寄り道紀行 その2
道の両側に並んでいるのは二階建ての住宅ばかり。そのどれもが、あの古ぼけた建物に比べればずっと新しいものに見えるけど、それでもこの風景には、『古き良き時代の閑静な住宅街』というフレーズがぴたりと合いそうな雰囲気がある。その時代を知ってるのかと聞かれると困ってしまうけど、とにかく良い雰囲気だってこと。
道は真っ直ぐではなく、少しカーブしたりY字路があったりして、このまま迷子になってしまっても不思議ではない。
そこで私は、そういえばと思い出す。それは、数ヶ月前にテレビで観た外国の映画。ある日主人公の男の人が、ふと目に付いた路地裏に、ほんの気まぐれで足を踏み入れる。そしてそこを歩いていくと、いつの間にか異世界に。主人公はそこで大冒険をして、大活躍して、お姫様とも良い感じになって、最後は元の世界に戻る、という色んな意味でファンタスティックな内容だった。
お父さん曰く「芸がないな」と冷ややかにコメントしていたけど、私はわりと楽しめたし、お母さんは私よりもずっとドキドキだったらしい。
その映画を思い出し、ひょっとして、私も異世界に向かって歩いてるのかな? などと夢見がちな子供みたいな妄想をして、「ファンタジー世界じゃあるまいし」と笑った。
そしてすぐに、お父さんの話を思い出して「でも……」と笑いが薄らぐ。
私たち三人は別の世界で一度死んでいるという、とても悲しいお話――。
そんなの、あまりにもファンタジー過ぎる。空想の世界でしか起こりえない。そういう気持ちもないわけじゃない。だけど、「本当にあった出来事だよ」と、もう一人の私が心のどこかで少し悲しそうに微笑んでいる。それに、私も今までに何度か、お父さんほどではないけど不思議な体験をしている。引っ越しの日に一瞬見えた光景もその一つだし、ついさっきだって。
だから、お父さんの話は本当のこと。なんだけど……。
ということは、私が向かっている先がファンタジーワールドという可能性も、ゼロじゃないってこと?
そう考えてみると、ちょっと不安になった。
私に大冒険とか大活躍とかしろって言われても、無理に決まってるでしょ。ただし、王子様といい感じっていうのは大歓迎。
というのは半分冗談だけど、そんなことをいちいち気にし始めたら、終いには家から一歩も出られなくなってしまう。私は「そうなったらなったで考えればいいよ」と声に出して気を取り直す。
そして、この道に入ってから数分。ブロック塀の上に腹をべたりとつけて座り、尻尾をゆらゆら揺らしている猫を発見した。白と黒の、牛のような模様のその猫さんは、目を細めて私をじっと見ている。その様子に、実は私は牛ですとでも訴えたいのかなと想像してみたら、思わず吹き出しそうになってしまった。あながち冗談ではないと思わせるくらい、その猫が丸々と太っていたから。
試しに私は、「あなたは、本当は牛なんでしょ?」と聞いてみた。
すると猫さんは、両の耳をひょこひょこと動かした。
「ねえ。角はどうしたの? 隠してるの? それとも、おっこどしちゃったの?」
猫さんは私を無視して、後ろ足で耳を掻こうとする。だけど、横にだらしなく突き出たお腹が簡単にさせようとしない。それでも猫さんは、太った体と首をどうにか曲げて、後ろ足を必死に伸ばして動かす。
たぶん届いているとは思うけど、数回に一回は空振りしているんじゃないかしら。
その可笑しくも愛らしい姿が壺に入って、私はケラケラと笑ってしまった。それでも猫さんには気にする素振りがない。でも、笑い止んでから私が言った言葉には、気分を害したみたいだった。
「ダイエットしなきゃ、ほんとに牛になっちゃうよ?」
私がそう言ってすぐ、猫さんは「どっこらしょ」という掛け声が聞こえてきそうな動きで立ち上がった。私としては、もう少しこの猫さんを相手にしていたいという気持ちがあったので、「ごめんなさい、冗談だよ」と謝った。それでもやっぱり機嫌は直らなかったようで、もうお前の相手なんてしてらんないとでも言うように、こちらにお尻を向けて、ブロック塀の上をのそのそと歩き出した。
ま、失礼だったのは私の方なんだし、どこかへ逃げられてしまうよりかは遙かにマシかとこの状況を受け入れ、猫さんの機嫌をこれ以上損ねないように、少し後ろを大人しくゆっくりと歩く。
まんまる太った猫さんの後ろ姿と、気怠そうに揺れる尻尾。それだけでも面白いのに、ぶよんぶよんのお腹が、一足ごとにだらしなく揺れているようにも見える。この光景を見て笑うなというのは酷な話だと思う。でも笑っちゃダメ。でもやっぱり笑ってしまいそう。いやいや、我慢しなきゃ。で、でも――。
と密かに自分と戦っていると、そんな私に気付いたのか、ひょいと塀の向こう側に下りてしまった。いや、自ら落ちていったと言った方がいいかな?
