第二十章 需給会議――最初に嘘を書いたのは私だと言ったら、一つのテーブルに三つの国が座った
牢の扉が開いたのは、百九日目の昼だった。
鍵を回したのは、牢番のハンスではなかった。
イレーネ王女だった。灰色の外套ではなく、深い青の外套をまとっていた。手に、千束が書いた本当の報告書の紙を握っていた。紙は皺だらけで、何度も開いては閉じたあとがあった。
「出なさい」
王女は言った。
「父上の許しは、取ったわ。五日だけ」
「五日」
「年明けの朗読の朝まで。それまでに天命とあなたの数を、広場で並べてみせなさい。それが父上の条件よ」
千束は藁の上から立ち上がった。
膝が、少しふらついた。四日ぶりに、まっすぐ立った気がした。
「殿下。どうやって、陛下を」
「全部、見せたわ」
王女は紙を掲げた。
「あなたの報告書。手帳の最後のページの、百日分の印。五十二の札の検算桁。トマの割符」
王女は、少しだけ笑った。
「それから、わたくしも同じだったと申し上げたの。報告書が偽りだと分かっていて、父上に渡したって。戦を止めるために、ダンを差し出したって」
「……殿下」
「父上は、長いこと黙っておられた。それから、言われたわ。わしも同じだ、と。天命院の約束が嘘かもしれないと、どこかで分かっていて、買ったと。民を眠らせるために」
王女は千束の手を取った。
冷たい手だった。王女も、眠っていないのだと千束は思った。
「わたくしたち、皆、同じことをしていたのよ。数字から目をそらして、約束を買っていた」
王女は千束の手を強く握った。
「だから、今度は、本当の数字で約束して。あなたが」
◇
大倉の中庭は、黒く焼け焦げていた。
焚帳の灰が、石畳の上に薄く積もっていた。三の倉の屋根は半分が落ち、梁が黒い骨のように空に突き出していた。二の倉の裏の壁は崩れ、焼けた麦の匂いが、冬の乾いた風に混じって漂っていた。
倉番たちが、焼け跡を片づけていた。
千束が中庭に入ると、倉番たちの手が止まった。
誰も、何も言わなかった。
三十人の倉番たちが焼けた袋を抱えたまま、桶を持ったまま千束を見ていた。その中に、ダンがいた。両手の包帯は、新しく巻き直されていた。ダンは千束を見て、それから目をそらした。
リコが、三の倉の前に立っていた。
トマが座り込んで、息を引き取った場所だった。石畳の上に、杖が一本、置かれていた。誰も動かさなかったのだと、千束には分かった。
千束は、中庭の真ん中まで歩いていった。
倉番たちの前で、立ち止まった。
深く、頭を下げた。
「最初に嘘を書いたのは、私です」
中庭が、静まり返った。
「救援麦の報告書に、ダンの名前を書きました。ダンは、あの朝、西の支流の粉倉にいました。私は、それを知っていました。知っていて、書きました」
千束は、頭を下げたまま言った。
「自分が差し出されるのが、怖かったからです。札や毎朝の届けが止まると、自分に言い聞かせました。でも本当は、約束するのが怖かったからです。自分の名前を差し出して、それでも皆を守ると約束するのが」
声が、震えそうになった。
千束は、震えさせなかった。
「ダン。ごめんなさい。皆さん、ごめんなさい」
長い沈黙があった。
冬の風が、焼け跡の灰を巻き上げた。
足音が、近づいてきた。
大きな影が、千束の前に立った。
千束は顔を上げた。
ダンが、千束を見下ろしていた。煤で汚れた顔の中で、目だけが静かだった。
「怒ってる」
ダンは言った。
「……はい」
「まだ、怒ってる」
「はい」
ダンは、包帯の手を見下ろした。
それから、また千束を見た。
「次は」
ダンは、ゆっくりと言った。
「一緒に数える」
千束は、息を止めた。
ダンは、それ以上何も言わなかった。千束に背を向け、焼けた袋の山へ戻っていった。肘を二度、叩いていた。
倉番たちが一人また一人と、仕事に戻っていった。誰も何も言わなかった。けれど、千束から目をそらす者は、もういなかった。
リコが、三の倉の前から歩いてきた。
千束の前で立ち止まり、千束の顔を見上げた。
「直した?」
「直しました。殿下が、陛下に見せてくださいました」
「ふうん」
リコは千束の袖を引いた。
「じゃあ、次、何数えるの」
◇
「三つの国の倉を、一晩で数えます」
その夜、王宮の東の部屋で、千束は言った。
机の上に、王国の地図が広げられていた。ミルナ河が北から南へ、細い青い線で描かれている。その上流に、山岳国ゾルハーデン。河口に、商港連合ベルカ。
部屋には、千束と王女のほかに、何人もの人が詰めかけていた。
