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三日目の朝も雲一つない快晴で、家族そろって港町を散策することにした。
行き交う人々の表情は明るく穏やかで、リゾートらしい薄着にサンダルをひっかけ、悠然とした足取りで歩いている。
石畳の目抜き通りには、色とりどりの日除け布が張られ、露店の商人達が威勢よく声を張りあげていた。焼きたてのパンの香り、爽やかな潮の香り、色硝子の装飾品が陽光を弾いて煌めいている。
賑久しい通りをそぞろ歩いていると、貝殻や砂糖菓子、色硝子の小瓶を並べた土産物屋が目に留まった。義母が、その店先に目を輝かせる。
「あら、可愛い。貝殻の細工物ね。シドニー、ちょっと見てみましょう」
「はい、母様」
シドニーが明るく返事をする。エイミーも店先に目を向けたが、潮風に誘われた。
「お義母さま、ちょっと砂浜を歩いてきてもいい?」
砂浜を指さしながら訊ねると、義母はにこっと微笑んだ。
「いいわよ、リオも一緒にね」
エミリオが頷くのを見て、義母はシドニーの小さな手を引くと、義父を伴って、賑わう店先の人波へと紛れていった。
一方、エイミーとエミリオは、そのまま目抜き通りを離れ、海へと続く小径を下っていく。
白い砂浜がどこまでも続き、そこかしこから楽しげな声が、潮騒に混じって響いていた。鍔の広い麦わら帽子に白いサマードレスを纏った女性が波打ち際を歩き、子供が歓声をあげながら凧を追いかけている。
澄み渡る青空からこぼれ落ちた光が、水面いっぱいに散らばっていた。波が寄せるたび、無数の玻璃の欠片となって煌く。その眩しさに、エイミーは思わず目を細めた。
昨日エミリオから贈られたばかりの、花冠つきの帽子は海風に飛ばされてしまいそうで、付き添いのサアラに預けることにした。身軽になったエイミーは、ショールも脱いで小脇に抱えると、誘われるように波打ち際へと歩みよった。
「エイミー?」
エミリオが焦ったように声をかけるが、気にせず先に進む。
ワンピースの裾を膝上までたくしあげ、そっと波打ち際に足を踏み入れる。冷たい海水が足首をくすぐるように撫で、じんわりと沁み透るような、不思議な心地がした。
「エイミー!」
エミリオが、咎めるような声をあげた。
「平気よ、下はちゃんと水着だもの」
軽く裾を摘むと、痛いくらいの力で手を掴まれた。
「やめなさい」
「判った。でも、他の人も水着姿じゃない?」
「何もこんなに人のいるところで海に入らなくても、別荘で泳げばいいのに」
エミリオの指先に魔力の気配が集まりかけたので、エイミーは慌てて止めた。
「すぐ乾くからいいよ。これも海の醍醐味なんだから」
エミリオが目配せすると、控えていたサアラが、すかさず大判のタオルを差しだした。それを受け取ったエミリオは、少し不服げに、タオルをエイミーの肩にかけた。
「ありがとう。準備がいいのね」
「エイミーが海に入るかもしれないと思って、サアラに、持ってくるよう頼んでおいたんだ」
「気持ちいいわよ。お義兄さまもご一緒にいかが?」
エミリオは首を振った。
「僕はいいよ」
「そう? 気持ちいいのに」
「人目のあるところは、あまり気が休まらないんだ」
ちらりと周囲へ視線を投げるエミリオの先で、すれ違う人々が、驚いたような表情で振り返っている。宗教画から抜けだしてきた天使のような美貌に、誰もが目を奪われているのだ。エイミーは、小さく苦笑した。
「……別荘に戻る?」
「いや、いいよ。浜辺に来たかったんでしょ?」
「ありがとう。もう少し歩いたら、皆のところへ戻りましょうか」
そういって砂浜を並んで歩いていると、土産物を買い終えた義母達が、こちらに気づいて手を振りながら近づいてきた。
「二人とも~、楽しんでいる?」
義母が、にこやかに笑いかけてくる。
「ええ、とっても!」
大きく頷くエイミーの隣で、エミリオも小さく相槌を打った。
そのまま家族そろって、しばらく夕暮れ間近の浜辺を歩き、足が少し疲れてくると岩窟邸へと引きあげた。両親はテラスで寛ぐことにしたようで、エイミーはエミリオとシドニーを誘い、邸の裏手にある私有ビーチへ向かった。
人気のない浜辺には、寄せては返す波音だけが静かに響いている。
シドニーは、さっそく岩陰の潮溜まりに屈みこみ、小さな蟹や寄居虫を追いかけて夢中になっていた。
「……ここは静かね」
「うん。他人の目を気にしなくていい」
そう言って持ってきたタオルを岩の上に広げながら、エミリオは、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「せっかくだし、ワンピース、脱いだら? 水着なんでしょ」
どきりと心臓が跳ねて、エイミーは俯いた。
「やめておくわ」
