不愉快な追い風
気だるげな雲が空全体に広がっていた。刺すように鋭い雨が馬車を打つ。馬車を引く二頭の馬も水のカーテンに絡みつかれながら、不快そうに歩みを進めていた。
御者は顔に張りつく水分を、ほとんど意味をなさないと分かっていながら袖で拭う。袖自体がたっぷりと水分を吸っているせいで、邪魔な水気が右へ左へと移動するだけだ。
一般的に、これほどの雨の中馬車を走らせる事はそうない。急いでいる夫婦がどうしてもと頼みこんできたので、仕方なく馬車を出したのだ。しかし予想していたよりもはるかに強い雨足に、御者はその選択を後悔していた。
水を吸って重くなった鞭を打ち馬を急かす。すると高く嘶き歩を早める。
――その時だった。
雨よりももっと存在感のある音が御者の耳に届いた。轟々と唸るその音は、不幸の前触れを予感させる。
最悪な視界に必死で目を凝らすと、信じたくない光景がそこにあった。山が、まるで生き物のように動いていたのだ。現実味のない景色に、それが地滑りであると認識するまでに数秒を要した。
脳内は真っ白になり、生存本能だけが体に命令を下す。手綱を捨て、翼に力を込めた。即座に雨に打たれ一枚一枚の羽が質量を増す。しかしなんとか空へと逃げのびた。
視線を下げ自分の走って来ていた道を探すが、あるのは泥でできた凹凸だけで今まで存在した道はどこにもなかった。
滝のように降り注いだ雨が止んで五日。
葉が重なり強い陽光を穏やかで優しいものへと変化させている。立派に育った木々は互いに絡み合い、編むように佇んでいた。その自然達と同じ色をした屋根がいくつか並び、その下には果物が置いてある。
しかしそんな柔らかな様子なのは自然のみで、拓かれた広場に集まっている人々の顔は険しかった。村人たちが見つめる村の入り口に、荷車を引いた二人の男が姿を現す。軽く嘆息しただけで言葉という言葉を発さず、丁寧に荷車から麻袋を二つ下ろした。
「そんな……ついこの間まで元気だったじゃないか」
「……良い人たちだったのに……うぅっ」
「土砂崩れだったそうだ」
広場のあちらこちらから嗚咽が聞こえてきた。
山の中の、比較的傾斜が少ない場所を拓いて作ったモンダ村。小さく、村人の数も少ない。だからこそこの村では、たとえ血のつながりがなくとも家族のように暮らすことができている。今回犠牲になった夫婦も村人たちから家族のように愛されていた。
「どうしてこんな事に!」
「……急いで帰ろうと、雨の中を無理に走ったらしい」
「なんで、そんな無茶を……?」
「そりゃあ……」
それぞれが近くの者と顔を見合わせ目で話す。けれど誰もはっきりとした言葉にすることはなく、顔を気まずげに曇らせるばかりだ。
「私が待っていたから。それ以外にないと思います」
村人が集う場所より少し離れた位置から声が飛ぶ。決して大きな声ではなかったのだが、落ち着いた声音は妙な存在感を持って村人たちの耳に届いた。声の主である少女が歩みを進めると、自然と村人たちが道を開けていく。村人の視線は彼女の身体――背中から生えている翼に集中していた。もっとも今は上着のマントに隠されていて、直接見えるわけではないのだが。
「なんで、なんて白々しいですよ。分かっている事じゃありませんか。ねぇ?」
麻袋の前で彼女は口元には笑みを浮かべ、目では侮蔑を表し周りの人間を見やる。そんな彼女と視線を交わせる者はいなかった。
夫婦の一人娘である彼女の名前はニーナ。明るい茶髪に同色の瞳。右目の下の泣きボクロが悲しげな表情と相まって本物の涙のように見える。
ニーナが現れるまでは悲しげに集まっていた村人たちが、急にそわそわと落ち着かない様子に変わった。子供を連れていた母親はニーナに対して恐れにも近い視線を送った後、素早く子供の手を引いて自分の家へと退散していった。それを合図として一人、また一人と広場から姿を消す。最後に残ったのは荷車を引いてきた男二人だったが、ニーナがひと睨みすると彼らもまた立ち去って行った。
「……ごめんなさい。私のせいで」
しばらくして、ニーナの小さな涙声が風に混じった。
もしも自分が普通の人として生まれてきていれば、こんな事にはならなかったのに。そんなどうしようもない後悔がニーナを苦しめた。
閉鎖的なこのモンダ村では、異質なものは徹底的に排除される。一番よくある例を出すなら、翼の色だ。多くの人間が有するのは金や銀。それ以外の色はほとんど認められずに村からはじき出されてしまう。