粉屋組合のガンツ。河岸のパン屋のマルタ。孤児院のヘルガ院長。王女の書記たち。それから、ゾルハーデンの使者ヴェルナーが、壁際に腕を組んで立っていた。年明けの朗読まで王都に留まり、返答を待つことになっている男だった。
もう一人、見慣れない男がいた。
潮の匂いのする外套を着た、背の低い男だった。ベルカの商人の船長だという。河口をふさいでいる船の、取りまとめ役の一人だった。王女が使いを出して、呼び寄せたのだった。
「一晩で、三つの国の倉を?」
ガンツが白い眉を持ち上げた。
「王都の十九の倉を数えるのに、四日かかったぞ」
「あのときは、王都の人だけで数えました。今度は、数える人を、倉のある場所ごとに置きます」
千束は地図の上に、小石を置いていった。
王都に赤い石。河沿いの村々に白い石。ハルトに黒い石。上流のゾルハーデンの村々に、また白い石。河口のベルカに、青い石。
「倉のある場所の人が、自分たちの倉を数えます。二人一組で。棚番と色札で。王都で数えたやり方を、紙に書いて渡します。数えた数は、河の船で運びます。船頭組合の船が、河の上から下まで、夜通し走ります」
「船頭組合の頭領は、上流へ出たままではなかったか」
「ネーヴァさんは、年明けの朝までに戻ると約束しました。組合の若い人たちは、王都に残っています」
千束は地図の真ん中の、細長い中洲を指で押さえた。
「それから、ここも数えます」
部屋が、静まり返った。
「天命院の聖なる倉、です」
「天命院の倉を、数えるの」
王女が言った。
「中洲には、私が送った救援麦の、本物の四十袋があるはずです。表の札は外されています。でも、口紐の下に、控えの札が縫い込まれたままのはずです」
千束は手帳を開いた。
「ロット三〇八、袋の番号〇一から四〇。その控えの札が見つかれば、救援麦が王都を出たあとで入れ替えられたことが証せます。札をたどって、袋がどこへ行ったかを追いかけます」
千束は、ヴェルナーを見た。
「使者どの。あなたの村に届いた五十二袋の札を、もう一度見ていただけますか。四十一番から五十二番の札の、最後の一桁を」
ヴェルナーは、腕を組んだまま動かなかった。
王女が、千束の手帳の最後のページを開いて、ヴェルナーの前に差し出した。
五十二行の番号と、その横に千束が書いた足し算。四十一から先の、十二行の赤い印。
ヴェルナーは長いあいだ、そのページを見ていた。
それから、懐から小さな紙の束を取り出した。大広間でぶちまけたあと、拾い集めて持っていた札だった。
ヴェルナーは四十一番の札を抜き出した。指で、数字をなぞった。唇が、かすかに動いていた。三と〇と八と、四と一。
「……六」
ヴェルナーは呟いた。
「札には、二と書いてある」
「はい」
「四十二番。七。札には、三」
ヴェルナーの手が、震えていた。
四十三番。四十四番。ヴェルナーは十二枚全部を、自分の指で足し算した。
十二枚とも、合わなかった。
ヴェルナーは顔を上げた。
血走った目が、千束を見ていた。
「……これを、将軍に見せろというのか」
「年明けの朗読の朝に。広場で。割符と、中洲の控えの札と一緒に」
「それまでに、我が国の村々も数えろというのか」
「はい。国境の村々の倉に、本当はどれだけの麦があるのか。何人が、春までにどれだけ食べるのか。頼み状の数ではなく、本当の数を」
千束は、ネーヴァの小屋で見た頼み状の束を思い出していた。
「国境で、頼み状を見ました。同じ村から、何度も、数を増やして。届くのが遅いから。怖いから。足し合わせると、ひと冬に要る量の五倍でした。その五倍の数を、アルメリクは本当の注文だと思って、怖がっていました。アルメリクの怖さが、またゾルハーデンを怖がらせていました」
千束は地図の上で、王都の赤い石と、国境の白い石を指で結んだ。
「二つの国が、互いの怖さを数えていたんです。麦ではなく」
ヴェルナーは、しばらく黙っていた。
それから、窓の外を見た。夜の闇の向こうに、白い塔がぼんやりと浮かんでいた。
「……伝書の鳩が、三羽ある」
ヴェルナーは言った。
「国境の砦まで、一日で飛ぶ。やってみよう。約束はできんがな」
「それで十分です」
千束は言いかけて、止まった。
それから、言い直した。
「いいえ。約束してください。外れたら、また朝に言い直せばいいんです」
ヴェルナーは、妙な顔をした。
それから、口の端をわずかに上げた。
「……変わった女だ」
「よく言われます」
◇
「ベルカの船長さん」
