35
その日の夜、早々に床に就いたものの、いつまで経っても眠りは訪れなかった。
瞼を閉じていると、今日の出来事が次々と甦る。
指先には、波打ち際でリボンを結び直してくれた時の感触が、まだ仄かに残っている気がした。熱の籠もった菫色の瞳を思いだすと、自然と鼓動が早くなる。
──デビュタントの前に、婚約するといいわ。
昼間の義母の言葉が、波のように押し寄せてきて頭から離れない。しばらくベッドの上で輾転としていたが、一向に眠気が訪れないので、諦めて起きあがった。
白いタフタのガウンを羽織って、静かに部屋をでる。廊下の明かりは消えていたが、等間隔に並ぶ窓から月光が射しこんでいて、すぐに目が慣れた。
階段をおりてテラスにでると、満天の星空が広がっていた。無数の星が黒い海に映りこみ、まるで空と海の境目が溶けてしまったように見える。誘われるようにさらに階段をおりて、浜辺へでようとすると、
「エイミー! どこへ行くの?」
ぱっと振り仰ぐと、テラスの雨樋の怪物の隣で、エミリオが身を乗りだしていた。
エイミーは笑顔になり、海の方を指さした。
「砂浜を歩きたいの」
「こんな時間に?」
「すぐ戻るわ」
なおも首を振るエミリオに、説得は難しそうだと思ったエイミーは、代わりに手招きした。
「お義兄さまも来て」
「……そこにいて」
言うが早いか、エミリオはテラスから身を翻し、部屋着のまま階段を駆けおりてきた。息を弾ませながら、真っ直ぐにエイミーのもとへやってくる。
「何してるんだよ、エイミー」
「夜の散歩。心配しなくても、慣れているのよ」
エイミーは日頃から、一人であちこち歩き回るのが好きなのだ。シルヴァニール領でも、夕暮れ時や月灯りの下、樹々や星と一緒に、気の向くまま散歩している。
「知ってるけど……ここはシルヴァニールじゃないんだから、夜更けに一人で海には行かせられないよ」
「一人じゃないわ」
悪びれずに笑うと、エミリオは呆れたようにため息をついた。
「……その理屈はおかしいだろ」
「そうかしら?」
悪戯っぽく笑うエイミーを、エミリオはなんとも言えない表情で見つめている。小言を貰う前に、エイミーは夜空を指さした。
「見て、満月よ」
エミリオも空を眺めた。
海から吹きよせる風が心地いい。
空は澄みわたり、月光が、遠くの水平線を淡い紫と銀斑に煌めかせている。
「夜中にうろつき回る貴族令嬢なんて、エイミーくらいじゃない?」
軽口を叩きながら、エミリオは手を差し伸べてくれる。
優しいエスコートを受けながら、足元に気をつけて階段をおりていく。人工照明を点けなくても星明りで十分に明るく、白い砂浜は銀色に輝いて見えた。
誘われるように、二人は砂に並んで腰をおろした。
「ねえ、お義兄さまは、星に願い事をしたことある?」
「……ないよ。星は観測するものであって、願うものじゃないと思ってた。エイミーは?」
「あるわ」
前世では、テストの点数が良くなりますようにとか、好きな人と両想いになれますようにとか、ずいぶん可愛らしい願い事ばかりしていた気がする。けれど今、星に願いたいことはひとつだ。
――どうか、この幸せがずっと続きますように。
家族と過ごす穏やかな日々。隣で笑うエミリオ。楽しげに弾むシドニーの声。義母の明るい笑顔。義父のさりげない優しさ。食卓を囲んで笑いあい、他愛のない話に耳を傾ける。そんな何気ない時間が、いつの間にかエイミーにとって、かけがえのないものになっていた。
(このまま、何も変わらなければいいのに)
けれど、それを願うことは、同時に別の願いを捨てることでもあるのだと、エイミーは気づいていた。
「何を願ったの?」
「秘密」
複雑な想いを笑顔の下に押し隠すと、エミリオは面白くなさそうに眉を寄せた。
「教えてくれないんだ」
「……叶ったら、教えてあげる」
からかうようにそう返すと、エミリオは何か言いたげに口を開きかけ――結局、何も言わずに、小さく頷いただけだった。
満天の星が、ふたりの上に降りそそいでいた。
「……“何時間でも見ていられる?”」
