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物狂い  作者: ヤマシモユタカ
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9/9

江口

終わりです。

補足有。

あるところに江口えぐちの里という遊女の宿場があったそうだ。川の近くとのことで、船遊びなどもあったらしい。西行さいぎょう法師という有名な歌人が、そこの遊女と和歌のやり取りをしたことで知られている。大層、賢い女性だったそうで、西行法師はしっかり言いくるめられてしまったそうな。


 季節は廻って春。今日も花見客の喧騒が絶えない中、私は稽古場前の川のほとりを歩いている。御召の着物姿に萌黄の和傘を差す姿は大陸の人(中国人)の目を引くようだが、知ったことではない。

だが、同郷の人(日本人)も怪訝な顔をして私を見る。恐らくは黒紋付の羽織に仙台平の袴まで履いた男が、イヤホンを付けているのが珍妙な取り合わせに見えるのだろう。だが、知ったことではない。手には薄緑に光るICレコーダーを持っている。彼女から送られてきたものだ。


今日の葬儀には出席させてもらえなかった。あの橋の上での逢瀬の後、帰ってから急に体調を崩したらしく、すぐに入院したそうだ。その直前まで寒空の下、一緒に居たのが私であれば、出禁を食らっても仕方がない。


いつの間にか川を大きく出でる橋の下を過ぎ、中流も終わり半ばだ。目的の場所までは未だ遠く、川を隔てた左右の桜並木は咲きも残らず散りも始めず、といった具合である。もっとも、桜というのは軽薄な花で、ちょっと風に誘われただけで、あっという間に花びらを散らす。少しは秋の紅葉を見習ってほしい。


両親は必死に延命を試みたらしく、特に父親の様子は悲惨だったようだ。母親の方はどこか諦めていた様で、このICレコーダーを送ってきたのも母親の方だった。

昔の日本では、移り変わりゆくことを無常という言葉を使わず飛花落葉と表現したそうだ。落ちる葉を浮かし続けるのは、大変な労力と資源とエネルギーがいる。その結果がつい三日前まで彼女を生かし続けていた。しかし、やはり物は下に落ちてゆく。


線路の高架をくぐり、川を挟んだ石垣の間が広がる。同時に川以外の陸の面積が広がり、あちらこちらに花見の客がシートを敷く。このあたりは近隣の方が楽しまれている場所で、雰囲気もどこか長閑だ。このまま進むと崖下を通る川の傍の道がなくなるので、右側崖上の道へ上がる。川と桜を下に見る、ここからの景色は中々に良い。

ふと向こう岸の、彼女と来た鯛焼き屋を見て通り過ぎる。別に鯛焼き専門店というわけではないのだが、何となく、あそこの縁側で鯛焼きを頬張るのが好きなのだ。しかし今日は向かわない。


イヤホンの向こうで声が流れている。葬儀が始まってから1時間と半分が経つ。そろそろ皆も私と同じものを聞いているに違いない。珍しいことではない。ただ普通は送り出す側がするのだが・・・・彼女の場合は、これでいいのだろう。どこか声が満足そうだ。

銀の水を股に掛けた橋の上に立つ。大変立派な橋なのだが、惜しむらくは、風情というものがまるでない鉄骨の橋だということか。だが目的地はここではない。橋の右側から山の中に入る道があるのだ。


一度、箱根の山に入ったことがある。会の帰りにスーツと新しく買った革靴で木々の枯れる大涌谷の細道を通り、木こりの通るような道の箱根玉笹をかき分け、露に濡れて進む心境は大変心細く、文明の音が聞こえない静寂の中をひたすら父と進んだ記憶は忘れがたいものだ。それに比べれば、この山は実に味気ない。ふとすれば車の通る音が聞こえ、目を凝らせばマンションの姿が木々の向こうにあり、偶の騒音に上を見上げればヘリコプターが通っている。遭難の危険は欠片もないが、実はここを通って人に会ったことがないという不思議な場所でもある。一つ言えるのは、人と会いたくないときは、ここが一番なのだ。


西行が宿を借りるのを断った江口の君も、人に会いたくない日があったのかもしれない。逆に西行は人に会いたかったのかもしれない。人間の巡り逢わせは不可思議だ。戦場で花に宿借る人もいる。仮の宿(現世)すら捨てよと江口の君は言う。今日の私はどこに腰を落ち着けようか。

名前も知らない春の花々は私の目に映らず、ひたすらイヤホンからの彼女の声を聴いていた。足に任せて、の言葉通り、ほぼ無意識に私は目的の場所に向かう。

いつの間にか、足場は岩ばかりとなり、空が見やすくなっていた。私は坂を駆け上がる。階段の態もなさない岩々を踏みしめ飛び越え、ついにたどり着いた。

人よりも高く畳2、3枚はあろうかいう広さの大岩が5つ6つも転がり、進むべき道を妨げているような、または休んでいけというような、小さな山の頂。もっと高い場所はあるのかもしれないが、私にとってはここで十分だ。

