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4月。 今日から新学期。
昨夜は、あまり眠れなかった。 期待と不安が入り混じる。 胸の奥の鼓動が早く動いて、いつもより朝の明ける時間を長く感じていた。
飛鳥は、家中で一番に目覚めると、すべてのカーテンを開けて太陽の光を存分に浴びてみる。 そうして、急いた気持ちを抑え込むと、顔を洗い、身を整え、少しずつ普段どおりの顔に戻していった。 ブラックコーヒーを一口ふくんで髪をとかしながら、ゴクンと喉を通る大人の香りを感じると、心なしかウェーブのかかった前髪がしんなりと艶をもってたなびく。
クローゼットに向かい、ほどいたばかりの真新しい制服に袖を通し、ほんの少しだけベンジンの香りが鼻先を通ると、不思議と身が引き締まっていった。 そして、いつもより少し真剣なまなざしになると、一度だけ深呼吸をしてボタンを下からゆっくりと嵌めていく。
早足で玄関に向かうと、靴箱の上の鏡でネクタイの曲がりを直す。 そして、まだ牛革の香りの強い真新しいタッフルつきのローファーに足を通し、両手をゆっくりと上げて背筋を大きくのばした。 それから、靴箱の上に置かれた陶器の人形に「いってきます」とささやくと、中に詰めこまれたラベンダーの香りが飛鳥の全身を包んでくれた。
いつもは気にもしていない玄関の沓ずりさえも、飛鳥の新しい人生のスタートラインのように、白く横一文字を描いているように見えている。 そのとき、台所の奥から「いってらしゃい」と母さんの優しい声が背中を押しだした。
新しい高校は待時駅よりほど近く、前の中学校から川向こうに反対方向、西に進む。
すいていればバスで15分。 さらにそこから歩いて5分ほど。
飛鳥は、初めてのバス通学に緊張した。 見渡すと、まわりは知らない人だらけ。 だけどそれがいい、新しい未来へと続く道程なのだから。
飛鳥は妙に納得して頷くと、少し大人になった表情をしながらバスの窓から外をのぞいてみる。 そこから見える道路も家も、街路樹の木々たちも、そして空気さえも、まるでこれから始まる出来事を予感させるように眩しい発色を放っていた。
バス停をおりると、ひときわ目立つ小さなお堂と井戸があった。 ふと、井戸を囲む石垣に目をやると、そこには大きな傷がついていた。
「これはね、いっかくさまが角を掻いて付けた傷だよ」
バス停の椅子に腰をおろした、妙にふっくらとした面持ちをした見知らぬおじさんが、大きな耳たぶをぷらんとさせてニコニコと笑いながら話しかけてきた。
「いっかくさまって、なんのことですか?」
おじさんのやさしそうな笑顔にのせられて、つい飛鳥の口から言葉がこぼれる。
「いっかくさまというのはね。 いつか出会えるという友達を探しまわって、何年も何百年も、それはそれはうんと遠い昔から、このへんに現れては消える、さみしがりやのいきものなんだ。
きっとね、探しまわったところを忘れないように、違う時間に友達が現れるかもしれないから、こうやって角で傷をつけて、もう一度来れるようにしているんだよ。 たぶんこの井戸の傷もそうやってつけたものなんだろうね」
おじさんは、ふっくらとしたお腹をさすりながら、教えてくれた。
「おじさんは、そのいきものを見たことあるの?」
飛鳥が聞くと、おじさんは、ホホホと笑い、大きな耳たぶをもう一度ぷらんとさせた。
「もちろんあるとも。 かわいらしい子供の姿をしているときもあるし、動物の姿で現れるときもある。 それでも最近は、とんと見なくなったなぁ。 昔は、夕暮れ時の、ちょうど見合わせた人の顔がわからなくなるような薄暗い時間になると、ふいに現れては、さみしい顔を残して消えていったものだよ。 ようやく探し続けていた友達と出会えたのかなぁ」