悪戯っぽく、エミリオが訊いてきた。
「その通りよ」
「綺麗だけど、一人で海に行ってはだめだよ」
「ごめんなさい。星があんまり綺麗だから、部屋でじっとしていられなくて」
本当は悩み過ぎて眠れなかったのだが、そういうことにした。気まずさを紛らわすように、エイミーは視線を海の方へと向けた。
「……夜の生き物って不思議ね」
砂辺では、夜行性の小さな鳥が、波打ち際で砂を啄ばんでいた。近くで見てみたくて、エイミーは立ちあがり、波打ち際へと歩みよる。
「ひゃっ」
足元の砂が不意に動いた感触に、小さな悲鳴をあげてよろめいたエイミーは、とっさにエミリオの胸に抱きとめられた。
しなやかな腕のなかに閉じこめられて、鼻先に、彼の匂いが香った。潮風と、幽かな柑橘、そして彼自身の体温。とくん、とくんと速まる鼓動が、自分のものか、それとも密着した彼の胸から伝わってくるものか、判らなくなる。
エミリオの服にしがみつきながら、おそるおそる視線を足元に落とすと、暗い砂の上で何かがもぞりと動いた。
「……びっくりした。砂が動いたかと……蟹?」
「幽霊蟹だよ」
岩場には、しめった夜気に誘われて幽霊蟹が這いだしていた。青白い躰は砂に紛れて見つけにくい。
「ごめんなさい、影霊かと思っちゃった……シドニーに教えたら大喜びしそう」
笑ってごまかしながら、エミリオの腕からそっと抜けだそうとした。けれど、彼はそれを許してくれない。逃げ場を探して視線を彷徨わせると、思いがけず菫色の瞳とぶつかった。薄闇のなかでも判るほど、熱を灯して輝いている。戸惑っている間に、エミリオの視線が、ふいに逸れる。かと思うと、まっすぐに戻ってきた視線が、再びほんの僅かに下へ落ちた。
唇を見ていたのだと気づいた瞬間、心臓がドクンと跳ねた。
(……あれ、キスされそう?)
どうしよう──まだ心を決めていないのに。焦ったエイミーは、逃げだしそうになる心を理性で押しとどめるように、エミリオの瞳を強く見つめた。
「もう平気よ」
だから離して。暗にそう告げたが、エミリオは動かない。薄闇のなかで、紫の瞳は輝いて見える。
「……僕も、エイミーのことなら、何時間でも見ていられるよ」
どくん、と心臓が跳ねる。頬が熱くなり、耳の先まで熱が伝っていく。なのに、どうしても彼の顔から目を逸らせなかった。
「……危なっかしいから?」
そうじゃないと判っていながら、おどけるしかなかった。エミリオはふっと笑った。
「……そうかもね」
「ごめんなさい。今夜はもう、おとなしく眠るわ。戻りましょう、お義兄さま?」
訴えるように、長身を仰ぎ見る。
エミリオは、感情を堪えるように目を閉じた。再び目を開けると、抑制の効いた笑みを浮かべて、エイミーを離した。
「そうしようか」
帰り道は、互いに無言だった。
彼の背を見つめながら、今になって心臓が激しく打っていることに気がついた。
(……今の、告白だった? ……自意識過剰? いや……でも、そうだったとしたら……)
どう応えれば、良かったのだろう。
危機を脱したような、不誠実な真似をしてしまったような、惜しいことをしてしまったような……安堵とも失望ともとれる感情が胸のなかで暴れている。何か言葉を探そうとするのに、頭のなかはぐちゃぐちゃに乱れて、会話の糸口すら見つからない。
邸に戻り着く頃には、月はいっそう高く昇っていた。並んで階段をのぼる間も、二人は言葉を交わさなかった。
部屋の前まで送り届けると、エミリオは扉に手をかけたエイミーの、ほんの少し乱れた髪に触れた。指先が、頬をかすめる。
「……お休み、エイミー」
その声に滲む、幽かな未練に気づいてしまった。どうしよう──彼の目を見ることができない。
「お休みなさい」
声が、少し震えた。
名残惜しむように離れていく指先を、月明かりが翳のように追いかけていく。扉を閉ざしてもなお、彼の温もりは頬に残り、消えてはくれない。
エイミーは扉に背をあずけたまま、しばらく動けずにいた。静まらない鼓動だけを、窓から差しこむ月明かりが静かに照らしていた。