大岩の一つによじ登り、腰を下ろす。気が向けば、崖下に飛び降りて死ねるこの場所は、この街を一望することができるのだ。


山下さんか開けて錦に似たり。潤水かんすいたたえてあいの如し・・・・」

ふと思いついて口にする。元の詞章は「山花さんか」であり「あい」色である。だが、ここからではろくに川も見えない。それに、街のあちこちに見える桜と緑が、街の薄い鼠色を下地にして、衣桁いこうに一枚の着物が掛かっているようなのだ。

残念ながら翻る裾もなければ、その下の濡れる踝もないが。


「藍・・・愛・・・・いや『遭い』かな」

ぶつぶつと呟きながら、言葉遊びに頭を巡らす。

ここで人と会った例はないが、出会いがないわけではない。右を見れば、桜が一本佇んでいる。桜といっても、花見の客を喜ばす喧しいお馬鹿な花(ソメイヨシノ)ではない。赤い葉と共に控えめに花を咲かす、この山桜が私は一番好きだ。

左奥には松がある。もう枯れてしまった朽ち木の松が、枝も折れて葉も落ちて、ただひっそりと立っている。きっと誰かに無理やり植えられてしまったのだろう。やがての自分を見るようで、お互い辛いものよな、と目を再び遠くにやる。

そこで、イヤホンの声が既に途絶えてしまっていることに気づく。

毎日聞いていると、もう掛けていなくても声が聞こえてくるようで今更なのだが、折角あるのだからと再生ボタンを押す。しばらくして、(ようよ)うに声が聞こえ始める。


『実相無漏の大海に――』

か細く、薄氷の上に立つ、夜の鶴の声の様に透き通った声が響く。とはいっても、相変わらず下手な謡だ。言葉と節だけは正確で、肝心の声は全然だめだ。引き締まりもなく、綺麗な声を出しているだけ。

『五塵六欲の風は 吹かねども――』

遠くに見える海は穏やかに、山の上だというのに風は感じない。落ち着いた、春の景色だ。

『隨縁真如の波の 立たぬ日もなし・・・』

イヤホンからの彼女の声が謡っているのは、あの月夜の下、私が最後に教えた曲だ。私では、まだ到底及ばない、位の高い曲だ。それでも誰かを彼の岸へ送り出すのに、自らが向こう岸へ渡るのに、これほど適した謡を私は知らない。

『―― 立たぬ日もなし・・・』

そっと目を閉じる。


――波の立居も何故ぞ 

      (どうしたんですか?)


まるで語りかけられているような気がする。


――借りなる宿に

      (どうでもいいことに)

温かい声だ。


――心 とむるゆえ

      (こだわっているからでしょう?)

彼女の、声だ。



――心とめずは 浮世もあらじ

未練しかない。


――人をも慕わじ

諦められない。


――待つ暮れもなく

もう一度会いたい。


――別れ路も あらし吹く

 ごう、という音に思わず目を開ける。

――花よ紅葉よ

 山おろす風が、花に涙を添えて散らしていく。

――月 雪の 故事(ふること)

 狂った女の狂った声。


今、狂おしいほど君が欲しい!


雲の波が広がる中、一筋の黒い線が空に描かれている。何かを燃やす煙の裾が風になびいている。

「やっと会えた」

涙が止まらない。立ち上がって煙に手を伸ばす。

風が後押ししてくれる。

足が自然に前へ出る。


――あら 由なや 

      (ばかな人・・・)



途端に風が止む。

あっと気づいて下を見れば、私の足は崖から、あと半歩のところだった。

もう一度前を見るが、あるのはただ/\穏やかに広がる空と海で、いつの間にか黒煙もその線を乱している。いくら見つめても最早それは煙でしかなく、やる方なさに岩上に立ち尽くして、再び目を閉じる。

瞼裏に映る最後の面影は、やはり私を笑っていた。


江口:能の演目。旅の僧の一行が江口の里(大阪市東淀川区)を訪れ、旧跡の前で江口の君の幽霊と出会う。江口の君は、この世の無常を説き、舞を舞い、やがて普賢菩薩の姿と変じ、西の空へと消えてゆく。

平安時代、江口という場所は河川舟運の要所で、遊女への需要が高かった為、多くの遊女が居ることで有名だった。中でも、江口の君と呼ばれる遊女は、西行法師との和歌のやり取りを新古今和歌集に載せられたことで後世にも伝えられている。


山花開けて~:能「桜川」の一節。

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