朝からそんな話を聞いて、飛鳥はなんだか不思議な気持ちでいっぱいになっていった。 それから、飛鳥は、おじさんにお礼をいうと、新しい学校の校門へと歩きながらこうつぶやいた。
「ボクもその、さみしいいきものとおんなじだ。 ずっと今も、心を寄り添うことができる本当の友達を探している」 ‥‥‥。
ひときわ目立つ、格調高い寺院を思わせる重厚で真っ黒な門に気後れする。 いつの時代のものだろう? 長い尻尾の鶏や、牡丹に唐獅子、あれは伝説の麒麟だろうか? 馬のような龍のような不思議な動物たちが門の周りいっぱいに彫刻されている。
校門の前に進んでみると、まさかの光景が飛鳥の目の中に飛び込んできたのだった。
松の葉を思わせる深緑色のブレザー。 第二ポケットからのぞくペンダントの飾りが朝日を反射させてキラキラと輝いている。 体の動きを通してゆれる西陣織の緑のネクタイは、金糸を通したストライプが入り、まるで身をまもる剣のようだ。 そこからのぞく白いブラウスから感じ取れる少女と大人との中間にかたどられた胸のシルエットがひときわ目にまぶしい。
薄桃色と薄茶色を重ねた格子柄のプリーツの入ったスカートから生える、すらっと伸びた脚には、ひざまで伸びたこげ茶色のハイソックスが履かれていて、草原を走り抜ける小鹿のような健康さを兼ね備えている。 組んだ腕の左手首には、聡明さを感じさせる紫水晶の珠数珠が透明感をもって自ら光りを放っているようだった。
そして頭には、あのときのように、かわいらしいポニーの尻尾が風にゆれている。
あろうことか! あのときの少女が飛鳥の目の前で立っている。 飛鳥と同じこの学校の制服に身を通し、にこやかに笑う。
「だから、会えるっていったでしょ? わかっていたんだ。こうゆうのに鼻が利くのよ」
そういって、鼻に指を添えて少女は微笑む。 そして、右手をすぅっと前に差し出した。
「ようこそ、『一刻台女学院』に! 」
ここは、C県で唯一の女子校だ。 小学校から大学まで、一貫した仏教に根ざした女子教育を行っている。 仏教という少し古臭い保守的なイメージからか? それとも女子校という閉鎖空間への恐れなのか? 恋を夢見る近隣の女子中学生からはあまり人気がない。 それゆえに、いまどきのコが多かった飛鳥の通っていた中学からは、あまり通うものを聞かない。 しかし百五十年の伝統を持つ、この学院への憧れをもつものも多く、幼いころから準備をし、遠く離れた他県から入学を求める者が後をたたないという。 ほかにも、祖母、母の代から三代続いて通うことを誇りに思う生粋のファンもいて、いまも秀才兼備な女子を輩出させる名門として、この巨大な学院の名をささえている。
彼女の名前は『久世 かのん』。 六歳のときからこの学校に通っているということを教えてくれた。
この学校は小学部の六年間を過ごして、中学生に相当する年齢になると高等部の一年生になり、高校生に相当する年齢になると高等部の四年生と呼ばれる。 同い年のかのんは高等部の四年生で、このあと丘向こうに併設された大学部まで行くと、都合十六年間もこの学院に通うことになる。 小学部から入学するのが、もっともスタンダードな進学のしかたで、高校生の年齢から入学するものは多くはない。 飛鳥のように普通の中学から入学する者は稀だった。 だから飛鳥のようなものは、高校受験をして入ってきたのに転入生と呼ばれている。
「心配しないで。 仏教の教えっていったって、そんなに厳しくないから。 道徳みたいなものだと思ってみて。なむあみだぶつ~って唱えるだけで、お釈迦様のご加護があるってくらいの気軽さなんだから」
