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月曜日、早朝。
かのんは飛鳥の家からの休憩の招待を断り、2番目の電車で家に戻っていた。
食欲がわかずに、祖母が用意をしてくれていた朝ご飯も喉を通すことが出来ずにいた。 気を取り直そうと熱いシャワーを浴びてはみたが、体全体をぎこちなくしか動かすことができない。 風呂場中にあふれる湯気をぼんやりと眺めていると、びしょ濡れになった前髪の先からポタポタと流れ落ちる水滴の音に気づき、共鳴するようにひとつふたつと涙がこぼれ落ちていった。 そして、シャワー口に向かって顔を上げて涙を洗い流すと、バスタオルを体に巻いて洗面台の大きな鏡に姿を写してみる。
ボロボロの姿だった。 いつものはちきれんばかりの元気な姿は見当たらない。
少し足元がふらつく、頭も重い、微熱も感じていた。 なによりも、大好きなここなを助けられなかったことが、彼女の気持ちをより一層深く落ちこませていた。
今日は学院の宗門本院で行われる、年に一度行われる大行事、お釈迦様の降誕会の準備のために、院長をはじめ主要な先生達は登校をせず、一日中授業はないと聞いている。 簡単なホームルームと生徒総会だけの日程だ。 悪い体調を押してでも登校する日ではない。 それでもかのんは、サイクロンドライヤーの熱風で一気に髪を乾かすと、気持ちを高めるように、お気に入りのダマスク柄の赤いリボンでポニーの尻尾を結いはじめた。
深緑色の制服に着替えて玄関に向かい「いってきます」 とひと声だけだすと、長い廊下の奥から、「いってらっしゃい、気をつけるんだよ」 と祖母のやさしい声が聞こえてくる。 そして、玄関を出ると、いつものように空に向かって一礼をしてから、学院に向かっていった。
それが、かのんの十年間続いた一日の起点だから‥‥‥。
飛鳥も家の中で笑顔が消えていた。 今日も明るい母さんの笑顔、せわしなく身支度を進める父さんと弟。 いつもの風景、コーヒーの香り。 飛鳥は空ろな顔をしながら、鏡の中で髪の毛を梳かしていた。
いつも以上にまとまらない前髪に苛立ちを隠せない。 ふと、手元に置かれたコーヒーカップの中をのぞくと、ゆらゆらと立ち上る湯気の向こうの真っ黒な液体の奥底が、奈落へとつながっているような気がして不安な気持ちを一層と掻き立てていた。 気を取り直すように緑の西陣織りのネクタイを締めてみたが、いくらやっても後ろがわの細いほうが長くなってしまって見た目がどうもきまらない。 すると、この世の中で自分だけが、すべてのことがうまくいかないような気がしてしまい、とめどもなく自然と涙があふれくるのだった。
それを見つけた、父さんと母さんがあわてて近づいてくると、「どうしたんだい? 訳はいいから落ち着いて。 今日は学校を休んでもいいんだよ」 と、いつもより、うんとやさしい声で話しかけてきた。
そんなふうに声をかけられたとたんに、なんで、こんなにというほど、涙がポロポロと頬を伝って落ちてくる。 ひとしきり涙を流すと、なんだかスっとした気持ちになって、飛鳥は、父さんとお母さんのほうに顔を向きなおして作り笑いをした。
「ごめんなさい。 大丈夫、なんでもないから。 たぶん、寝不足で気分が不安定になっちゃったみたい。 ちょっと涙で洗い流したら、元気がでてきました」
飛鳥は、そういって、照れたような顔をしながら、こめかみの上あたりをコツンと軽くたたいた。
「いつもどおりに学院に行くね。 大丈夫。 いってきます」
玄関で茶色のローファーに足を通すと、甲の上に並んだふたつのタッフルが、収穫されそこねた、嵐の前のさくらんぼうのように小刻みに震えているのが見えていた。
「今日は少し遅れていこう」 飛鳥は、そうつぶやくと、いつもより、バスを1本遅らせてみることにした。 どうしてそうしたかわからないが、なぜだかそうしたかった。 ひとつ遅らせたバスは、いつもよりサラリーマンやOLが多く、少女である自分が、間違えて乗りあわせてしまったなりかけの存在であるかのように感じてしまい、居心地の悪さを感じながら席についた。 窓から見る景色も、いつもとどこか違っていて、まるで理科の実験で見た、ナトリウム化合物の火花がはじけているように、景色全体がひどく黄色く目が痛かった。
