第二十一章 大棚卸――一晩で三つの国の倉を数えたら、足りないものは何もなかった
数え方の紙は、三百枚になった。
王女の書記たちが、二日かけて書き写した。千束が王都の十九の倉で使ったやり方を、誰にでも分かる言葉で一枚にまとめたものだった。
二人一組で数える。一人が数えて声に出し、もう一人が繰り返して書く。山には棚番をつける。数え終えた山には白い布。もう一度数えて合ったら赤い布。白が二枚の山と、白のない山を探す見張りを一人置く。
字の読めない村のために、絵も描いた。二人の人。袋の山。白い布と赤い布。描いたのは、リコと孤児院の子どもたちだった。
紙は、船頭組合の若い船頭たちが、河沿いの村々へ運んでいった。上流へも。下流へも。河口のベルカの船へも。
「百十二日目の夜。日が沈んだら、いっせいに数え始めてください。数え終わったら、紙を船着き場へ。船が、夜通し王都へ運びます」
千束は船着き場で、出ていく若い船頭の一人一人にそう言った。
若い船頭たちは、笑ってうなずいた。
「頭領が言ってた。書記さんの言うことは、毎朝の竿だと思えってさ」
「竿」
「外れたら、また差し直せばいいってこと」
◇
百十二日目の夕方、千束は王都の船着き場に立っていた。
冬の日は短かった。西の空が赤く染まり、河の水面に長い光の帯を落としていた。河の縁には、薄い氷が張り始めていた。年明けが近づいて、夜はいっそう冷えるようになっていた。
七つの倉の前には、灯りが並んでいた。
焼け残った倉も、屋根の落ちた三の倉も。その一つ一つの前に、二人一組の人々が立っていた。倉番たち。孤児院の子どもたち。マルタのパン屋の職人たち。ガンツの粉屋の若い衆。年寄りの船頭たち。
十九の倉を数えた四日間よりも、人が多かった。
「チヅカ」
リコが、色札の籠を抱えて駆け寄ってきた。
「王都の倉は、あたしが見張る。白が二枚の山も、白がない山も、全部見つける」
「お願いします」
「チヅカは、中洲?」
「中洲です」
リコは千束の顔を見上げた。
「帰ってくる?」
千束は、一秒だけ黙った。
「帰ってきます。夜明けの前に」
「約束?」
「約束です」
リコは、鼻を鳴らした。
それから、千束の外套の袖をつかんで、引っぱった。
「外れたら、朝に直してね」
リコは籠を抱え直して、七の倉のほうへ走っていった。
日が、沈んだ。
大聖堂の鐘が、一つだけ鳴った。
それが合図だった。
七つの倉の前で、声が上がった。
「一の一。縦五、横六、高さ八」
「一の一。縦五、横六、高さ八。二百四十」
数える声と、繰り返す声。紙の上を走る炭の音。
河の向こう岸でも、灯りがともった。下流の村の倉の前にも。上流の、ずっと遠くの、見えない村々の倉の前にも。
千束は、目を閉じた。
見えなくても、聞こえる気がした。
ミルナ河の上から下まで、何百という倉の前で何千という声が、同じ数え方で数を数えている。
◇
中洲へ渡る船は、五艘だった。
先頭の船に、ダンが乗っていた。王宮の衛兵が二十人。倉番の若い者が十人。ガンツが寄越した粉屋の男たちが八人。それから、深い青の外套のイレーネ王女が、千束と同じ船に乗っていた。
「殿下は、王宮に残られたほうが」
「わたくしは倉奉行よ。五日だけのね」
王女は河の上の闇を見つめていた。
「天命院の倉を検めるのは、倉奉行の務めでしょう。わたくしがいなければ、衛兵は動けないわ」
船は、闇の中を上流へ進んだ。
櫂が水を打つ音だけが聞こえた。河の縁の薄い氷が、船の舳先に当たって、細かく砕ける音がした。
半刻ほどで、中洲の葦が見えてきた。
葦の向こうに、石造りの倉の黒い影があった。