かのんは、くったくのない笑顔で笑う。
飛鳥は、話したいことがもっとたくさんあったけれど、普通の会話しか思いうかばなかった。
二人はお互いの自己紹介のようなことを話しながら、中庭を越えて玄関へと進んでいった。
玄関には、古いタペストリーが飾られていた。
西遊記の天竺を思わせる風景の絵には、画面いっぱいの巻いた雲、その中からひょっこりと顔をだす、仔馬に乗ったお釈迦様が描かれていた。 にこやかに微笑むお釈迦様とは対照的に、仔馬はなんだか寂しそうな目をしていた。 仔馬のおでこには、かわいらしい三角形の角がある。
「これはなに? 」飛鳥がそういいかけた時に、またあの香りがした。 懐かしいあの甘い香り…
「チィィィィィィィィィィィィィィン」
隣の飾台に鎮座する阿弥陀如来像の剣山のような後光の飾りが、重ね擦られた刃のように反響し、飾られた仏像のまわりの空気が、うっすらと陽炎のようにゆらゆらと揺れ動く‥‥‥。
周りの景色がゆがんで、前後左右の感覚がおかしくなる。 そして金色の空気で目の前がいっぱいになると、めまいとともに飛鳥はゆっくりと倒れていった。 閉じていく薄目の中で 泣き顔のかのんがだんだんと消えていく‥‥‥。
「ぁぁぁ すぅ ××××‥‥‥ 」
真っ白になっていく意識の中で、誰かの叫ぶ声が遠くの方から聞こえていた。
真っ白いもやの中、仔馬と遊ぶ夢を見た。
なんだか懐かしくも感じるけれど、胸がギュっとしぼられるような夢だった。
仔馬が雲海の上を駆け回る。
飛鳥が一緒に走ると、仔馬は跳ねながら飛鳥の周りを何度も回った。 仔馬が回り続けると雲にはぽっかりと穴が開いて、その穴から二人は一緒になって下界へと滑り降りていく‥‥‥。 するとジェットコースターのように、だんだんとスピードがあがっていって、飛鳥は恐ろしくなってしまい、ついには泣いてしまった。
気づくと、いつのまにか二人は、真っ暗な部屋の中にいる。
仔馬は謝るように首をまわし、たてがみでそっと飛鳥を包むと、仔馬の体温が伝わって、ゆっくりと体がほぐれていった。 飛鳥が頬を近づけると、仔馬の瞳は温かく濡れていた。
そのとき、飛鳥の心臓がドキンと強く鼓動する。
飛鳥が仔馬の首に手を回すと、「うん」とうなずいて、仔馬は飛鳥を連れて、もう一度空へと駆け昇っていった。 ゆっくりと空を進んでいくと、ぐるぐると時間をさかのぼっているのがわかってくる。 そうして、二人一緒で思い出の中をなんどもなんども巡っていった‥‥‥。 楽しいことも、つらい思い出も、だけどなんだか思い出せない。
永遠に続くように、何周もさかのぼるけど、最後はやっぱりお別れになった。
飛鳥の頬に、とめどなく涙がつたう。
「これでいいんだよ」 と、何度も何度も仔馬がいった。
涙にぬれた瞳をゆっくり開けると、保健室の真っ白い木綿のカーテンが、夢の中の雲海のように風に吹かれてゆれている。
‥‥‥「大丈夫かな? 」 救護室の先生のやさしい声で飛鳥は正気を戻していった。
「あなたは、転入生? わたしは、この学校に二十年も勤める大先輩よ。 あ、小学部からいるから、三十六年間になるわね。 この学校の生き字引よ。 院長先生より長いんだから」
先生は、加奈子‥‥‥ 先輩と呼んでといった。 やさしい声でコロコロと笑う。
飛鳥は加奈子先輩に尋ねた。 タペストリーの仔馬のこと。 あの甘い香りのこと‥‥‥。
「玄関に漂っている香りはね、金木犀のお香の香りなの」
この学院では、比較的よく焚かれているお香らしい。