先週は、示し合わせたようにかのんと学院の黒門前で待ち合わせて教室へと向かっていたが、当然今日はひとり。 遅れた時間の校門の前にかのんの姿を見つけることはできなかった。 黒門前が騒がしい。 とまどい固まる数人の生徒たちの嗚咽が聞こえてくる。 そのとき、飛鳥の視界には、壊れた黒いバンが黒門の塀に横たわる姿が飛び込んできたのだった。
見守りのために登校した先生だろうか? 大人数人が騒がしく動いている。
「警察には連絡をしたのか? それよりも、救急車を呼んだほうがいい! いいやこの学院のほうが設備は整っている」
「とりあえず、救護室で応急手当を!! 」
「担架を‥‥ 担架を用意しろ! 」
「頭をゆらすな! そっと‥‥‥‥ 」
「運転手は逃げたのか!!!! 」
いろいろな声が飛鳥の頭の中にこだまして目の前が暗くなる。 そして、立ち尽くすままの飛鳥の体の中に、黒々とした不安が渦を巻きながら流れ込み、心臓の鼓動が張裂けるほどに早まっていった‥‥‥。 まさかと思いながらも先生たちが運ぶ担架のなかをのぞくと、そこにはかのんが横たわっていた。 飛鳥は急いで担架のもとに駆け寄ると自然と叫び声が喉を通ってこようとする。
「かのん、かのん? かのん!!! 」 胸がつまってしまって他の言葉がでてこない。
「遅れてごめん‥‥‥ 」
飛鳥は立ちすくみ、両の手の平で顔を覆い、心の底から大声で泣いた。
「飛鳥‥泣かないで。 私、大丈夫だから、大丈夫‥‥‥ 」
そういうとかのんは、力のない笑顔を強がって見せると、飛鳥の頬をそっと撫ぜてくる。
飛鳥は、救護室へと消えてく担架を、ただ立ちすくんで見ているしかなかった。
廊下を鬼のような形相で、白蓮会、副会長《紫雷ともえ》が駆けて来る。
「とうとう怪我人がでた! ヤツラも本気だ! 」
どうしたんだと、もうひとりの副会長《風祭純》が、ともえと同じ速度のナンバの歩行で並びながら尋ねる。
「ヤツラの手引きで、バンが黒門に突っ込んだんだ。 近くにいた四年生のコが巻き込まれた。 幸い怪我は軽傷だが、脳震盪で今も意識はないっ! 白昼堂々、我が学院の前で! 生徒を襲った! これは脅しなんかじゃない!! 宣戦布告だ!!! 」
「なんだって!」 普段、涼やかさを装っている《風祭純》の瞳がギラリと光る。
「「どうするんだい! 会長!!!」」
示し合わせたように、二人の声が、腕が、白蓮会室の扉を跳ね上げた。
「聞こえていますよ。 二人とも‥」
会室の窓に浮かびあがる、咲耶花のシルエットの髪が、メドゥサの蛇のように意志を持ち、震えているのがわかる。 強い日差しの逆光で顔は見えてはいない。
「だめだよ! 会長。 まだヤツラの出方がわからない」
書記長の《九重ゆみか》が心配そうに言う。
「それに、アイツらは、なかなか尻尾なんかださないよ。 ギリギリのところで警察の目を逃れるように行動するんだ。 現に今日の黒門の突っ込んできた車だって、運転手はもちろん、持ち主だってわからない。 指紋さえも照合するあてはないと警察は言っていましたよ。
まぁ脅迫状がきたって警察は、まったく犯人の目星をも見つけられないでいるしね。 だいたい誰も心あたりがないお宝なんて‥‥‥。 何を守ったらいいのかもわからない‥‥‥」
「また警察無線を傍受したね。 九重」 風紀委員長の《天知ひかり》が言う。
「今日は、降誕祭の準備で学院の大人たちがいない日、それに警察はあてにならないと‥‥‥。 ヤツラが動き出すには、もっとも適した日だ。 当然ここで逃げたら、放課後も、そしてこれからも、生徒たちに危険がつきまとう。 それならいっそここで楔をうたないと」
「なんにしても、これは、わたし達の戦いだね。 会長」
西園寺咲耶花が決意をかためた面持ちで、静かにゆっくりとした口調でこう言った。
「九重、全校生徒のみなさんを集めてください。 予定通り、今日の正午より、生徒集会を行います。 洗いざらいの事を皆に伝えましょう」
「みなさんに、この危機を報らせなければ、さらに危険な目にあう生徒がでる可能性が高いでしょう。 それと情報が必要です。 その悪人たちが狙うものに心あたりがないか? 全員に問うてみます。 動揺する生徒もいるでしょう。 学院も、私たちも、無事ではいられないかもしれない。 それでも、この学院を、生徒を守りぬきます」
「それが、白蓮会です」