クライス・ナルジスの記憶
天牢院輝夜として生きてきた俺がクライス・ナルジスという別の世界の人間の記憶を取り戻したのは、つい最近のことだった。
ナルジス国はそこまで大きくもない国だった。
隣国のシルフィード皇国の、所謂属国である。
第一王子として産まれた俺は、十歳までシルフィード皇国に人質に出されていた。そこで俺は皇国の三人の娘たちに玩具のように扱われ、人生に絶望していた。
人質なんてものではない。三人の姫が玩具を欲しがったから隣国から適当に見繕って連れてきた。その程度の存在だった。
痛いことも屈辱的なこともひととおり行われ、呪法の実験台にもされた。
シルフィード皇国は魔術師の多く産まれる国だ。皇国はその力でもって国力を大きくした。
ナルジス王国にはないものである。魔術を応用した呪法も、ナルジス王国には存在しない。
それは人を生贄に捧げて行われる力の強い魔法だった。
その中でも蟲毒と呼ばれる呪法は、狭苦しい壷の中に人間と百匹の蟲を入れてお互いを食い合わせると言う最低なもので、それでできた呪いは強大で時には何人もの人間を呪い殺すことがあった。
王子になど産まれてこなければ良かった。後悔する日々の中で、一度だけ逃げる機会があった。
シルフィード皇国の姫たちが海が見たいと駄々をこねたのだ。シルフィード皇国は内陸にあって海には面していない。
ナルジス王国のマヨルカ侯爵領は美しい海のある領地だと評判で、姫たちは俺を連れてそこへと向かった。
護衛兵を連れながらお忍びで街を歩く三人の姫は、事情を知らない人々から見れば美しく害のない愛らしい少女たちに見えただろう。
しかし実際は人を人だとも思わない非情な女たちだった。
明るい日差しと活気ある人の声。人混みの中で、気が緩んだのかもしれない。気付けば俺と姫たちの間には距離が空いていた。
逃げられるかもしれないと思った。
鎖に繋がれている訳でも、手枷があるわけでもない。逃げられるかもしれないと思うと同時に、俺は姫たちの進んでいく方向とは反対方向へ一目散に走りだしていた。
十歳の俺にできることなどほんの少ししかない。けれど、このままずっと人質に取られて玩具にされるのなら、海に飛び込んで死んだ方がましだと思えた。
死を選ぶ前に、逃げてみようと思った。連れ戻されてたとしてもきっと殺される。だとしたら、自分で死を選ぶのと同じ。一度ぐらいは抗いたい。
マヨルカ侯爵領の街など来たことはなかったので、どこをどう走れば良いのか分からなかった。
息が切れ、足が縺れて、俺は座り込んだ。
絶望的な気持ちで座り込んでいた俺に話しかけたのは、両手に沢山の食べ物をかかえた少女だった。
「どうしました、あなた。どこかの奴隷市場から逃げてきましたか?」
首を傾げながら少女が言う。
銀色の髪を持った妖精のように愛らしい少女は、口の中にもぐもぐと何かを入れて食べているようだった。
「……いや、違う」
「じゃあどうしました。あ。たまには城下に降りて下々の生活を見てみようかなぁと思ったら迷子になった王子様ですか?」
「……それも違う」
「そうですか……、もしかして、困ってます?」
少女は残念そうに言って、それから心配そうに俺を見た。
巻き込んではいけない。
分かっているのに、俺は――助けを求めてしまった。
「追われている。……王都に帰りたい。だが、足がないんだ」
「なんだ、そんなことですか。それではマヨルカ侯爵家の飛竜で送ってあげましょう」
少女は俺に手を差し伸べた。
俺の事情も何一つ聞かずに俺をマヨルカ侯爵家に連れ帰り、彼女の両親に頼み込んで王都へと送り届けてくれた。
マヨルカ侯爵は俺のことを知っていたのだろう。
涙を流しながら「よくお戻りになった」と言って、自分の身を顧みずに救いの手を差し伸べてくれた。
少女の――ソフィーナの兄、ノクス・マヨルカだけは、物陰から俺をずっと睨みつけていた。
王城に戻ることができた俺を、両親は二度と皇国には渡さなかった。
皇国から何度か手紙が来ていたようだけれど、全て握りつぶしてくれた。
両親は俺に何度も謝った。俺の傷だらけの体を見て、何があったか察したのだろう。
それから十数年。失われた十年を取り戻す様に王としての教育を受けなおした俺は、国王に即位するにあたりどうしても――あの時助けてくれた少女、ソフィーナを妃にしたかった。
何度か手紙で打診したが、全て兄のノクス・マヨルカが握りつぶしているようだった。
やがて父が病気で亡くなり俺の即位が決まった。
三人の姫のうちの一人、エリス・シルフィードが俺の部屋に現われたのはそんな時だった。
実体のない幻のような姿をしたエリスは俺に言った。
「とても男らしく、美しく成長したわね、私のクライス。覚えているわよ、あなたを逃がした女を。私を妻へとむかえなさい。そうしなければ、ソフィーナを殺すわ」