「それとね、あのタペストリーのお釈迦様がのっている仔馬はね、金木犀の香りの中をくぐりぬけて、空間も時間も越えて旅をする、お釈迦様のおともなんだよ。 だからこの学院では、未来永劫にお釈迦様が、生徒みんなを導いてくれるように、いつでも金木犀のお香を焚いているの。 あの仔馬は、この学院の道しるべだといえるわね」
加奈子先輩は、ふくよかな指に、やわらかそうなあごをのせながら、どこか懐かしい目をして答えてくれた。
そのとき、半分泣き顔をしたかのんが救護室の扉を思い切り開けて飛び込んでくる。
「飛鳥! 目をさましたの? もう! 心配したんだから!! 」
赤い目をして、怒っているような安心しているような‥‥‥。 真剣な顔に喜びを含んだ口もとの不思議な表情をしながら、あのときと同じ小さな手で飛鳥の手を『ぐっ』と引くと、こういった。
「さあ、起きて! 開蓮祭がはじまるのよ! 学院堂に行こう!! 」
「えっ?? 開蓮祭ってなに? 」
わけもわからず飛鳥は、かのんに急かされるように救護室をでていくと、加奈子先輩は、「あらあら」 といいながら微笑んで、見えなくなるまで二人を見送ってくれた。
この学校には、地下をくぐる隧道がいくつかある。 ここ数年の生徒数の激増から校舎を拡張する都合で、学院全体が道路をまたぐ造りになった。 小学部の子たちが、校舎の移動のたびに車の危険にあわないようにとの当然の配慮でもある。
よく見ると、薄暗いこの隧道には、地下特有の閉じられた扉がいくつかあった。 さすがのかのんでも知らない部屋たちだ。 閉じられた扉を横目に見ながら、闇の中へと永遠に続いていくような通路を二人は走り抜けていく‥‥‥。
「開蓮祭ってなに? 」 と、息をきらせながら飛鳥がもう一度聞いた。
かのんは対照的に、生まれながらに走りつづけた動物のように、ひとつも息を荒げずに答える。
「わたしたち在校生から、新入生、転入生を歓迎するセレモニーだよ。 今日は、飛鳥のための式だといえるわね」
そういうと、走り疲れた飛鳥のほうにくるりと体を向きなおし、後ろ向きになって飛鳥の両手をつかむと、優しく引っ張りながらゆっくりと歩いていった。 かのんは、にこにこと微笑みながら飛鳥の戸惑う顔を眺めていると、ふいに身軽な体を飛鳥の背中側へとまわし、背中を軽く押した。
「さあ行こう、きっと気に入る」
飛鳥の耳元に顔をよせて、小声でそうつぶやいた‥‥‥。
その先にあるのは、学院堂だ。
白銀糸で彩られた蓮の花の刺繍がいっぱいに施された紫色のベルベットの扉が近づいてくる。
「えいっ」 かのんは力をこめて、学院堂の重いとびらを観音開きで開いていった。
広く、厳かな空間が広がっている。
学院堂には、あどけない顔をした小学部のかわいらしい子達から、高等部六年生の姉さま達まで、前のめりになって座っていた。 瞳を潤ませている子もいる。 みんな真剣な顔をして正面に設えた舞台へと耳をかたむけていた。
舞台中央の壇には大きな仏壇のようなものが見える。 たくさんの花々が供えられ、インドの古い巻物にでてくるような、さまざまな動物、花、精霊のようなものたちの彫刻が施された柱や壁が、ゆらゆらとゆれる蝋燭の光がつくる陰影で不思議な空間をかもしだしていた。
中央の奥には、ふたりの菩薩さまを脇待に、大きな蓮の花の上に乗った仏像が立っていた。 仏像の背中に設えられた放射状の模様がはいった大きな金色の鏡が、大きく見開いた眼のように見おろしている。 それは、この学院堂全体を見守っている阿弥陀如来の瞳を連想させた。
その仏壇の前、学院堂の舞台の上には五人の少女たちが立っている。 その中でも中心に立つ、ひときわ目立つ女性が力強く聡明に澄んだ声で、大観衆に向かって声を響かせた。
