、いくつか。
止。
千束は指を、もう一度、上から下へ動かした。
出。荷。停。止。
その下に、少し離れて、もう一つの塊があった。
強く押しつけられた溝だった。急いで、力いっぱい書いた字だった。
鷲。
尾。
千束は、目を開けた。
札は、白いままだった。何も見えなかった。
けれど、指先には、まだ残っていた。
出荷停止。鷲尾。
「……書いてありました」
千束の声は、かすれていた。
「出荷停止。鷲尾。筆圧の跡が、残っていました」
ワシオは、長いあいだ何も言わなかった。
霧の中で、河の水が石段を叩く音だけが聞こえていた。
「墨が消えても、筆の跡は残る」
千束は言った。
「トマさんが、教えてくれました。指で読む方法を」
「……あの、盲目の爺さんか」
「はい」
ワシオは、霧の向こうを見たまま、目を細めた。
「生まれて初めて書いた『できません』だったんだよ、それ」
ワシオの声は、低かった。
「三十年、営業をやって、一度も書かなかった。言わなかった。客の欲しいに無いは無い。親父みたいになりたくなかったからな。それが、最後の夜に、たった四文字だけ書いた。出荷停止。それも、客にじゃない。運転手に読ませるための、札の上にだ」
「……」
「三十三年、忘れてた。この世界に生まれ直して、また最初から、無いは無いで生きてきた。予言なんか作って、人を走らせて。あの夜、俺が何を書いたのか、すっかり忘れてた」
ワシオは、千束の手のひらの札を見た。
「お前が、持ってきてくれてたんだな」
千束は、札を見下ろした。
あの夜、千束は思っていた。鷲尾は、札を剥がしに来た。最後まで「できます」の人だった。止められなかった。止めようとして、止められなかった。
違った。
あの夜、止めようとしていたのは、千束だけではなかった。
「鷲尾さん」
「なんだ」
「あの夜、私も、初めてでした」
ワシオが、千束を見た。
「それまでの私の『できません』は、盾でした。自分を守るための。誰かに責められないための」
千束は、札を握った。
「あの夜、私は初めて、誰かを守るために『できません』と言おうとしていました。子どもの口に入るかもしれない麦を、止めるために」
「……」
「あなたも、同じ札の上で、同じことをしていたんですね」
ワシオは、黙っていた。
それから、急に笑い出した。
声を上げて、石段の上で、腹を抱えて笑った。霧の中に、笑い声が吸い込まれていった。
「なんだそりゃ」
ワシオは目尻を指で拭った。
「三倍出せって言った男と、できませんって言った女が、最後の夜に同じ札を取り合ってたのか。同じロットを止めるために」
「はい」
「で、二人とも、そのせいで死んだ」
「はい」
「最低の納期回答だな」
ワシオは、また笑った。
千束も、少しだけ笑った。
◇
霧が、少しずつ薄くなり始めていた。
石段の上で、宣託官の長老が咳払いをした。
ワシオは立ち上がった。外套の裾を払い、石段の下の小舟を見下ろした。
「戸倉」
「はい」
「最後に、一つ頼む」
「何ですか」
ワシオは、千束を振り返った。
「納期回答をくれ」
千束は、瞬きをした。
「次は、いつ会える」
千束は、ワシオの顔を見た。
日に焼けた顔。口の端だけの笑い。疲れた目。けれど、その目は、もう疲れていなかった。
一秒。
二秒。
千束は、三秒目を使わなかった。
「分かりません」
千束は言った。
「海の向こうに何があるのか、私は知りません。あなたがどこへ着くのかも。また三十三年かかるのかもしれません。もう二度と、会えないのかもしれません」
「……」
「でも、計画は、毎朝出しておきます」
千束は、手帳を胸に抱えた。
「この王都の広場で、毎朝。外れた分を直して。いつかあなたがどこかから戻ってきたとき、その朝の計画がちゃんと出ているように」
ワシオは、しばらく千束を見ていた。
それから、口の端を上げた。
「最低の回答だな」
ワシオは言った。
「一番、正直だ」
ワシオは、外套の懐に手を入れた。
取り出したのは、薄い革の綴じ帳だった。表紙に、天命院の印が押されていた。円の中の、目が一つ。
「来年の天命帳だ。中は、白紙だ。まだ何も書いてない」
ワシオは、それを千束に差し出した。
「書け」
千束は、受け取った。
思っていたより、軽かった。
「全部は、書きません」
千束は言った。
「毎朝、一日分ずつ書きます。外れたら、次の朝に直します」
「好きにしろ。もう、お前の帳面だ」
ワシオは石段を下りていった。
小舟の縁に足をかけ、舟に乗り込んだ。舟が、わずかに揺れた。
ネーヴァが、竿を握り直した。
「準備はいいかい、天の鷲」
「その呼び方はやめてくれ。もう、ただの鷲尾だ」
「じゃあ、鷲尾さん。河口まで二日。海まで送ってやる。その先は知らないよ」
「十分だ」
ネーヴァは千束を見上げた。
「書記さん。わたしは三日で戻る。戻る予定だ。外れたら、言付ける」
ネーヴァは笑った。日焼けした顔の皺が、笑ったときの形に深くなった。
竿が、石段を突いた。
「毎朝、差し直すさ」
小舟が、岸を離れた。
◇
霧の中を、小舟がゆっくりと下っていった。
ワシオは、舟の真ん中に座っていた。千束のほうは見ていなかった。河の下流の、霧の向こうを見ていた。
千束は石段の上に立っていた。
手を振ろうとして、手が上がらなかった。
手帳と、白紙の天命帳を、両腕で抱えていた。それが重いのではなかった。腕が、どう動けばいいのか分からなかった。
前の場所で、千束は誰かを見送ったことがなかった。辞めていく人の送別会にも、いつも仕事を理由に出なかった。久保さんの送別会にも。
舟が、霧の中に溶けかけていた。
千束は、手帳を左腕に抱え直した。
右手を、上げた。
振った。
舟の上で、背の高い影が振り返った。
影は、片手を上げた。
大きく振るのではなかった。顔の横まで手を上げて、一度だけ、小さく振った。朝会のドアを開けるときの、あの気安い仕草に似ていた。
それから、影は前を向いた。
霧が、舟を包んだ。
竿が水を打つ音が、しばらく聞こえていた。
やがて、それも聞こえなくなった。
千束は、石段の上で、長いあいだ立っていた。
霧が晴れていった。河の水面が、朝の光を受けて光り始めた。河の縁の薄い氷が、陽を浴びて、細かく砕けて流れていった。
千束は石段に腰を下ろした。
手帳を開いた。
ボールペンを抜いた。
百十四日目、と書いた。
それから、一行書いた。
出荷。一名。行き先、未定。
ペンが、最後の行の上で止まった。
十二年間、毎日書いてきた二文字が、また指の先まで出かかっていた。
千束は、それを書かなかった。
かわりに、書いた。
見送った。




