第2話 迷子の猫と、迷わない地図
翌朝、トオルはいつもより早くギルドに来ていた。
いつもの柱の影ではなく、入り口近くのベンチに座っている。スケッチブックは膝の上。中身は既に昨夜、何度も見返した。E級ダンジョン『土竜の巣穴』の地図。以前、捨て駒として半ば強制的に参加させられたパーティで潜り、その際に入念に作り込んだ一枚だ。
「……本当に来るのかな」
ぼんやりと呟く。昨日の約束は、リリエンの勢い任せだった。今日になって「やっぱりやめた」と言われても不思議ではない。むしろ、その方が普通だ。
自分は戦えない。地図を描くだけの役立たず。誰がそんな奴を連れて行きたいと思うだろう。
「おい、トオル!」
元気な声がギルドの扉を押し開けた。金色の猫耳が朝日にきらめいている。
「待たせたな! さあ、行くぞ!」
リリエンは完全武装――と言っても擦り切れた革鎧と背中の短剣二本だけだが――で、満面の笑みを浮かべている。その無邪気さに、トオルは少しだけ救われるような気持ちになった。
「あの……本当に、僕でいいんですか?」
「何言ってんだ。昨日決めただろ!」
リリエンがトオルの手を引っ張る。その力強さに押されるように、トオルは立ち上がった。
ダンジョン『土竜の巣穴』の入口は、街の北西、小高い丘の麓にあった。ぽっかりと開いた黒い出口は、吐く息が白くなる朝の冷気の中でも、ひときわ異質な存在感を放っている。
「よし、行くぞ!」
リリエンは躊躇なく洞窟へと足を踏み入れる。トオルは一呼吸置いて、その後を追った。
中に入ると、天井は三メートル以上あり、ところどころに発光苔が生えていて、薄暗いながらも視界は確保されている。足元は固く締まった土で、時折、何かが這った跡のような筋が走っていた。
「そういや、ちゃんと自己紹介してなかったな」
リリエンが振り返りながら言う。
「うちはリリエン・フェルステ。十五歳。リュカン族。戦闘タイプは斥候。短剣でチクチクやるのが得意だ。好きなものは焼き鳥とアビール酒。嫌いなものは迷うこと――迷子になること、な」
最後の部分は少し自嘲気味だった。
トオルはスケッチブックを開きながら、小さな声で答えた。
「観月トオル。十六歳。職業は地図術士。戦闘は……からきしです。好きなのは、地図を描くこと。嫌いなものは、役に立たないと言われること」
「なるほどな」
リリエンはしばらく歩きながら、何かを考えていた。
「なあ、トオル。なんで地図なんか描き始めたんだ?」
「……なんとなくです。というか、それ以外にすることは無かった」
「なんとなく、か」
リリエンは特に追及しなかった。その距離感が、トオルには心地よかった。
十五分ほど進んだところで、最初の分岐に差しかかった。
三方向に分かれた通路。それぞれの奥は暗がりに覆われ、先が全く見えない。
「地図では、中央が一番広くて、左右は行き止まりが多いはずです」
「よし、中央だな」
リリエンが進もうとした瞬間、トオルが彼女の肩を軽く叩いた。
「待ってください」
「ん?」
「……何か、音がしませんか?」
耳を澄ませると、かすかに――カサカサという音が聞こえる。複数の足音。それも、左の通路の奥から。
「ゴブリンだ」
リリエンの耳がピンと立った。猫人の聴覚は人間のそれを遥かに凌ぐ。
「三匹……いや、四匹か」
「ここで戦いますか?」
「いや、まだいい。先に進もう」
二人は中央の通路を急ぎ足で進む。しかし、ゴブリンの足音も後を追ってくる。
「追ってきてるぞ!」
リリエンが振り返る。そこには、緑色の小さな魔物たち――ゴブリンが四匹、棍棒や短剣を手に走ってきていた。
「仕方ない、ここで倒す!」
リリエンは短剣を抜き、立ち止まった。トオルは壁際に縮こまる。
最初のゴブリンが飛びかかってくる。リリエンは軽やかに身をかわし、すれ違いざまに短剣を振るう。ゴブリンの喉が切り裂かれ、泡を吹いて倒れた。
二匹目。彼女は素早く間合いを詰め、短剣を心臓に突き刺す。動きに無駄がない。迷いがない。
「はあっ!」
三匹目。彼女は蹴りを入れ、仰向けに倒れたところをとどめを刺す。
四匹目は、仲間が瞬殺されるのを見て、悲鳴を上げて逃げ出した。
「ふう」
リリエンは短剣の血を拭い、鞘に収めた。
「終わったか」
「す、すごいです……」
トオルは思わず声を漏らす。彼女の動きは、ギルドのいわゆるベテランたちと比べても遜色なかった。