「清廉な朝露の中にだけ、出会うことが許されるという水面に浮かぶ真っ白な大輪の華。 その純粋で尊い出会いのように、君たちと私たちはこの学院で見合わせた。 この学院で育まれる友愛は、思いを込めて結んだ念珠の組紐のように、幾重にも重なり、連なり、固く、決して切れることのない絆となるでしょう」
「さあ、胸を張り手をあわせよう」
「御仏の導きによるこの邂逅は、永久に廻る輪の中にーーーー」
そのとき、天井をぐるりとかこむ蓮の花をかたどった欄間のすきまから、一斉に光がこぼれだした。
そのひとは、あきらかに他の生徒たちとは違っていた。
流れるような黒い濡れ羽色の髪。 長身のその姿から伸びる長い手足は、女性らしい体のラインをより一層際立たせていた。
新緑の燕尾ブレザーの裏地から見えるのは西陣の袈裟文様。 彼女が動くたびに、織込まれた絹糸たちが、きらきらとライトの光りを反射しているのが遠くからでも見えている。 腰に挿された刀剣のようなものは折りたたまれた真っ白の経板だろうか? そこには沢山の古いお経のような文字が刻まれていた。
そして、襟元には、七宝焼きの大輪の白い蓮の花の印が輝いている。
「さあ、飛鳥も、御鏡をだして」
そういうとかのんは、ブレザーの脇の第二ポケットから、銀のチェーンで繋がれた、ちょうど小さな懐中時計のような銀色の手鏡を取りだした。 表面には大輪の蓮の花が刻まれていて、コンパクトのように開くと美しい鏡が現れる。 仏教的なお守りとして、それと女性的な身だしなみのためにと飛鳥も入学のときに揃えたものだ。 まわりをみると、どの学生も鏡をだして準備をしている。
壇上のそのひとは、左手をあげた。
左手首からのぞく白金剛の珠数珠がゆれる。
取り付けた鈴が「リン」と涼やかに、それでいて遠くまで響くように鳴った。 その瞬間、舞台上の欄間からの光が溢れ出して、後光のように彼女を照らしだす。
「いざ、光‥‥‥」
その言葉と同時に、学院堂に集まる生徒たち全員が、自らの手鏡を使って、学院堂全体を囲む欄間のすきまからこぼれる陽の光をあつめる。 そして舞台奥の仏像の背中にある金色の大鏡に向かい光を反射させた。
『摂取の心光、つねに照護したもう』
そのひとが言葉を発した瞬間、舞台中央に集まった金色の強い光に包みこまれ、壇上の五人の少女たちが光の中に溶けるように消えていく。 同時に大鏡からも反射された光が黄橙色の光の渦となって学院堂全体を飲み込み、荘厳な、それでいて優しくゆっくりと巻き込むような、神々しくも暖かな空間に満ちていった。
頭の芯まで眩むような、強い光がゆっくりと覚めていくと、そのひとの涼やかな通る声がこだまする。
「ようこそ 一刻台女学院へ」
「キャーーーーーー! 」
黄色い歓声を合図にして、マンドリンの大合唱がこだました。 琵琶のかたちの楽器が、シルクロードに思いをはせる民族的な調べを奏でている。 白いローブを着た合唱隊の少女たちも歌いした。 独特な韻の歌だ。 ところどころにお経のような歌詞が入るサンクリットの魂のゆらぎ、これは、何を称えた歌なのだろうか? しかし心を躍らせる不思議なフレーズだ。
学院中が熱狂に包まれる。 いつになく、かのんも興奮気味だ。
「キャ~! 咲耶花様よ! 西園寺咲耶花さま。 白蓮会の第百二十代会長! 」
「学院みんなの憧れのひとなのよ!! 」
この学院では、生徒会を白蓮会と呼んで、学院内で絶対的な権力を持っていた。 全生徒を守り、導く姿は、同時に尊敬の対象でもある。
かのんがキラキラとした瞳で語る。
「わたしも、白蓮会を目指しているの! だって素敵じゃない? 」
「四年生の一学期のあいだまでに、白蓮からの推薦状をもらうことができれば候補生になれるといわれているわ! それにはね。 学院内外で、いかに生徒たちの手本となる行動ができたのかを認めてもらうことなの」
