7:東翼
東翼三階までの裏階段を上ると、廊下には立ち番中の警護兵が二人いた。
そのうちの一人は私の顔なじみだった。
「アッシュ!」
灰色の髪の男を見て、私はほっとする。
ヴァンダイク家警護隊を統括する団長モルデンの息子で、幼馴染みと言っても良かった。彼の名前はその髪色から名付けられたらしい。
アッシュは私に顔をしかめてみせた。
「侯爵家のご令嬢が、何をなさっているんでしょうね?」
使用人用の裏階段を使うなんて、という言外の小言をその口調に込めている。
アッシュの青い目が私の後ろにいるアレクセイへ向けられた。
アレクセイは婚約者候補のアビゲイルに何度か会いに来ているので、アッシュは顔を見知っていたようだ。
「グラント小公爵様」
彼が会釈すると、もう一人の若い警護兵もそれに倣って同じ仕草をした。
「ミリュエル様、小公爵様に使用人用の階段をご案内したんですか? 不敬罪で死刑になりますよ」
アッシュは半ば冗談めかして言う。
「グラント公爵家が王族と見做されていたのは何世代も前のことだから、今は不敬罪なんて通用しないよ」
アレクセイは微笑んだ。
彼の穏やかな微笑みには、どこか不機嫌な感情が読み取れたが、その理由が私にはわからなかった。
「それに何があろうと、婚約者を罰するなんてことはしない。僕たちは対等な立場だと思っているから」
アッシュが驚いた表情になる。
「婚約者……ですか?」
驚くのも当然だ。
私とホレイショの婚約が解消されたことは周知されていたが、ついさっきアレクセイから新たな婚約話が申し入れられたことはあの場にいた私たち親子とアレクセイ、それに護衛のウィラーしか知らない。
「その件については、まだ返事をしていませんよね?」
私はアレクセイを少しだけ睨んでから、強制的に話を進めた。
「それよりもアッシュ、ここに誰か来た? 逆に下りて行った人はいた?」
私は念押しした。
「家族や高級使用人、警護兵も含めて答えて」
「……掃除に来た者がいましたが、帰らせました。私たちが三階廊下に到着して以降、誰も三階には通していませんし、三階から下りた者もいません」
アッシュは、答えた後で逆に質問をしてきた。
「宿舎から急いでここに駆け付けたので、まだ詳しくは知らないのですが、中庭でいったい何が起こったのですか?」
「侍女が、掃除中に窓から転落して亡くなったの」
殺人かもしれないことは、とりあえず伏せた。
「アビゲイル付きのケイラなんだけれど──アッシュは親しかった?」
アッシュは、もう一人の警護兵と顔を見合わせた。
「親しくはなかったですね──男爵家の出身で、私たちみたいな平民とは視線を合わせたくもないという感じの人でしたから」
アッシュは言葉を選びながら付け加えた。
「いずれにせよ、亡くなったのは残念です」
どうやらケイラは、プライドが高い女性だったようだ。
「彼女が落ちてからあなたがここに到着するまで、どれぐらいの時間がかかったかわかる?」
私はアッシュに、次の質問をした。
「落ちた時間がわからないので何とも言えませんが、私たちがここに来たのは午後二時四十五分頃です」
アッシュは自信ありげに答えた。
アレクセイが不思議そうに尋ねる。
「随分正確だね。……腕時計で確認したとか?」
「まさか。平民の私にはとても手が出ない代物ですよ」
アッシュは、もう一人の兵を指さした。
「彼はダラスと言います」
紹介されて、若い兵がもう一度会釈した。
「ダラスが宿舎まで呼びに来た時に、部屋にある置き時計の文字盤を見ました。午後二時四十分を過ぎたところでした。私はすぐに出られる状態だったため、ダラスと一緒に宿舎を出ました。急げばここまで三分程度で来れます。これは訓練時に何度も試しているので確かです。出発前にダラスと会話した時間と、途中一瞬だけ足を止めて中庭にミリュエルお嬢様の姿を確認した時間の見積もりをそれぞれ一分程度として、午後二時四十五分頃と考えました」
アッシュの話を私が補足した。
「警護兵用の宿舎は東翼の裏手にあります。隣に厩舎もあり、屋敷から直接は見えないよう間に林を設けています」
これも貴族の目に裏方を晒さないように、という古い考え方から来るものだ。
「屋敷内の待機所にいる兵の数で足りない緊急時には、宿舎から呼び寄せることになっています」
「なるほど」
アレクセイは、アッシュと私が説明した内容を頭の中で整理しているようだった。
その中で気掛かりな点を見つけたらしく、彼は尋ねた。
「さっき、落ちた時間がわからないと言ったが、宿舎では落下音は聞こえなかったのか?」