「……断る」
「良いのかしら。ソフィーナ・マヨルカは死ぬわよ。まぁでも、あれは私のクライスを逃がしてしまったから、どちらにしても死ぬわ。そうね。この提案は間違っていたわね。どうしようかしら。それなら、私を妻にしなければあなたの国を滅ぼしましょう。それが良いわ。ソフィーナは死ぬ。それは決まり」
焦りを感じた。
エリスを娶るのは嫌だ。吐き気がする。俺はソフィーナを愛している。
多分あの兄も、兄妹でありながら妹を愛しているのだろう。俺と同じ感情を持つ者だ。同類嫌悪という言葉がある。確かにその通りで、俺はノクス・マヨルカを嫌悪し、同時に理解することができた。
ソフィーナを守らなければいけない。
そのためには手元に置かなければ。
長くシルフィード皇国に人質にされていたせいで、呪法の知識は多少ある。
あれは、力は強いが範囲が狭い。皇国からナルジス王国の誰かを呪法によって殺すことはできない。距離が遠すぎるからだ。
だとしたらソフィーナは手元に置いていた方が安全だろう。俺が守ると強く思った。
俺は王家からの勅令として各家に手紙を出し妃選びを行うためにソフィーナを呼び寄せて、そのまま城へと閉じ込めた。
ソフィーナは俺のことなどまるで覚えていなかった。
腹立たしさと愛しさが綯交ぜになり、エリスのこともあって上手く打ち解けることができなかった。
けれどソフィーナは明るくあまり深く物事を考えない人で、ろくに話をしない俺を受け入れて、寄り添い一緒に眠ってくれた。
全てが終わるまではと思い、清い関係のままだったけれど、俺は満たされていた。ソフィーナが傍に居てくれたら、それ以上は何もいらないと思えるほどにソフィーナを愛していた。
皇国からエリスが無理やり嫁いできたのはそのすぐあとのことだった。
エリスを誘きよせて、殺す。
そう思っていた俺にエリスは言った。
「私を受け入れなさい、クライス。ソフィーナを殺されたくなければね。まぁ、そのうち殺すけれど、少しだけ猶予をあげるわ。私、人の苦しむ顔を見るのが大好きなの」
エリスはソフィーナを幽閉塔へと入れた。
そして自分は正妃のように振舞い始めた。何度か殺そうとしたが、エリスを突き刺した刃は彼女の体を貫かず、その代わりに使用人や従者に刺さり死んだ。呪法なのだろう。
エリスをどうやったら殺せるのか、俺は毎日考えていた。
ソフィーナが幽閉塔からいなくなったのは、そんな時だった。
深い森の中で、ソフィーナは死んでいた。
森の中を探し回った俺は、彼女の亡骸を抱え上げるノクス・マヨルカと出会った。
「……ソフィーナは、死んでしまったよ。全てお前のせいだ。……でも良いよ。僕とソフィーナは兄妹で、今生ではどのみち結ばれなかった。……だからね、クライス。シルフィード皇国で、僕も呪法を覚えてきたんだよ」
暗い笑みを浮かべてノクスは言った。
ノクスに抱えられているソフィーナは、まだ息があるように見えた。
「ノクス、ソフィーナはまだ生きている。治療をすれば助かるかもしれない……!」
俺の言葉に、ノクスは首を振る。
「助からないよ。だって、今から僕が殺すんだから」
ノクスはそう言って、抱き上げているソフィーナの心臓に徐にナイフを突き立てた。
零れ落ちた血が禍々しい魔法陣を作り上げる。
ソフィーナとノクスの体を魔法陣から伸びた光が包み込む。俺は手を伸ばして、魔法陣の中からノクスを引きずり出そうとした。
ソフィーナの体が魔法陣の中に呑まれていく。
中途半端に魔法陣から引きずりだしたノクスの体も、深い穴に呑み込まれるようにして、魔法陣へと引きずりこまれる。俺はノクスにしがみ付くようにして、ソフィーナの後を追った。
何が起こるのかは分からないけれど、次は必ず、ソフィーナを守らなくては。
エリスからも、ノクス・マヨルカからも。
――そうして俺は、天牢院輝夜として生きていた。
記憶を取り戻したのは多分、月夜が、ソフィーナが死んだ年齢に、十八歳になったからだろう。
なんとしてでも見つけだし、どんな手を使ってでも傍に置かなくては。
呪法を学び、人を殺してでも、ソフィーナを手に入れる。
クライス・ナルジスはそれができなかった。
天牢院輝夜なら、きっとそれができる。
月夜はソフィーナのように俺の元から逃げない。そう、信じたかった。だから、試したのに。
けれど再びソフィーナは俺を裏切り、ノクス・マヨルカと共に逃げた。
俺は呪法を使い、叶エリカを殺した。呪法に使った死体と、叶エリカの死体は適当に捨ててきた。
手に入らないのならノクス・マヨルカのようにもう一度繰り返せば良い。
月夜を殺し、もう一度産まれなおせば良い。
――きっと次の世界では、ソフィーナは、月夜は、俺を愛してくれるだろうから。