「推薦状とはね、初夏の朝もやの中、花開く睡蓮の前で行われる、お茶会への招待状なんですって!! 」
なるほど、春休みのあの大事件は、白蓮会への推薦状のための行動だったのだ。 かのんにそういうと「やりすぎちゃダメね」 とペロリと舌をだした。 照れたようなその姿をみたときに、飛鳥はなぜだか胸がドキッとして、耳までが赤くなっていった。
そうして、揺れるような喧騒が通りすぎたあと、二人は教室に戻っていった。
教室に戻ると、朝礼に出席をすることが叶わなかった、飛鳥の遅れてしまった時間をとりもどすかのように、かのんはクラスの先輩として一人ひとりのクラスメイトを、それはそれは親身になって紹介をしてくれた。 このクラスの転入生は、飛鳥ともう一人だけだった。
もう一人の少女は、少し伏し目がちの表情を見せながらも、明るく振舞っていた。 たまに見せる、どこかはかなげで可憐な瞬間が母性本能をくすぐる。
「飛鳥さん。 二人だけの転入生なのだから、どうか仲良くしてね」
そういうと彼女は、たれ気味の大きな瞳を少し潤ませ、睫毛を伏せた。 入学を機に新しい自分になろうと勇気をだしてはみたが、切りすぎってしまったという彼女のベリーショートの毛先が、窓から入り込む風にさらさらとなびいていた。
「わたしだっているんだから、まかせなさいよ! 」
かのんが胸をたたいた。 こんなときは本当に頼もしい。
彼女の名前は、『清松 ここな』。
かのんいわく、あのCMでも有名な、薬局チェーンのキヨマツタケシの娘だという。 さすが白蓮をめざすだけあって、転入生のこともなんでも知っている。 なかなかの情報通だ。
キヨタケの創業者といえば、あの待時駅での事件にいた新市長その人である。
良い考えが浮かんだといわんばかりの顔をして、かのんがあることを提案してきた。
「そうだ、こんどの土曜日の夜、三人でパーティをしない? 三人の出会いを祝して、夜が明けるまでいっぱい話しをしようよ。 深夜のパジャマパーティってやつね」
かのんが、こんなにもこの転入生たちに入れ込むのは、好奇心という名の原動力だけではない。 二人の、このかわいらしい異分子たちとの化学反応が、長い間この学院だけを拠り所にしていた彼女にとっても、新たなスタートの起爆剤になることを直感させていたからだった。
いや、それ以外の感情があったのかもしれない。
「でも、出会ったばかりでいいのかしら? 」
あまりこのようなことに参加はしたことはないのだろう。 戸惑いながらも、ここなの伏し目がちの目が興味のきらめきを放つ。
「だからやるんじゃない? キヨココは、行く前からホームシック? 」
かのんが軽口で答えてみせた。
「もう! なにそのあだ名! 」
ここなは、照れながらも思いっきりの笑顔を見せながら、軽くにぎった左手をもちあげた。 かんなの持ち前の天真爛漫さが、出会った人を変えていく瞬間だ。
「キヨタケの娘なんだからキヨココでしょ? とうぜん飛鳥はオッケーよね」
飛鳥に反論などあるわけもなく、即答で返した。
「じゃあ、ボクの部屋でどう? 」
「「「いいねーっ!」」」
三人の頭の中は、土曜日のメニューでいっぱいになった。
「駅中のガルガンチュワで、大好きなアールグレイのお茶を買って‥ 」
「お気に入りの。ジェラーティのパジャマをもって行こう‥ 」
「ポンヌッフのプディングに、FLAPのフルーツタルト! 」‥‥‥。
三人は、出会いの前の時間を埋めるように、夜を通して語りあおうと誓いあった。 飛鳥はかのんに聞きたかった、あの日の土手での出会いのこと。
その日のカリキュラムも終わり、終業の鐘がゴーンゴーンと五回鳴った。