記憶を探る少しの間を置いてから、アッシュは答えた。
「聞こえませんでした。宿舎内にいましたし、間にある東翼の建物が音を遮ったのかもしれませんね」
話を纏めると、ここでアッシュたちが監視を始めた時、遺体が発見されてから十分前後は過ぎていた。
この時間差があとから意味を持つかもしれないし、問題ないかもしれない。
何らかの犯罪の痕跡を見つけたとしても、その十分の間に誰かが工作した可能性を考えれば証拠としては意味をなさない。
「君は何か言いたそうだね」
アレクセイは、若い警護兵に言った。
ダラスは彼の顔をそっとうかがっては、視線を落とすということを繰り返していた。それはアレクセイの言う通り、なにごとかを話そうかどうしようかと迷っているように見えた。
「何か知っていることがあれば、話してくれると有り難いのだが?」
アレクセイに促されて、亜麻色の髪をした警護兵は鳶色の目をオドオドとさせながら、アッシュと私の顔を見比べた。
童顔で、丸顔にはニキビが多い。
アビゲイルと同じ年頃だろう。
アッシュが頷いてみせたので、ダラスは話し始めた。
「はい、……僕……いえ、私は警護隊に入って一年ほどになります。その間に、正面入り口で何度か立ち番をしていて、……見たのは多分私だけじゃないと思いますが」
ダラスは話しているうちに自信を持ち始めたらしく、淀みのない口調になった。
「ケイラの父親だと名乗る貴族が毎週のように訪ねて来るんです。取り次ぎをしますと、ケイラは急いでやってきて、その貴族の男と門の近くでほんの数分ほどやり取りをしていました。話の内容が聞こえたわけではないのですが、ケイラは金を渡しているようでした」
「穏やかに話していた? それとも、揉めているようだった?」
「穏やかではなかったです」
ダラスは声に幾分怒りを滲ませた。
「これで全部よ、とケイラの怒る声が聞こえました。給金を全部渡していたのではないでしょうか。……ひどい父親だと思いました」
最後の一言は余分だとばかり、アッシュが目を怒らせたのでダラスは黙った。
私の頭の中を、『毒親』とか『搾取子』とかいう言葉が駆け巡った。
ケイラの父親は男爵家を没落させただけではなく、娘にたかっていたようだ。
そんなことになっていると知っていたなら、警護隊に命じて父親を門前払いにするように取り計らっていたのに──
私が感情的になって表情を凍らせている様子がわかったらしく、アレクセイは私の背に軽く手を添えた。
「教えてくれてありがとう」
アレクセイがダラスに礼を言って、私の背に手を添えたままアッシュたちの傍を離れ、廊下を進み始めた。
私たちの後ろに、ずっと黙って控えていたウィラーがついてくる。
「なかなか良い男ですね。性格も良く、仕事もできそうで──」
廊下を進みながらアレクセイが、小さく溜め息をついた。
私は驚いて、彼を見上げた。
「アッシュのことですか?」
「そう。あなたと気安く話していて……とても親しい間柄のように見えました」
アレクセイは私とアッシュの不適切な関係を勘ぐったようだ。
だから『婚約者』という単語を投げかけて反応を見たのか。
求婚に応じるか応じないかはともかく、変な噂が流れて私の今後に差し支えることは避けたかった。
「アッシュは私より二つ年上の幼馴染みです。頼もしくて、兄のように接してくれます。私たち姉妹が外出する時には、必ず護衛としてついてきてくれるのです」
誤解を解こうと思ってそう説明したのだが、どういうわけかアレクセイの表情が次第に険しくなっていく。
「幼馴染みね……なるほど、仲が良いわけです。婚約を渋るのは、彼が理由なのですか?」
などと尋ねてくる。
「婚約を渋ってるわけではありません。大事なことをその場で即決したくないだけです」
それに別の重大事件が進行している時に人生を左右するような話をしても、深く考えることができない。
実際私は、なぜ彼がアッシュに拘っているのかよくわからずにいた。
戸惑いつつ彼から視線を逸らした私は、目の前にある部屋の扉を見た。
私たちは空き部屋を一つ通り過ぎて、ホレイショの泊まっている部屋の前にいた。
しっかりと閉じられておらず半開きなのは、最後にここを出た高級使用人であるアーチボルトが慌てて私たちのいるところまで駆け付けたせいだろう。
私は扉に手を掛けて、内側に押し開いた。
「ここがホレイショの部屋です。両隣は空き部屋で、普段は高級使用人の待機所として使用されています」
「それでは……」
アレクセイは中に進みながら言った。
「あなたから良い返事をいただくために、さっさと片付けてしまいましょうか」
良い返事……?