「こんなもんさ。もっと強いのも倒したことあるしな」
リリエンは得意げに胸を張った。
「ただ、迷わなければの話だが」
その言葉が終わらないうちに、だった。
「――あ」
リリエンの耳が震える。彼女の顔から、血の気が引いていく。
「……まだいる」
「え?」
「十……いや、もっと。二十はいる」
トオルも聞こえた。さっきのゴブリンが逃げていった方向から、今度はもっとたくさんの足音。そして、低い唸り声。
「走れ!」
リリエンがトオルの手を引いた。二人は通路を必死に駆ける。後ろからは、十を優に超えるゴブリンの群れが迫っている。
「左!」
「右!」
リリエンの指示に従い、トオルは必死に足を動かす。しかし、彼の脚は遅い。リリエンがどれだけ引っ張っても、距離はじわじわと縮まっていく。
「くそっ、このままじゃ――」
リリエンが声を詰まらせた。目の前は、行き止まりだった。
広さは数メートル四方。奥には岩壁があり、左右も壁。完全な袋小路だ。
「しまった……うちが、道を間違えた……」
リリエンの耳が、しょんぼりと垂れる。後ろからは、ゴブリンの足音が轟いている。もうすぐそこまで来ている。
「トオル、ごめん。お前を巻き込んだ」
「そんなことより!」
トオルは壁際にしゃがみ込み、スケッチブックを開いた。そこに描かれているのは、この袋小路の構造だ。入り口一つの、行き止まりの空間。どんなに目を凝らしても、隠し通路のようなものは見つけられない。
もし、ここに――
もし、ここに大きな壁があれば。
ゴブリンの視界を遮ることができれば。
トオルの頭の中に、地図が描かれていく。今いるこの空間の、正確な寸法。壁の厚み。材質。
無意識に、鉛筆が走っていた。
一本の線。道を完全に塞ぐように、まっすぐに。
「……ここに、壁があったらな」
漏れた声は、自分の耳にもよく聞こえなかった。
しかし、その瞬間だった。
ガゴォォン――という重低音と共に、入り口が塞がれた。いや、塞がれたのではない。まるで最初からそこにあったかのように、分厚い岩壁が出現していた。
「な……!」
リリエンが目を見開く。彼女は壁に手を触れ、何度も叩いた。固い。本物の岩壁だ。
外からは、ゴブリンたちの怒号が聞こえる。しかし、壁はびくともしない。しばらく騒いだ後、彼らは諦めて去っていった。
「……なんだったんだ、今のは」
リリエンが呆然と呟く。
トオルも同じだった。自分の手を見る。鉛筆を握った右手。スケッチブックを支えた左手。
スケッチブックを見ると、そこには確かに――さっき自分が書き足した一本の線が、薄く、しかし確かに残っていた。
「まさか……そんな」
「どうした、トオル?」
「い、いえ……何でも」
トオルは慌ててスケッチブックを閉じた。リリエンは首をかしげたが、それ以上は追及しなかった。
「とにかく、助かったな。あの壁、最初からあったっけ? うちが気づかなかっただけか?」
「そ、そうですね。きっとそうでしょう」
トオルは必死に平静を装った。しかし、心臓は激しく打っている。
――今、壁が現れた。自分が線を書き足した瞬間に。
いや、偶然だ。そうに違いない。
「戻ろうぜ。今日はもう十分だ」
リリエンが先に立つ。今度は間違えないように、慎重に、一歩一歩。
トオルはその後ろを歩きながら、スケッチブックをぎゅっと抱きしめた。
――もし、あれが偶然じゃなかったら。
その考えが頭をよぎるたび、首を振った。ありえない。そんなこと、ありえない。
ギルドに戻ったのは、昼前だった。
「じゃあな、トオル。今日は助かった。またな!」
リリエンは軽く手を振って、酒場の方へ歩いていく。トオルはその背中を見送った。
――彼女は、あの壁が突然現れたことを、どう思っているのだろう。
「多分、何かの勘違いだろう」
自分に言い聞かせるように呟く。
あれはきっと、自分が気づいていなかっただけで、最初からあった壁だ。ダンジョンは生きている。地形が変化することもある。そういうことに違いない。
トオルはスケッチブックを開いた。
そこには、確かに――一本の線が、薄く残っていた。
「……よし、今日は帰って寝よう」
彼はスケッチブックを閉じ、ギルドを後にした。
歩きながら、何度も首を振る。
あれは偶然。何かの間違い。
そう思わなければ、自分が何をしてしまったのか、考えずにはいられなかった。