とにかく、私の前から姿を消してしまった。
残念。
「ん~、もうちょっとだけ見ていたかったな~」
そう口にするも後の祭り。今度会ったときは、失礼のないようにしなきゃと強く思った。けど、笑わずにいられる自信はまったくない。たぶん失礼なことをする。その時は笑って許してね。
こうして、牛のような猫さんとの時間は終わった。さて、どうしようかな。
私はそう思って立ち止まる。すると前方に、今度は猫ではなく、『おおきぱん』と書かれた看板を発見した。
むむ。ライバル店?
もちろん、古河パンからずっと離れているからライバルということはない。でも、古河パンの血を引いている私としては、黙って見過ごすわけにはいかない。なんて。
ただ単に、他のパン屋さんを見ると、どんなパンがあるんだろうと興味がわくだけのこと。私は早速、『おおきぱん』へと足を速める。そしてお店のすぐ近くまで来たところで、その光景にとても驚いてしまった。
私の知るパン屋さんというのは、あっきーと早苗さんのお店みたいに、店内にはパンを並べる棚や台があって、その上に何種類ものパンが並んでいて、お客さんがトレイを片手にパンを選び、カウンターでお会計する、というもの。でもこのパン屋さんにはそういった棚が一つもないしトレイもない。それどころか、見上げたそこにあるシャッターを除けば、お店と道路を仕切るものは何もない。
そして、敷地に一歩入ってすぐの所に、スイーツショップとかで見られるようなショーケースがでんと構えていて、その中に何種類ものパンと、それ以外にパックの牛乳やコーヒーなどの飲み物が並べられている。しかも店の片隅に、なぜか丸椅子が三脚、重ねられて置いてある。
まるで、商店街の小さな精肉店が、内装とか諸々そのままにパン屋になったような感じ。と言った方が分かりやすいかな?
その物珍しさに、お店の真ん前で足を止めて驚いていると、奥から白髪でシワだらけのおばあさんが出てきた。
「いらっしゃい」
心を落ち着かせる間もなく言われてしまったので、「あ……っ」と声を漏らしてから次の言葉を出すのに、ほんの少し時間が掛かってしまった。
「ん? どうかしたのかい?」
「――と、いえ、なんでもないです」
「ならいいけどね。それで、どれか買うのかい?」
「え、と……、はい。パンを……」
私はしどろもどろでそう答えた。もともと、味を確かめるために一つぐらいは買おうと思っていたから、無理に言ったわけじゃない。ただ、どれを買うかは決めていなかったので、ショーケースの中を見ながら、その次の言葉を探さなければならなかった。
そんな私を見て、おばあさんが「うちの自慢は、コロッケパンだよ」とにこやかに教えてくれた。
「ただ、ちょっとだけ待ってもらわないといけないけど」
「え? でも、ここに――」
「どうせなら、出来立ての温かいのがいいだろ? あと十五分くらいで焼き上がるから、これでも飲みながら、そこに座って待ってな」
おばあさんはどこか楽しそうにそう言って、ショーケースから三角パックの牛乳を取り出す。
「でも、私牛乳は――」
「牛乳は嫌いかい?」
「いえ、そういうわけじゃ――」
「それじゃあ、コーヒーがいいのかな?」
「あの、手持ちが、ちょっと……」
「んん? ……ああ、そうか。そうだよねえ」
おばあさんは納得したように頷いて、「これはサービスだから、お金はいらないよ」とコロコロと笑った。
まさに図星。私は急に気恥ずかしくなり、俯いてしまった。
「ふふふ。めんこいお嬢さんだねえ。いいからいいから、もらっとくれ。ばあさんの頼みを聞くと思って」
そうは言われても、タダでもらうわけにはいかない。そう思って顔を少し上げる。
「私のおじいちゃんとおばあちゃんもお店やってるから、何て言うか、だからやっぱり、もらえないです」
「そうかい?」
「ごめんなさい」
「謝ることなんて何もないよ。私の方こそ、ごめんねえ」
「いえ、そんな」
ちょっと罪悪感。せっかくの好意を無下に断ってしまった。おばあさんに嫌な思いをさせてしまったかな。
そう思ったけど、おばあさんは強かった。それじゃあ、と気を取り直して奥に消え、すぐに笑顔で戻ってきたその手には、お盆に載せられたお茶とお煎餅があった。
「これなら問題ないでしょ?」
はい。負けました。ここまでされたら、素直に頂くしかないでしょ。
「すみません」
「ふふふ。出来たお嬢さんだねえ。ああ、申し訳ないけど、そこの椅子を出してもらえないかね?」
そう言われて、私は丸椅子三つをショーケース前に並べ置いた。おばあさんはショーケースの横を抜けて、真ん中の椅子にお盆を置くと、自分も一つに座った。
ひょっとして、この為に置いてあったの?