「さっきは、堂々と水に入っていたのに?」
「あれは……」
言葉に詰まる。まさか、他人の目の方がよほど気楽だったから、なんて、本当のことは言えない。
「……恥ずかしいの」
結局、正直にそう白状してしまった。
「誰もいないのに?」
「誰もいないから、だよ」
エミリオは、一瞬きょとんとした顔をしたが、やがて意味を理解したのか、耳の先まで赤く染めた。
「……ごめん、変なこと訊いた」
気まずそうに視線を逸らし、項をかくエミリオ。からかうつもりが、逆に墓穴を掘った形になり、エイミーは思わず笑ってしまった。
「ほら、遊ぼう!」
照れくささを振り払うように、エイミーはワンピースの裾をつまんで、再び水際へと駆けだした。
「あ、待って」
慌てて追いかけてくるエミリオと水をかけあい、波打ち際で笑いあう。寄せる波が足首を洗うたび、小さな悲鳴に、弾けるような笑い声が重なった。気がつけば、先ほどまでの気恥ずかしさは、どこかに消えていた。
海からあがったエイミーは、濡れた足で貝殻まじりの砂を踏んだ。
「痛っ」
「どうした」
すぐさま振り向いたエミリオが、案じるように顔を覗きこむ。
「何か踏んだみたい……」
そういう間にも、エミリオは片膝をついて、エイミーの足首をそっと持ちあげていた。
「お義兄さま?」
「動かないで」
真剣な横顔で、彼は足裏を確かめる。俯いた拍子に、銀色の髪がさらりと落ちて、陽光に透けた。
見惚れていると、ポケットから取りだした手巾で、傷口を押さえようとするので慌てた。
「いいよ、汚れちゃう」
「いいから」
骨ばった大きな掌に足を包まれて、エイミーは息を詰めた。触れられた場所から、じわりと熱が広がっていく。
足元をよく見ると踵の近くに、うっすらと赤い筋がついていた。貝殻の欠片で、肌をかすったようだ。
「……くすぐったい」
「我慢して」
彼は真面目な顔のまま、一向に笑わない。些細な怪我のはずなのに、どうしてこんなに真剣な顔をするのだろう。
「……お義兄さまったら、大袈裟」
「エイミーがすぐ無茶をするからだよ」
処置を終えたエミリオが、ゆっくりと膝を伸ばして立ちあがる。
今度は見あげる姿勢になり、正面から視線が絡んだ。菫色の瞳に射抜かれて、頬に熱が灯る。彼はふっと表情を緩めると、手を差しのべた。
「歩ける?」
「平気よ」
そう答えながらも、差しだされた手を、エイミーは取っていた。そのまま並んで浜辺の奥へと歩きだす。
波打ち際に煌めく貝殻に気を取られ、エイミーはいつしか手をほどいてしゃがみこみ、華奢な貝殻を拾い集め始めた。
「そんなもの、拾ってどうするの?」
「窓辺に飾るの。アンにもあげようかしら……お義兄さまも探してみて? 私より素敵な貝、見つけられるかしら?」
「望むところだよ」
真面目な顔で即答するエミリオが可笑しくて、エイミーは思わず口元を綻ばせた。
波打ち際にしゃがみこみ、並んで貝殻を探した。薄紅色に透ける貝、真珠色に光る欠片、渦を巻いた小さな巻貝。エイミーは次々と拾いあげては、掌のうえで陽に透かして見せびらかした。
「これも可愛いでしょう」
「まあね」
素っ気なく答えながらも、エミリオは負けじと真剣な顔で砂を掻き分けている。長い指が、砂のうえを滑る。
「これはどう?」
差しだされたのは、掌にすっぽりおさまるくらいの乳白色の巻貝で、小さな棘が規則正しく並び、内側は淡い桃色に透けている。
「綺麗ね」
「あげる」
その言葉が、貝殻よりも先に胸へ落ちた。なんでもない風に言われたその一言を、エイミーは指先で確かめるように、貝の丸みをそっと撫でた。
「ありがとう、大事にするわ」
貝を両手で包みこむと、寄せた波が爪先を濡らし、その冷たさに肩を竦めた拍子に、エミリオがふと遠い目をして水平線を見つめているのに気づいた。
「……九年前も、この浜で貝殻を拾ったことがあるんだ」
「そうなの?」
「祖母が毎朝、僕を海に連れだしてくれたんだ。若いうちに、たくさん綺麗なものを見ておきなさい、が口癖でね。貝殻を拾うのも、その一つだった」
懐かしむように、エミリオは目を細めた。潮風が前髪を掬い、その隙間から覗く横顔は、いつもより幼く見えた。
「今でも、貝殻を見ると、祖母を思いだすよ」
「……そう」
「祖母は六分儀の使い方も教えてくれた。僕の部屋に今もかかっているんだけど」
「ええ、昼食の席で話してたわね」
エイミーは、別荘に着いた日の食卓で交わした、何気ない会話を思いだした。
「太陽が水平線に触れる角度を測って、緯度を割りだすんだ。祖母は、遊びながら色々なことを教えるのがうまい人だった」
懐かしむような声に、エイミーの胸が疼いた。祖母のいない海辺で、それでも彼は今、こうして笑っている。そのことが、なぜだか切なく、同じくらい愛おしかった。
「私も、お祖母さまにお会いしてみたかったわ」