ホームルームを終え、軽く身の回りを掃除すると、バス停の前まで、飛鳥、かのん、ここなの三人でおしゃべりをしながら歩いていった。 かのんのバッグに着けられた小さなウサギのマスコットが、持ち主の心を映してかピョンピョンとはずむ。 そしてバス停の前の古い井戸までつくと、それぞれの帰路へと別れながら挨拶を告げた。
『また明日! 』 『また明日‥‥‥ 』
飛鳥は希望に満ち満ちた、本当の明日がやってくることを直感で感じていた。 期待に膨らむ胸の奥に、さわやかな春の風が強く通り抜けていった。
帰路の中、さすがに飛鳥もこの日の出来事のめまぐるしさに、少し疲れをみせた。 そんな時に頭をよぎったのはあの場所だ。
「よし、癒されちゃおう」
飛鳥は、駅むこうの街道のペットショップへの寄り道を計画した。
昔、大名行列が通ったという古い宿場街道に大きく居を構える『ペットキングダム』。 昔ながらの古い町並みがならぶ、この地域に不釣合いにならぬよう、気の利いた茶色の格子でコーディネイトされた、一見して庄屋の屋敷のような見た目をしている。 自動で動く引き扉をくぐり、中に入ると外観とはうって変わって現代的で清潔な明るい空間が広がっていた。
ガラスケースやケージの中で、レトリバーやミニチュアダックス、ポメラリアンに豆芝‥‥ それに、マンチカン、ベンガル、ペルシャ‥‥‥。 さまざまな子犬や子猫たちが、自由きままに遊んでいる。 中央のガラスケースには、初めて名前を聞くような珍しい巻き毛の猫がすやすやと寝息をたてていた。 飛鳥の目当ては、ペットフードコーナーの奥にある、空調で完備されたガラス張りの一室。 小動物のコーナーだ。
入ったとたんに、極彩色の鮮やかな衣をまとったオウムが、南国の言葉で出迎えてくれた。 いつもながらに、そのけたたましい甲高い声に飛び上がってしまう。 その先のケースには、飛鳥の大好きなあの小さな生き物たちが待っていた。 ジャンガリアンに、ロボロフスキー、ゴールデンハムスターにキンクマ! 飛鳥は、この小さな毛まりたちがそれぞれの魂で、それはそれは一生懸命に生きていくさまに毎度感動を覚えていた。 仲間どうしでひしめきあって、小さな寝息をたてている、そのけなげな共同体を何時間でも見ていたいと思っている。
「あー かあさんが、動物アレルギーじゃなかったらなぁ」ついつい言葉がもれる。
そのとき、飛鳥の後頭部にやさしい違和感が走った。
「も も モフ 、モフ‥‥‥ 」
和ろうそくのような白くしなやかな指が、飛鳥のウェーブがかかった髪をもてあそぶ。
「 !! 」 飛鳥は、なにが起こっているのかわからなかった。
飛鳥がゆっくり振り向くと、くしゃくしゃになった目をした女性が後ろにしゃがみこんでいた。 そのひとはおもむろに正気を取り戻すと、顔を真っ赤にしてこういった。
「そ、その制服は、一刻台女学院のものですね。 が、学則で寄り道は禁止のはずです! 」 とりつくるように、厳しい顔を見せてはみたが、だんだんと顔がゆるんでくる。
「やっぱり、モフモフだぁ‥‥‥ 」
さっきとは、うって変わって声がうわずる。 そういうと、たえられずに飛鳥の髪をもしゃもしゃとまさぐりながら、やわらかな胸にその頭をひきよせた。 フワっと春の花束に囲まれているような、爽やかで温かい香りがすると、 飛鳥は、びっくりとすると同時に、なぜだかここちよさに目が細くなっていった。
そう、そこに立っていたのは、白蓮会第百二十代会長、西園寺咲耶|花、そのひとだった。 咲耶花は、自ら起こした衝動的な行動から、ふと我に返ると顔を赤らめながら、そそくさと小動物コーナーを出て行ってしまった。
飛鳥は、一瞬の出来事に目を白黒させると、そのときまた、あの極彩色のオウムが甲高く室内中に響き渡る大声で叫んだ。