そして私も、パン屋さんの軒先で丸椅子に座り、初対面のおばあさんとお茶を飲み、お煎餅をご馳走になり、気が付けば平然とお喋りをしていた。
最初は、こうしている自分がちょっと恥ずかしく思えていた。それと同時に、なんでこういう事になっているのだろうと頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいた。だけど、そんなものはすぐにどこかへ行ってしまった。おばあさんとのお喋りがなかなかに面白かったから。もうちょっと具体的に言うと、ついさっきの牛みたいな猫さんの話で早々に盛り上がったから。
その話題を切り出したのは私。すぐそこでこおんな猫を見ました、と。おばあさんは私の言い方が気に入ったようで、確かに角を突けたら牛そっくりだねえとしばらく笑っていた。
「あの猫の飼い主、よっぽど甘やかしてるんでしょうね」
「ふふ。あれは野良だよ」
「野良猫っ!? そ、そう言われてみれば、首輪してなかった……かな? あれだけ太ってると、首輪がぜい肉の中に食い込んで、見えなくなっていてもおかしくないけど……。でも、まさかあ。飼い猫じゃなきゃ、あそこまで太れませんよ」
「普通に考えたら、そうだろうねえ。でも、ここに住んで六十年近くいる私が言うんだから、間違いないよ」
「う。そう言われちゃうと反論できない……。でも、野良猫があんなに太れるものなんですか?」
「ああ。毎日たらふくマンマ食べてるからねえ」
「誰から?」あれだけ太ってしまっては、独力で餌を確保するのは不可能なはず。そしてその答えは、考えずともすぐに分かりそうなものだった。
「ここいらの人たちと、私らで」
おばあさんはそう言って、にこりと笑ってショーケースを指さした。
なるほど。納得。
「あんまり食べさせちゃいけないとは思ってるんだけどねえ。ついついあげちゃうんだよ。あれだけ肥えていてもさ。牛や豚じゃあるまいし、あの子を太らせてもいいことなんて何もないのにね」
「メタボは基本、みんなの敵ですからね」
そんな話で時間はあっという間に過ぎ、お煎餅でふと思い出した、お父さんから聞いた『早苗さん特製お煎餅ぱん』を次の話題として話し始めたところで、おじいさんが焼き上がったコロッケパンを持ってきた。
まだまだおばあさんとお喋りをしたかったし、おばあさんもそのパンに興味を持ったみたいだけど、「お父さんは、『パンの中にまんま煎餅なんてありえない。ミスマッチどころの騒ぎじゃなかった』って、早苗さんのいるところで言ってましたよ。あ、早苗さんっていうのは、お母さんのお母さんです」と、その後の展開はあえて割愛して最低限の答えを返し、今日のところはお終い。
後ろ髪引かれるけど、また来ればいいんだし、帰り道の途中にあるんだから、いつでも来られる。
私は、試しに煎餅ぱんとやらを作ってみようかなと笑って言うおばあさんに、止めた方がいいと思うよと苦笑いして、おばあさんとおじいさんに「また来るね」と手を振りながらお店を後にした。
その手には、ほかほかのコロッケパンが一つ入った紙袋があった。