当時六歳のエイミーは、魔法学院で起こした傷害事件の罰として謹慎の身にあり、公爵邸から一歩も出ることを赦されていなかった。祖母の見舞いにいける状況ではなかったのだ。
「祖母はきっと、エイミーを気に入ったと思うよ」
ふ、とエミリオが笑った拍子に、その頭上に淡い光が集まりだした。金の粒子が、燐光のように舞う。この光こそが、女神の祝福の残滓なのかもしれない。
期待して見つめていると、光はやがて、くっきりとした輪郭を結んだ。
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また、あがった。
――こんな風に、心の奥を分けあえたことが、彼にとっても、何か特別な意味を持ったのだろうか。
恋心という、曖昧で朧げなものが小さな光の粒に、すっかり閉じこめられてしまう。それが可笑しくて、少し切ない。数字は明瞭だ。なのに、エイミーの胸の裡には、測ることのできないものが揺れている。
「姉様、これもどうぞ」
どこからかシドニーが駆け寄ってきて、エミリオの頭上に舞っていた光はふっと霧散した。
「綺麗な石ね。ありがとう、シドニー」
えへへ、とシドニーは嬉しそうに笑う。
ふと視線を感じて顔をあげると、テラスのバルコニーに養親の姿があった。夕風にシャツの裾を揺らす父の隣で、青いヘッドスカーフを結んだ母が、白いカーディガンを羽織り、優雅にシェリーを傾けている。海を眺める二人の姿は、夏の夕暮れに馴染んだ一枚の絵のようだった。
「お義父さま! お義母さま!」
エイミーが手を振ると、ひらひらと義母は手を振り返した。驚いたことに、義父も軽く手をあげて応えてくれた。
シドニーも嬉しそうに手を振り返し、階段をのぼっていく。
浜辺には、エイミーとエミリオが残された。
まだ帰る気になれなくて、波打ち際の岩に腰をおろすと、エミリオも隣に座った。寄せては返す波の音が、二人の間に横たわる沈黙を、優しく埋めてくれる。
「……海って、いいね。何時間でも見ていられそう」
エミリオも小さく頷いた。
「うん。僕も」
「また、ここに来られるかしら」
問うたつもりはなかったのに、声にだしてみると、思いのほか切実に聞こえた。
エミリオは水平線を見つめたまま、
「もちろん、来られるよ」
迷いのない声だった。それだけで、胸の奥にあった小さな不安が、ひとつ溶けて消えた。
「帰りたくないな……」
このひとときが、永遠に続けばいいのに――そう思う自分がいる一方で、いつか終わる夏に胸が疼く。幸せな時間ほど、瞬く間に過ぎ去ってしまうものだと、この夏だけでも、もう十分に思い知らされていた。
そんな物思いを破るように、遠く港から鐘の音が、波間を渡ってゆっくりと届いた。
顔をあげると、空は、海の向こうへとゆっくり燃え堕ちていくところだった。エミリオの銀色の髪が、蜂蜜に濡れたように煌いている。
海風が強く吹いて、エイミーの髪を結んでいたリボンが、はらりとほどけかける。
「……あ」
押さえようとした指より先に、エミリオの手が伸びた。
「じっとして」
ほどけたリボンを拾いあげると、彼は指先で丁寧に光沢のある生地を撫でつけてから、黙って結び直していく。
このリボンも、七年前、彼から贈られたものだった。あの頃の彼は、こんな風に触れるどころか、まともに目をあわせようともしなかったのに。
なのに今は、指先が髪を掬い、耳に触れる。風に攫われかけたリボンを、白い指が、そっと直してくれる。
「……できたよ」
結び終えたエミリオが、そっと顔を覗きこんできた。至近距離で、菫色の瞳とぶつかってしまう。
視線を逸らそうとしたが、できなかった。
「……そろそろ戻る?」
問いかけても、エミリオは答えない。じっと見つめてくるその瞳の奥に、燻るような熱が籠もっていた。
落ち着かない心地になり、やっとの思いで顔を背けた。
「行きましょ、お義兄さま」
平静を装って歩きだそうとすると、手首を掴まれた。
はっとして振り向くと、エミリオも驚いたような表情をしていた。
「あ……ごめん」
指先が、わずかに遅れて離れた。
「戻ろうか」
そう言って彼は、隣に並んだ。
取り返した手を胸の前で引き寄せると、掌のなかで乳白色の貝殻に幽かな温もりが残っているのに気づいた。そっとワンピースのポケットに滑りこませ、指先でその感触を確かめる。
並んで歩く道すがら、指先が幾度となく触れそうになったが、どちらからともなく、その一歩手前で引いてしまう。もどかしいような、それでいて甘やかな距離感だった。
テラスに続く階段をのぼりながら、エイミーはポケットのなかの貝殻をそっと握りしめた。
乳白色の小さな貝殻は、もう海の冷たさを失っていた。それなのに、掌にはいつまでも、二人で過ごした夏の温もりが残っているような気がした。