千束は、潮の匂いの男に向き直った。
「河口をふさいでいるのは、麦が高く売れるまで待つためですか」
「そうだ」
男は悪びれずに言った。
「大寒が三年続くなら、麦はこれからもっと上がる。今売るのは馬鹿のすることだ」
「では、値段が上がらないと分かれば」
「売るさ。持っていても腐るだけだ」
千束は王女を見た。
王女がうなずいた。
「春の終わりまで、アルメリクの王家が、ベルカの麦を今の値で買い上げると約束したら」
王女が言った。
「上がるのを待つ理由は、なくなるわね」
男の目が、細くなった。
「……王家の約束か」
「倉奉行の約束よ。五日だけの倉奉行だけれど」
王女は千束の手帳を指さした。
「それに、毎朝、本当の麦の数を広場で読み上げる。値段が上がる理由があるかどうか、あなたたちにも見えるように」
千束は、手帳に書いた。
値段を、動かさない。
前の場所で、何度も見てきた。安売りがあると、人は必要もないのに買い込む。値上がりの噂があると、人は先に買い込む。値段が揺れると、注文が揺れる。注文が揺れると、上流ほど大きく揺れる。鞭の柄を握る手を止めるには、値段を動かさないことだ。
男は長いあいだ考えていた。
それから、短く言った。
「年明けの朝の数を、聞いてから決める」
「それで構いません」
千束は言った。
ガンツが、白い眉の下で千束を見ていた。マルタが、腕を組んでうなずいていた。ヘルガ院長が、膝の上で手を握りしめていた。
「これは、何という集まりなの」
王女が聞いた。
「前にいた場所では、需給会議と呼んでいました」
千束は部屋を見回した。
「売る人と作る人と、運ぶ人と食べる人が、一つのテーブルに座ります。売る数と、作る数を、一つにそろえるための会議です。それぞれが自分の怖さで数を膨らませないように。全員が、同じ本当の数を見るように」
「じゅきゅう、かいぎ」
マルタが繰り返した。
「パン屋が、お城の会議に呼ばれる日が来るとはね」
部屋に、小さな笑いが起きた。
王女も、笑っていた。
◇
翌日、千束は天命院の塔の階段を上った。
三百六十二段。
数えなかった。数えなくても、足は止まらなかった。
最上階の黒い扉は、開いていた。
ワシオは、窓辺に立っていた。白い長衣ではなく、灰色の外套を着ていた。卓の上には三つの国の地図が広げられ、色のついた小石が散らばっていた。中洲の上に、白い石が山のように積まれていた。
「手紙は読んだ」
ワシオは振り返らずに言った。
「あなたに売ってほしいものがある、か。何を売れってんだ」
「落ち着き、です」
ワシオが、振り返った。
千束は卓の前に立っていた。
「年明けの朝、広場で、私は本当の数を読みます。三つの国の倉の数を。それで、麦が足りていることを示します」
「足りてるなら、数字を読めばいい」
「数字だけでは、人は止まりません」
千束は言った。
「評定の日に、それを知りました。私の数字は、誰も眠らせなかった。あなたの言ったとおりです」
ワシオは黙っていた。
「人が買い急ぐのを止めるには、誰かが、買うなと言わなければいけません。足りていると、大丈夫だと。人の心を動かす声で。この国で、それができるのは、あなたしかいません」
「……俺に、『無い』を売れってか」
ワシオは笑った。
声を上げて笑った。塔の石の壁に、笑い声が反響した。
「三十三年、一度も『無い』と言わなかった男に。客の欲しいに無いは無いで、ここまで来た男に。足りてるから買うな、と言えって?」
「はい」
「断る」
ワシオは笑うのをやめた。
卓の上の白い石を一つ取り、千束の前に置いた。
「年明けの朝、お前は将軍に引き渡される。それで終わりだ。お前の本当の数なんか、誰も聞かない」
「聞かせます」
千束は言った。
「約束しました。この冬、ミルナ河の誰も飢えさせないと。外れたら、毎朝直すと」
ワシオの目が、わずかに見開かれた。
「……お前が、約束?」
「はい」
「戸倉が、約束」
ワシオは、長いあいだ千束を見ていた。
それから、窓の外を向いた。
「出ていけ」
千束は、一礼した。
扉に手をかけたとき、背中で声がした。
「ハーゲンは、もう王都の外れまで来てる。年明けの朝、日の出とともに、丘の狼煙台に火を入れる手はずだ。火が上がったら、国境の砦の兵が河を渡る」
「……」
「お前の数が間に合わなかったら、それで戦だ」
千束は振り返らなかった。
扉を閉めた。
三百六十二段の階段を、一段ずつ下りていった。
年明けの朝まで、あと三日だった。




