告解
次で最後です。
傘が閉じられる。女は既に下を向いている。長い髪が顔側に落ち、表情はわからない。
しばらくの沈黙の後、彼女が口を開いた。
「それが出来ないから、一緒に死んでほしかったのに」
何も答えられない。彼女の事情は、初めて来たときの母親の話から大体、推察できていた。
「男ってのはいつもそう。自分の都合で女を傍に置こうとする」
目の前の彼女は涙を流していない。だが、常に彼女は私の前で泣いていた。涙を浮かべて、望憶の彼方の誰かと、その楽しかった記憶を見ていたのだ。その目が、あの霜月の日、稽古場で初めて私を見た。私の心の奥にある、彼女と同じ孤独の悲しみを見つけて、それで喜んだのだ。
「貴女のお母様が言っていた能を習いに来た理由・・・・」
彼女の母親がまず、私に言ったのは、彼女の体調が思わしくないこと。稽古を長く続けるのは無理かもしれないということ。それでも、せめて能くらい娘にさせたい、という母親の良家意識。結婚を控えた女性にはよくある話だが、彼女の場合はまるで死に土産のような言い方だったのだ。
「お母様への孝行ですか」
欄干に腰を掛ける彼女へ言葉をかける。この場には、ふさわしくないかもしれない話題とは思う。しかし、私と彼女の関係は、能の師弟関係、しかも御月謝でつながっているだけの、他人から見れば、ただそれだけの繋がりしかないのだ。その根本を聞かずにはいられない。
「・・・始めはそうだったわ」
ぽつりと言葉が漏れる。それはいつもの気取った声音でも言葉使いでもなく、実に自然に肺と心の奥底から吐き捨てられた声だった。髪を下した彼女の顔に、美しい狂気は既にない。
「家が厳しくてね。あんな格好はするな、とか、そんなところへ行くな、とか。何かあったら駄目駄目駄目ってうるさくてね。それなら、同じような子が集まる私立に行かせてくれたら良かったのに、女は受験しないと化粧が上手くなるだけだって、公立の受験校に入ってね。朝から晩まで勉強だった」
今、目の前にいる彼女は、彼女が表に出さなかった彼女だ。人前には出せず、高潔に、気丈に振る舞ってきた彼女の見られたくなかった部分。
「やっと大学に入ってね。褒めてもらったわ。たくさん褒めてもらって、やっと自由だと思った。自分の好きなことをして、楽しいことをして、いっぱい遊ぶんだって思ったの」
「でも、わたしが考えていた道は大学までしかなかったのよ。何をしていいかわからない。誰と一緒にいたらいいか、何を頑張って、何を頑張らなくていいか。どうして、同じように学校に入って、後ろ左の人達は楽しそうに男の話をしていて、右前の人はいつも一人でパンを食べているのか、どうしたら普通でいられるのか、わたしは今普通なのか」
口した言葉は止まらない。内から内からとめどなく溢れてくる。彼女の奥底から流れ出てくる。
「そんな時、あの人が声をかけてきた。始めは受けてた講義の事だった。わたしだってわからなかったけど、居場所がなくて前に居たとは言えないから、わかる範囲で一生懸命答えたわ。だって―――だって、大学に入って初めて声をかけてもらった人だったんだもの」
もう、合の手を打つ余地もない。私はただ黙って、肩を震わし過去に目を向けている彼女を見ている。
「それから、その講義ではいつも聞きに来るようになって。見た目は優しそうな人でね、でも意外に冗談が面白いの。楽しくって、その講義は前2列目の端の右から2番目に座ってね、彼の場所を鞄でとっておくの。彼が来たら鞄をのける。わたしのそばに普通に座ってくれる」
「春学期の終わりにはメールアドレスも電話番号も交換して、それで舞い上がっちゃってね。初めての彼なんだもの。親に言われた服を着て、親に言われた時間に帰る、そこから連れ出してくれたの。お母様が怒ったり、お父様の心配した電話を私がとるたび、大変だね、苦労だね、って一緒になってくれてね。親身になってくれて、わたしそれがとっても居心地良くって、彼に連れ出されるまま、あっちこっち行ってね。夢のような時間だったわ」
「大学の中では他の講義で忙しいから会えないっていうもんだから、一緒の講義の時間が大学でのわたしの唯一の場所だった。なんでそんな忙しいのって聞くと、一回生二回生の時に遊びすぎて、って悪びれず言ってね。だからこんな基礎概論みたいな講義今更になって受けてるんだって。なんてわたしは幸運なんだろうって思ったわ」
「大学に入って一回目の夏は、彼が忙しくってね。わたしはバイトなんて許してもらえず、部活もサークルも入ってなくって暇で暇でね。家で犬にちょっかいを出して、飽きたら携帯の待ち受けを見るの。彼と私の映る写真を見て、メールの返事が来てないかチェックする。催促はしなかったわ。彼忙しいらしいから。でも返事が来たら、嬉しくて、すぐに返事したら待ってるのばれちゃうから、少し待つの。でも三分も待てなくて、やっぱり送信してしまうの。彼に呼び出されたら、すぐに向かったわ」
