第十六話 市場参入(マーケット・エントリ)と潜入のロジック
地平線の彼方に、薄らと、だが確かな厚みを持った陸影が見えてきた。
数週間にわたる絶海航行。アイテムボックスに詰め込んだ「日本の味」と、自力で解体した魔物の肉で食糧事情は完璧だったが、やはり「土の匂い」がしてくると、35歳のオッサンの心臓もわずかに高鳴る。
「……ようやく着いたか。新サーバー(大陸)への接続開始ってところだな」
俺はボートのコンソールを操作し、広域センサー(レーダー)の出力を上げた。
画面には、少し離れた場所に巨大な湾口と、そこに密集する無数の船舶の反応が表示されている。あそこがこの大陸の「玄関口」である巨大港湾都市なのだろう。
「さて、どうする……」
俺は冷めたコーヒーをすすりながら、元・警備員の思考回路をフル回転させた。
普通なら港を目指すが、今の俺にとってそれは危険な場所に自ら飛び込むようなものだ。
1.身分証(ID)の欠如: どこの馬の骨とも知れない35歳の男。入国審査で確実に弾かれる。
2.オーバースペックな装備: この純白のプレジャーボート。中世レベルの港に接岸すれば、一瞬で「押収」か「高額な関税」の対象だ。最悪、権力者に目をつけられて詰む。
3.説明不能な物流: 大量の物資をどこから持ってきたか、ログを追及されれば答えようがない。
「……正面突破はリスクが高すぎる。上陸は人がいない場所からだな」
策定:死角へのアプローチ
俺は港から数キロ離れた、断崖絶壁と険しい岩場が続く海岸線へと舵を切った。
港の監視網からも外れ、地元の漁師すら近づかないような「警備の空白地帯」。かつて深夜のオフィスビルで、監視カメラの死角だけを繋いで移動経路を計算した時の感覚が蘇る。
「AI、海岸線の地形スキャンを実行。水深が確保できて、かつ人間が上陸可能なポイントを抽出しろ」
【地形解析中……。北西300メートル地点に隠れ小穴(入り江)を確認。水深5メートル。上陸成功率98%】
「よし、そこへ接岸させろ」
ボートは静かに岩影へと滑り込んだ。
周囲は波の音と、海鳥の鳴き声だけ。人の気配は一切ない。
俺はボートを岩に固定すると、最後の一仕事を始めた。
秘匿:船を隠す
「……さて、この船をどう隠すかだが」
普通の漂流者なら、ここで船を沈めるか、茂みに隠すしかない。だが俺には、2,000魔石という「残業代」の結晶がある。
俺はボートから降りて岩場に立ち、船体に向かって手をかざした。
意識のフォルダを展開し、対象を指定。
「――収納」
次の瞬間、目の前にあった巨大なプレジャーボートが、吸い込まれるように空間の歪みに消えた。
アイテムボックス(時間停止機能付き)。
このチートスキルの真骨頂は、食糧保存だけではない。「何でも、どこでも、ノーコストで持ち運べる」という究極のポータビリティにある。
これで、俺は「ボートを持った不審な漂流者」から、「ただの身軽な旅人」へと、完全に情報を偽装できた。
装備:現地仕様への最適化(パッチ当て)
次に、俺は自分の身なりを整えた。
ボロボロのタクティカル・スーツを脱ぎ捨て、アイテムボックスから「通販で買っておいた中世風の地味な旅装(麻のシャツと革のズボン)」を取り出す。
ただし、その下には現代日本の知恵が詰まった「防刃・耐衝撃インナー」を仕込み、腰の後ろには「セラミック・ナイフ」を隠し持った。
さらに、仕上げとして「通販でポチった安物の中古メイス」を背負う。
「見た目はLv.1のモブキャラ。だが中身はLv.35。……悪くないセットアップだ」
俺は岩場を登り、大陸の奥へと続く森の小道を歩き始めた。
目指すは、先ほどレーダーで確認した港湾都市の「場外」――おそらくスラムか、あるいは場外市場のような、身分証がなくても潜り込めるグレーゾーンだ。
「まずは情報の収集(ログ解析)だ。この世界の通貨、物価、そして『魔石』の相場。……俺のスキルが、この大陸でどれだけの市場価値を生むか、じっくり見定めさせてもらうぜ」
35歳のオッサン、賢治。
異世界大陸、初上陸。
彼は期待に胸を膨らませる勇者のような顔ではなく、新支店の立ち上げに派遣された、冷徹なエリアマネージャーのような目で、遠くに見える街の灯を見つめていた。
ここからが、本当の「ビジネス(生き残り)」の始まりだ。