婚約を渋っているわけではない、と答えたせいで、良い返事をするという一択になったのだろうか。
とりあえずこの件は後で考えることにして、私は彼の後に続いた。
アレクセイはアビゲイルの部屋と同様に、ホレイショの部屋も調べて回った。
遺体が見つかったのは対面の西翼側なので、こちらで何か見つかるとは思えないのだけれど、私も彼に協力して一通り異常がないか確認した。
ベッドの下、シーツ、クローゼット、文机の中に至るまで見てみた。
アビゲイルの部屋は寄せ木細工の床だったので、目視だけで何も落ちていないことがするにわかったが、ホレイショの部屋には平織りのセンターラグがあった。
その上にもし微細な繊維や誰かの髪の毛などが落ちていても、見分けることは難しい。
それに運良く見つけたものが証拠になるとは限らない。
茶色い髪を一本拾ったとして、それが私のものなのか父のものなのか、いつからそこにあるのかを特定する方法がないからだ。
掃除の途中だったらしく、開いた窓の桟にはザラザラとした砂が落ちていた。
他には特別目を引く物は見つからなかった。
「この両隣は空き部屋と言いましたね」
アレクセイが呟いた。
「ええ」
私は、原作では探偵役のアレクセイが、その空き部屋の片方に何日も滞在していたことを思い出した。
このままアレクセイが捜査を続けるのなら、現実でもそうなるだろう。
どちらの部屋が良いか訊こうと思っていると、アレクセイが言う。
「両隣も調べたいのですが、良いですか?」
「もちろんです」
警護兵が配置に付いてからは誰も出入りしていない、という警護兵たちの証言を確実にするため、もう一つやらなくてはならないことがあると私は気づいた。
全ての階段が封鎖され、各廊下に警護兵の目が届く今の状態で全ての部屋を調べて、誰も隠れていないことを確認しなくてはならない。
私たちは一旦廊下に出て、アッシュがいる北側へ少し戻ると、さっき通り過ぎた北隣の部屋に入った。
そこに置いてある家具は少なく、空のクローゼットとマットレスを外したベッド、それに使用人が使うための休憩用ソファがあるだけだった。
絨毯もラグもなく、剥き出しになった木製の床に落ちているものはない。
もう一つの空き部屋は、ホレイショの部屋の南隣にあった。
そちらのベッドにもマットレスはない。ラグも絨毯もなく、休憩用のソファがあるのもさっきの空き部屋と同じだった。
アーチボルトに言いつけて、アレクセイのためにベッドの準備をさせなくては、と私は考えていた。
「ああ」
アレクセイが、クローゼットに入っていたものを引っ張り出した。
「なるほど?」
それはシーツだった。
この部屋のベッドで使うために準備されたものなら、特に問題はなかった。
だがそのシーツは、明らかにグシャグシャと雑に丸められ、アレクセイが開いてみせると、赤黒いものが染みついていた。
「どうして……そんなものがここに」
私は驚いてアレクセイを見た。
ケイラが落ちたのは西翼だ。
アビゲイルの部屋を調べられると困る犯人が、わざわざ東翼まで来て隠したのだろうか?
けれど、なぜシーツが?
ケイラは落ちる前に、すでに死んでいた。
彼女の遺体を引っ張って落とすトリックを作るにしても、ロープの方が扱いやすいはずなのに。
「どうして……って」
アレクセイは、私に微笑みかけた。
「これがここにあるのは、あなたのせいじゃないでしょうか」
(それは……私を、疑っているということ……?!)
愕然としながら私は、彼の微笑みを見返していた。