「やっぱり会っても優しくてね。だから・・・強引に迫られてびっくりしたわ。でも大学生だったら当たり前のことだよって言われて。この人にならいいかと思って。それで――― 許しちゃってね。驚くことがいっぱいで。もうホント驚くでしょう、わたしの馬鹿さ加減に!」
いきなり声が荒くなる。白い息が勢いとともに広がり浮かんで消えていく。
「何回か呼ばれて言われるままにされて。知識は合ったわ。中学でも高校でも習うもの。それがどういう結果に繋がるのか、どんな危険性があるのかも理解してたわ、でもね。自分がどれだけ寂しくておかしくなってたかは理解できてなかったのよ。冷静になって考える時間もあったわ。変だなって思うこともあった。なのに、嫌だった。もう一人で、大学で過ごして、あの家に帰って、明日も一人なわたしを見つめて寝るのは嫌だったのよ! 家で揉めたって打ち明けられる人もいない。家を出て温めてくれるのは、皆に優しい太陽だけ。わたしは自分だけを包んでくれる人がほしいの。誰にでも都合よく優しい奴なんて、もう見たくもないわ」
吐き捨てるように心の内を吐露する女の声が、夜の寒い空気に染みていく。遠くの月がなお冷ややかに冴えわたる。
「結局、夏が終わって彼の正体がわかって夢から覚めたの。彼の正体はね、単位が足りなくて留年してる口先だけの馬鹿男でね。唯一の取り柄の他人の言葉にいくらでもうなずけるってのを活用して、4人もたぶらかしてた屑だったの。面白いことにね、私が見下しながら妬んでた左後ろの連中は、そのことを先輩筋から聞いててね、男の正体はとっくにわかってたの。わかってたのよ。わたしが「あれ」に楽しく夢を見せられているのを馬鹿な女と眺めて、笑ってたのよ!」
大学には色んな人間がいる。小中高というクラスの中ではすぐに知れ渡る悪評も、在って無い様な大学という囲いの中では中々広まらない。大学の情報は何事もそうだ。知ってる人は知っており、知らない者は馬鹿を見る。
「もう学校にも居てられなくてね。そのまま大学やめちゃって。人間不信になっちゃって。よくある話らしいわよ、そうお父様が言ってた。そのままお父様の傍で仕事の手伝いをするようになってね。それからはお父様優しかったのよ。もう見違えるように優しくてね、まるで腫れ物に触るみたいに――― それでも良かったわ。だって以前よりずっと家の中は過ごしやすくなったし・・・お母様は相変わらず厳しかったけど。家の中にずっといることの何がいけないのよねぇ」
母親は母親で心配し、父親は父親で思いやったのだろう。しかし、子は子で思うことがあるのだ。
「そのうち、お父様のお供で会社に行くようになってね。会社の人、みんな優しいの。そりゃそうよね、だってお父様の会社なんだもの。それが嫌でね。人にそんな理由で優しくされるのが嫌で、ものすごく頑張ったわ。寝る間も惜しんで、お父様に与えられた仕事をこなしてね。どんどん仕組みも覚えてね、自分の仕事に絶対ミスが無いよう徹底的に確認して、秘書さんに出してね。秘書さんたら、怖い顔の人なんけど、私をお父様と同じくらい認めてくれたわ。すごい根性のある子だ、さすが社長の娘さんだって。そういう風にお父様の子って言われるのは嬉しいのよ。だって、会社を立ち上げて大きくしたのはお父様なんだもの」
彼女の様子はまるで子供の様だった。いつもの屈折してひねり出す知的に弄った言葉は一切なく、社会に出て働いている人の口調とは思えない程に、柔らかくまっすぐで細かった。
「そうやっているうちに結婚話が来てね。会社内で私より少し年上だけど良い役職についている人でね。わたし知らなかったんだけど、秘書さんも知ってる人でね、ぜひって勧めてくるの。会ってみたら如何にも堅物そうな、感じは悪くないけど、声をかけにくそうな人でね。でも話してみたら面白いのよ。素っ頓狂なことを突然言うの。きっと、もてない人なんだろうなって思う」
彼女の瞳がじっと私を見つめる。なぜか私を見ているようで違う人を見ているような変な感じがする。彼女が笑っている。
「でも向こうも私を気に入ってくれたみたいでね。わたしの事情を知って、それでも良いって、わたしが良いって言ってくれて。縁談がまとまるところまで行ったのよ。今度こそ幸せになるんだって思った。いいえ、あの時が一番幸せだった。だってそうでしょう、一度落ちたものが再び上がっていくのは、始めに浮かれていた時とは比べ物にならないわ。
そこでね――――病気が発症したの」
当たり前のことを、ただ過ぎ去ったことを言うだけの調子で彼女は続ける。
「性の病気ってね、他のは知らないけど、わたしのは潜伏期間が長くって。『あの時』は全然気づかなかったの。具合が悪くなって、病院に行ってわかったのが去年の冬だった」