秋に、ネーヴァの船から見た倉だった。壁に、天秤の紋が描かれていた。近くで見ると、倉は一棟ではなかった。葦の陰に隠れるように、同じ造りの倉が、さらに四棟並んでいた。
「五つ」
千束は呟いた。
「塔の地図では、白い石が山のように積まれていました」
船が、中洲の岸に着いた。
葦の中から、松明が三つ、四つと現れた。
男たちだった。天秤商会の荷役の男たちが、棒や鉈を手に、岸に並んでいた。その真ん中に、毛皮の帽子に羽根飾りをつけた、太った男が立っていた。
バルトロだった。
「止まれ!」
バルトロが叫んだ。
「ここは天命院の聖なる倉だ。何人たりとも――」
「倉奉行の名において、検めます」
王女が船の上に立ち上がった。
王冠の紋の指輪が、松明の光を受けて光った。衛兵たちが、いっせいに岸に飛び降りた。
「聖なる倉に、倉奉行の印は届かん! 天命院の大宣託官さまが――」
「では、大宣託官をここへ呼びなさい」
王女の声は、静かだった。
「呼べないのなら、どきなさい」
バルトロは口をぱくぱくさせた。
荷役の男たちが、顔を見合わせた。
ダンが、船から岸に降りた。
何も言わなかった。ただ、まっすぐバルトロのほうへ歩いていった。荷役の男たちが、ダンの体の大きさを見て、一歩下がった。また一歩下がった。
バルトロは、後ずさった。
後ずさった先に、葦の茂みがあった。
足を取られた。羽根飾りの帽子ごと、バルトロは葦の中へひっくり返った。泥水が跳ねた。河の縁の薄い氷が、太った体の下で割れる音がした。
「冷たい! 冷たい! 誰か、引き上げろ!」
荷役の男たちは、誰も動かなかった。
ダンが、ため息をついて、バルトロの襟首をつかんで引き上げた。泥まみれのバルトロを、衛兵の足もとに置いた。
「殴ってない」
ダンは千束を振り返って言った。
「見ていました」
千束は言った。
◇
一つ目の倉の扉を開けると、麦の匂いがあふれ出してきた。
千束は、灯りを掲げた。
息が、止まった。
袋の山が、天井まで積まれていた。倉の奥の闇の中まで、ずっと続いていた。王都大倉の一つの倉より、ひと回り大きかった。
二つ目の倉も。三つ目も。四つ目も。五つ目も。
五つの倉の全部が、麦で埋まっていた。
「数えてください」
千束は言った。
「二人一組で。棚番をつけて。白と赤の布で」
倉番たちも粉屋の男たちも、衛兵たちまでが、灯りを手に倉の中へ散っていった。
「一の一。縦六、横八、高さ十」
「一の一。縦六、横八、高さ十。四百八十」
声が、中洲の倉の石の壁に響き始めた。
千束は、一つ目の倉の、いちばん手前の山に近づいた。
袋の口紐に、札が結ばれていた。
千束の書き方の札だった。大倉から特急令で運ばれた麦だ。千束は口紐の下を探った。麻の目に、控えの札が縫い込まれていた。番号が、表の札と同じだった。
この倉の麦は、王都大倉から来た麦だった。
では、救援麦は。
表の札のない袋を、探さなければならなかった。
千束は灯りを掲げて、倉の奥へ進んだ。山から山へ。袋の口紐を一つずつ確かめていく。札のある袋。札のある袋。札のない袋は、村から集められた麦だった。口紐の下にも、何も縫い込まれていない。
二つ目の倉。三つ目の倉。
夜が、更けていった。
四つ目の倉の、奥の壁際で、千束の手が止まった。
小さな山だった。ほかの山から少し離れて、壁に寄せて積まれていた。縦に四つ、横に五つ、高さ二段。
四かける五かける二。
四十。
袋の口紐に、札はなかった。
千束は、膝をついた。
いちばん上の袋の口紐に、指をかけた。結び目を確かめる。二回くぐらせて、右に引いて締めてある。トマが倉番たちに教えた結び方だった。大倉の結び方だった。