「グラァァッシアス! アスタ マニャアーーナァーーー!! 」(良いモノを見せてくれたネ! アリガト!!) 飛鳥は背筋をただすように、ビクッと大きく身構えた。
飛鳥が動物たちとの癒しの時間を終え『ペットキングダム』を出ると、西園寺咲耶花が出口で待っていた。
「ごめんなさい。 わたしもあの店に寄り道しちゃった。 同罪ね。 同罪ついでに、ケーキ屋さんに付き合って。 おごるわよ」
咲耶花は、ウフフと笑い、「秘密ね」 といいながら、三日月型に微笑んだ薄桃色の唇に指を押し当てた。
待時駅南口に構える、蔦のからまる古風な喫茶店『ツァラトゥストラ』は、玄人好みのケーキで有名な店で、ちょっぴり大人の味のビターチョコレートケーキが自慢の一品だ。 二人は『ツァラトゥストラ』の奥の席に向かいあわせに座っていた。
「あなたは、転入生ね? あまり見た顔でないもの」
ロイヤルミルクティに砂糖をひとついれながら、咲耶花は語りかけてきた。
「最近ね、学院の周りや通学路で生徒が不審者に声をかけられる事件が増えているの。 まぁ、いまのところ根掘り葉掘り、学院のこと、生徒のことを恐喝まがいに聞いてまわっているだけなんだけどね。 大事件につながらなければいいのだけれど‥‥‥。 あなたも気をつけてね。 なにかあったら必ず白蓮会に連絡して。 あなた達を守るのが私達のつとめだから」
「だから、今日も、こんなところまで見回りにきているんですね。 白蓮会って本当に学院や生徒のことを見守っているんだ。 友達も候補生になりたいっていっていたけど、ボクもなんだか憧れちゃうな」
紅茶に注がれた、たっぷりのミルクをかきまぜながら、飛鳥の口から言葉が自然とこぼれた。
「ウフフ‥‥‥。 でも、この駅にきたのはそれだけじゃなくてね、あのペットショップや、この店もお目当てだったの。 疲れちゃうときもあるから‥‥‥。 ね」
咲耶花は、いたずらっこのように薄く巻いたチョコレートを舌にのせながら、上目づかいでウィンクをした。
昼の学院堂で見せた、聡明で凛々しいあの時のひとが、目の前でこんな顔をすることがあるのかと、飛鳥は親近感がない交ぜになって、さらに強い憧れの気持ちと、恋にも似た不思議な感情を覚える。 飛鳥は、おそろいで頼んだ、ビターチョコレートケーキを、そっと口に運ぶと、そのほろ苦さに胸がグッと押し付けられた。 なんだか同級生よりも少しだけ大人になった気分がする。 そんなことを考えていると、これ以上、咲耶花の顔をまともには見られなくなっていた。
咲耶花も多くは語らず、聖母のような微笑みをしながら見守っている。
そして、『ツゥァラトゥストラ』のアンティークの柱時計の音だけが、セピア色の空間に響き渡っていた。
なんということはない会話を終えて、チョレートケーキの最後のひときれを口の中で溶かし、アールグレイのロイヤルミルクティーで流したあと、咲耶花はこういった。
「また、会いましょう。 今日は縁が二人を見合わせました。 必ずまた、お互いを引き寄せる時がきます。 そのときは、ともに学院のために歩んでいきましょう」
入り口をでると、外は夕暮れで真っ赤に染まっていた。 道行く人波みの中で、咲耶花は、胸にあてた右手を拝む形にすると、爽やかで張りのある声で敬礼をする。
「今日のことは、どうかご内密に! 」
夕暮れに照り返すその顔は、太陽のような大きな笑顔になっていた。
その夜、飛鳥は今日あったことを反芻しながら布団についた。 薄紫色のまどろみの中で、思うのは、かのんのこと、ここなのこと‥‥‥ そして、あのひとのこと。
明日のこと‥‥‥。
めまぐるしい朝とともに、飛鳥の次の一日が始まった。