「お話はこちらから断ったわ。お父様とお母様と、わたし。だってね、だって、そうでしょう。あんな、他の女なんか知らない、わたしだけに全てを捧げようとしてくれた人に、病気が移るかもしれない女と一緒になれって言える? 無理よ。わたしが嫌よ、あの人にそんな迷惑をかけるの。それに―――捨てられるもの。だからね、わたしから言ったの。みんな断ってほしそうな顔をしてたの。言うしかなかったのよ」
もう涙は出ないらしい。しかし、私の目に映る彼女の姿は泣いていた。大事なものを奪われた母猿が腸を断つほどの悲しい慟哭が、彼女の静かな声に包まれて川を渡っていく。
「それからは、もう仕事も辞めてしまったわ。会社にも居られないし、お父様に迷惑かけるし。秘書さんだけは、元気になったら、また手伝って、って言ってくれたわ。良くも悪くも、始めから最後までわたしの仕事だけを評価してくれたのは、あの人だけね。でも、もう何もできる気がしなかったの」
「始めは薬を飲んでた。おかげで普通の人と同じように暮らしても大丈夫になったわ。でもね、人間が生きるにはそれだけじゃ足りないのよ」
人が生きるというのは、生物として生きるという意味では使われない。何かに自分の能力を生かすことを言う。
ひとつでいい。仕事でも、学業でも、子育てでも、趣味でも、何でもいいのだ。何かに自分の存在を見いだせるのが生きるということだ。だから、一生懸命生きた人間の挫折した慣れの果ては見るに堪えない。
「鯛焼きの皮・・・・まるでわたしみたいだった。中身が無くて外だけ綺麗に焼け焦げて。もう中身は無いのに何でって・・・・」
せっかく奢ってもらったのにごめんなさい、と謝られる。
「半年くらい前から薬を飲むのを辞めてね。疲れちゃった、死んだまま生きるのに。そしたらね、母がせめて最後に習い事をしなさいっていうのよ。始めは嫌だって抵抗したんだけどね、あの人頑固だから、わたしが折れちゃって。母の知り合いに紹介してもらって、あなたの所に来たわ」
それが長月の始め。夏闌けて秋の訪れた、あの紅葉の日。
「初対面の人に綺麗だとか、中身は鬼だとか言うなんて、信じられないくらい社交性のない人だと思ったわ」
裏表のない苦笑を浮かべて、再び私を見る。でも、彼女の瞳に映っているのは私ではない懐かしい誰かだ。
遠くの、暦的には最近でも、彼女の人生の中ではずっと昔の誰かなのだ。
「興味がわいてね。能ではなく、あなたと会うために足を運んだわ。お母様もお父様もびっくりしててね。このまま病気も治るんじゃないかって期待したりしてね。辛かったなぁ」
親の期待は、いつも重い。裏切っているとなれば更に重く、罪悪感に涙が出そうになる。
「あなたに誘われるまま能も見に行って。楽しかった。家が辛いから出たいっていうのもあったけど、あなたが面白かったのよ。まっすぐに狂ってて」
私は何も言わない。ただ彼女の言葉をきく。
「あなた言ってたわよね、狂ってる人ってのは、何かを思うあまり周りとずれてしまった人のことだって。それって一生懸命生きてる人にはありがちなことなんじゃないかしら。一生懸命になると、寝ても覚めてもそのことをしたくなるでしょう。周りを気にして努力をしないなんて馬鹿らしいじゃない。結果や他人の評価がどうであれ、何かを懸命に見つめてる人、見つけることができた人が生きてる人なのよ。所詮あなたの前のわたしは生きるふりをしていただけの女。狂う土台にすら立っていない。わたしの前のあなたは昔の私。だから、どうしても目が離せなかった」
もし私が狂っているというのなら、世の中は物狂いで溢れかえっているのだろう。
大なり小なり、人は皆おかしいものだ。しかし、狂い続けられる者は恐らく―――一握りだ。
「でもね・・・でも思い出すのよ。昔のわたしが重なって、昔のことが思い出されて、改めて気づくの。わたしの中にはもう何もない。たとえ火種が起こっても何かを燃やす為の薪がない。あるものは、みんな切り崩して燃やしてしまったわ」
狂うというのは夢を見るに同じだ。
しかし、人の夢は儚い。夢が覚めても残るものがある方が珍しい。
「この病気、いつ死ぬかは知らない。でもね、もう長くないのはわかるの。わたしの人生だもの。わたしが死ぬと決めた時に死んで何が悪いの」
誰に悪いというのか。彼女は結局のところ個人だったのだ。
親も恋人も、先生も、彼女の孤高な魂を支える柱にはなりえなかった。
彼女は一人で生きた。一生懸命生きたのだ。
「・・・・ねえ、最後に何か教えてくれないかしら。わたしみたいな馬鹿な女にふさわしい謡を。だって能は人間を語るんでしょう。わたしが人間なら、わたしを語る能もあるはずよ」
そう言って私を見る彼女の姿は街燈に濡れるようで、闇の中に白く輝いていた。