村人に異物と認識されたニーナにもその時が迫っていた。この村を出てどこに行くのかを決めるために、彼女の両親は村の外を見に行っていたのだ。ニーナと共に、平和に暮らせる場所を探しに。今回は少し遠くまで行く予定だったためニーナは村に残っていた。村人から疎まれているとはいえ直接危害を加えられるわけではないのだから、残るほうが安全だと両親は判断したらしい。
ニーナは膝を折り、麻袋に手を掛けた。けれど手が震えて結び紐が解けず、袋の口が開かない。次第に涙が溢れ視界がぼやけた。結び目に顔を近づけるが、やっぱりまともに見えない。雫が頬を伝い、ポタポタと音を立てて麻袋を濡らす。
先程ニーナに睨まれて家に帰っていった男が広場の様子を見に戻ってきた。おそらくニーナが帰ったかどうかを確認しに来たのだろう。そこでひっくひっくとしゃくり上げるニーナを見つけ、仰天して走り寄った。
「おい、やめろ。何をしている」
ニーナの手を掴み行動を制した。男の声は村にある家々に響いた。
「いくら娘とはいえ、故人の顔を暴くような行為は許されない。……両親の教育を疑われたくなければ、恥知らずな行動は慎みなさい」
「うるさい! 顔を確認して何が悪いの? だってこんな袋のまま両親ですって言われて信じられるわけないでしょう」
「連れ帰る前に俺達が確認している。その二人は間違いなく君の両親だ」
力では敵わず、無理やり引きはがされた。しかしどうしても諦めきれず、視線は麻袋に絡んだままだ。
男はそんなニーナの様子に畏怖の混ざった同情の目を向けた。ゆっくりと、ニーナが妙な動きをしない事を確かめつつ腕の力をゆるめていく。
「……悪いが、君は家に戻ってくれ。君に居られては他の皆がゆっくり別れを済ますこともできない」
唇を痛いほど噛みしめ、ニーナは俯いた。そして顔を見られないようにしながら自分の家へと戻っていく。その途中で数件の家から外の様子を窺う視線を感じたが、気づかないふりをした。
家に戻ってしばらくすると、外が少し騒がしくなってきた。村人が集まってきたのだと悟り、ニーナはわずかに口角を上げた。
(お母さんもお父さんも、みんなに好かれてたから)
村人の悲しみを確認することで、両親の生前の幸せを確かに感じられた。
(二人は愛されてた。幸せだった。……私さえ普通だったなら、もっと)
村人がニーナには決して向けない温かな視線や笑顔。けれど両親には確かに存在していたのだ。
その嘆き声は日が落ちてからもしばらく続いた。
ニーナはいくつかの荷物を手に、暗闇に乗じてある一軒の家を訪れた。小さな村にある、比較的大きな家。村長の家だ。
あまり人に気づかれたくない思いから小さくノックをした。すると数拍後にドアが無警戒に開かれた。そこから笑顔で出てきた初老の女性が一瞬で驚いた顔に変わり、慌てて戸を引く。
「待って下さい」
こうなることを予想していたニーナは素早く扉を掴み要件を伝えた。
「うちの遺品を買ってほしいんです」
手にしていた品々を戸の隙間から見せると、女性の顔がやや落ち着きを取り戻す。どうやらニーナの目的が分かって幾分か安心したらしい。
「少し待ってて下さい、主人を呼んできます」
その言葉を残して女性は奥へと消えていった。それから数分の後、今度は村長が家の中から出てきた。
ニーナの手にある品を眺め、これはいくら、それはいくらと値を付けていく。最初はそれほど気にならなかったが、すべての品に付けられた値を改めて認識したニーナは違和感を覚えた。
(……いくらなんでも高過ぎない?)
思考が顔に出たのだろうか。ニーナの顔を見て村長は、硬い口調で言った。
「村を出るには金がかかる。そうじゃろ?」
村長の顔は決して笑顔ではない。どう贔屓目に見てもニーナに良い感情を抱いているとは思えない。その心遣いがニーナには意外で、とても信じられなかった。
「だから割増してくれるんですか?」
「君が出て行ってくれるというのなら、他の皆も喜んで金を出すじゃろうな」
ニーナの胸に乾いた風が吹き抜ける。あぁそういうことかと、とても納得できてしまった。
「同情を受けるつもりはありません」
「同情ではなく利害の一致だと思うがね」
村人たちの気持ちなんかとっくに知っていたはずなのに……どうしてだろう、それでもどこか傷ついてしまう自分がいる。そんな弱みを誰にも見せたくなくて、ニーナは必死に唇を噛みしめて耐えた。
「……そうですか」
だったら、と目に力を込め村長をにらんだ。
「村の皆に知らせてください。私が……出て行くという事を」
――結果、ニーナは他の街に移り住んでもしばらくは働かずに生きていけるだけの金を手にした。