千束は口紐をほどいた。
口紐の下の、麻の目を探った。
指先に、小さく硬いものが触れた。
麻の目に、紙が縫い込まれていた。
千束は灯りを近づけた。指が、震えていた。縫い目の糸を、爪の先でほどいた。小さな四角い紙が、手のひらの上に落ちた。
墨の字が、灯りの中に浮かび上がった。
三〇八―〇一―二。
千束の字だった。
縫い込んだのは、ダンだった。包帯を巻いた指で、一袋ずつ、黙って針を通した札だった。
「……あった」
千束の声が、かすれていた。
ダンが、すぐ後ろに立っていた。
ダンは千束の手のひらの札を見下ろした。それから、自分の包帯の手を見下ろした。
「俺が、縫った」
「はい」
「ほどけて、なかった」
「ほどけていませんでした」
ダンは膝をついた。二つ目の袋の口紐をほどいた。麻の目の、控えの札。
三〇八―〇二―三。
三つ目。〇三―四。
四つ目。五つ目。
ダンと千束は、四十袋の口紐を、一つずつほどいていった。
〇一から四〇まで。
全部、そろっていた。
四十の控えの札が、千束の手のひらの上に、重なっていった。
王女が、灯りを持って二人の後ろに立っていた。
王女の目が、濡れていた。
「……これで」
「はい。救援麦は、王都を出たあとで、ここで入れ替えられました。本物の四十袋は、ここにあります。表の札を外されて」
千束は四十枚の札を、手帳に挟んだ。
百三日目の、五十二行の番号のページに。
「四十一番から先の札は、どこを探しても、控えがありません。最初から、存在しない袋だからです」
◇
夜半を過ぎたころ、河の上を灯りが行き交い始めた。
船頭組合の若い船頭たちの船だった。上流と下流の村々で数え終わった紙を集め、夜の河を王都へ運んでいく。中洲のそばを通るたびに、船の上から声が飛んできた。
「下流の三村、終わったぞ!」
「上流の五村、数え終わり! 白が二枚の山が一つあったけど、直した!」
中洲の五つの倉も、数え終わった。
千束は数の紙を受け取り、手帳に写して足し合わせた。王女の書記が横で、同じ足し算をした。二人の答えがそろった。
中洲の五つの倉。七万二千四百袋。
「七万……」
王女が息を呑んだ。
「王都の大倉から、特急令で運んだ麦の、ほとんど全部ね」
「それに、村々から集めた麦が足されています」
千束は手帳を閉じた。
「王都へ戻ります。全部の数を、合わせます」
◇
王宮の東の部屋は、紙で埋まっていた。
机の上にも、床の上にも、窓辺にも。河の上から下まで何百という倉の数を書いた紙が、船で運ばれてきて積み上げられていた。
王女の書記たちが、紙を村ごとに分けていた。千束は机の前に座り、一枚ずつ手帳に写していった。足し合わせる。検算する。書記がもう一度足し算をする。
王都大倉。焼け残った分。
中洲の五つの倉。
天秤商会の、王都の中の三つの倉。中洲の倉の札をたどって、見つけた倉だった。
河沿いのアルメリクの村々。
河口のベルカの船の、船倉。
ペンが、走った。
夜明けまで、あと二刻だった。
千束は、最後の数を足した。
手帳の上に、一つの数字が残った。
千束は、その下に、もう一つの数字を書いた。ミルナ河の流域の、アルメリクとベルカと、ゾルハーデンの国境の村々に暮らす人の数。一日に食べる量。春の終わりまでの日数。それを掛け合わせた数。
その下に、手をつけない分。
引き算をした。
千束のペンが、止まった。
「……戸倉?」
王女が、のぞき込んだ。
千束は、手帳を王女のほうへ向けた。
「春の終わりまでの分と、手をつけない分を除いても」
千束の声は、かすれていた。
「まだ、もう一冬分、余ります」
部屋の中が、静まり返った。
書記たちが、ペンを止めていた。
「二冬」
王女が呟いた。
「ミルナ河の流域は、二冬、越せる」
「はい」
千束は手帳を見下ろした。
足りないのではなかった。
最初から、足りていた。予言が足りないと言い、人が怖がって買い急いだ。商会が運び出して隠し、誰も数えなかった。それだけだった。
「足りないんじゃない」
千束は言った。
「数えてなかった、だけ」
王女が、千束の肩を抱いた。
強く、抱いた。
◇
夜明けまで、あと一刻だった。
千束は手帳の数字を、清書の紙に写していた。広場で読み上げるための紙だった。王女の書記の一人が、隣で同じ紙を写していた。
早く。
夜明けの鐘が鳴る前に。将軍が狼煙台に火を入れる前に。
千束のペンは、速くなっていた。
速くなりすぎていた。
「チヅカ!」
扉が、乱暴に開いた。
リコだった。色札の籠を抱えたまま、息を切らしていた。顔が、真っ青だった。
「待って。その数、待って」
「リコ?」
「河岸の南倉」
リコは千束の机に駆け寄り、紙の束の中から二枚を引き抜いた。
「河岸の南倉と、天秤商会の河岸倉。同じ倉だよ」
千束の手が、止まった。
「秋の終わりから、天秤商会が南倉の半分を使ってたの。壁で仕切ってない。山が、つながってるの。南倉を数えた組が、商会の山まで数えちゃった。商会の倉を数えた組も、南倉の山まで数えちゃった」
リコは、紙の上の棚番を指さした。
「あたし、さっき南倉に戻って、見てきた。山のてっぺんに、白が二枚ずつ乗ってた。四十七番から、六十二番まで」
白が、二枚。
二回、数えている。
千束は、二枚の紙を並べた。南倉の紙と、商会の河岸倉の紙。棚番を一つずつ照らし合わせた。
重なっていた。
十六の山。
千束は足し算をした。
三千と、少し。
「三千袋」
千束の声が、かすれていた。
「三千袋、多く数えていました」
部屋の中の空気が、凍りついた。
王女が、千束を見ていた。
夜明けまで、あと一刻もなかった。
三千袋。二冬分の余りから見れば、わずかな数だった。足りていることは変わらない。
けれど。
あの男は、必ず見つける。
評定の日に、千束が見つけたゴッツの麦わらの山を、人の倉は偽られる証に変えてみせた男だ。三千袋の数え違いを、あの男が見逃すはずがない。
ほら見ろ。人の数は外れる。人の帳面は嘘をつく。
それを、ハーゲン将軍の前で、三つの国の民の前で言われたら。
千束の手から、ペンが落ちた。
机の上を転がって、床に落ちた。乾いた音がした。
窓の外の空が、かすかに白み始めていた。
そのとき、窓の外から、声が聞こえた。
船着き場のほうだった。
「頭領だ! 頭領が戻ったぞ!」
千束は窓に駆け寄った。
河の上に、一艘の小舟が見えた。帆が裂けていた。舳先に、首に赤い布を巻いた大きな女が立って、竿を河底に突いていた。左腕に、汚れた布が巻かれていた。
舟の真ん中に、小さな老婆が座っていた。
白い髪を、頭の上で団子にまとめた老婆だった。両腕で、何かを胸に抱えていた。油紙の包みだった。
ネーヴァが、船着き場の石段に竿を突き立てた。
千束のほうを見上げて、大声で叫んだ。
「約束どおりだよ、書記さん! 毎朝、差し直したからね!」
ネーヴァは懐から、紙の束を取り出して振った。
「おまけに、ゾルハーデンの国境の村々の数もだ! 婆さんが、向こう岸まで頼んで回ったのさ!」
大聖堂の鐘が、鳴り始めた。
年明けの、朗読の鐘だった。
千束は窓から、広場の方角を見た。
大聖堂の前の、白い塔の露台に、白い布が垂らされていた。
布の向こうに、背の高い影が立っていた。




