引っ越しの日 その4
戻ってきたお父さんと陽平おじちゃんに向かって、杏先生が一喝した。
「馬鹿でしょアンタら!」
一時間ほどで帰ってくる予定だったお父さんと陽平おじちゃんは、さらに一時間半経って帰ってきた。しかもちょっとお酒臭い。
とこれだけの説明なら、二人ともこのあと杏先生に半死状態にさせられても文句は言えなかったと思う。でも、事前にお父さんから「ちょっとだけ飲んでから戻ってもいいか?」って電話があって、お母さんが「飲み過ぎないでくださいね」って了承していたので、それは免れていた。というか、なんでお父さんたちはこんなに怒られてるんだろう? 私にはよく分からない。
「空気読みなさいよ! だいたい朋也! あんたこの家の家主でしょうがっ!」
「いや、悪いとは思ったんだがな? 飲み屋からあまりにもいい匂いが……」
「そうそう、まるでゴキブリホイホイに吸い寄せられるゴキブリみたいにさあ、ふらふら~っと」
「その例えはなんか嫌だぞお、春原」あ、お父さんの顔と口調が面白くなってる。
「じゃあ、蚊取り線香?」
「それは根本的に間違ってるぞお」
「じゃあ――」
とここで、目を泳がせながら喋っていたお父さんと陽平おじちゃんの胸倉を、杏先生がぐわっと掴み、二人いっぺんに引き寄せた。途端に、二人は顔を青くさせて口を結ぶ。そして杏先生が、今度は一転して、怒鳴るのではなく凄味のある低い声でお父さんに言った。
「陽平は別として、その誘惑を振り払うのが家主の務めなんじゃないの?」
すると、陽平おじちゃんが「あのお~、ならボクの胸倉は掴まなくてもいいんじゃ――」と恐る恐る言った。けど、案の定ソッコーで返り討ち。
「ああん?」
「ひいっ! なんでもありませんっ!」
杏先生は自覚していないみたいだけど、先生のこういうところを、お母さんは変わってないって言ってるんだよ?
とここで、早苗さんが穏やかな口調で助け船を出した。
「まあまあ杏さん。いいじゃないですか。男の子同士で飲みたいときもありますよ。ね、朋也さんに春原さん?」
「そ、そうっス。なあ春原っ?」
「うんうんっ! まったくもってその通りですっ!」
「ということで、この件はこれでお終いにして、お祝いの続きをしましょう」
さすがに杏先生も、早苗さんにこう言われてしまっては同意するしかないみたいで、仕方ないとため息をついて手を離した。お父さんと陽平おじちゃんは、安堵の息を長と々吐き出していた。
その後、帰還した二人を加えての宴会が始まった。それまでは、お酒を飲むのがあっきーと杏先生だけだったこともあってか、わりと穏やかな宴会だった。けど、再開して間もなく、賑やかを通り越したテンションになっている。しかも、四人ともお酒を飲むペースが徐々に速くなっていた。
私としては、みんなの楽しい話がたくさん聞けて、楽しい光景もたくさん見られて、もうしばらくこのままであって欲しいという気持ちが強かった。だけど、お父さんも陽平おじちゃんも杏先生も、明日はお仕事のはず。あまり飲み過ぎるのはよくないと思う。それを言ったらあっきーもそうなんだけど、その辺はあっきーも早苗さんもけっこうアバウトだから問題ない。いや、大いに問題なんだけどね。
お酒飲み過ぎて、会社に遅刻したり行けなくなったりしたら、すごく怒られるって聞いた。そういうときは「風邪引いたことにすりゃあいいんだよ」って陽平おじちゃんは言ってるけど、やっぱり嘘がバレて怒られているらしい。しかも、飲み過ぎての失敗がその程度ならまだいい。
以前、陽平おじちゃんは、あんまりにもお酒を飲み過ぎて、家までは帰ってこれたんだけど、玄関の前で力尽きてそのまま寝てしまい、明け方、そんな陽平おじちゃんを見た近所の人が警察と救急車を呼んで、大騒ぎになったことがあった。
他にも、家に帰るはずが、電車を乗り継いでトワイライトなんとかって夜行列車に乗り、目が覚めたら青森にいた、っていうことがあった。どちらも飲み屋さんで飲んでた記憶はあったけど、それから目を覚ますまでの記憶が全くないらしい。
まだまだ失敗談はあるし、お父さんの失敗談もいくつかあるけど、切りがないからもうお終い。とにかく、飲み過ぎは危険だってこと。
そういえば、杏先生のお酒の失敗談って聞かないなあ。よし、今度聞いてみよう。
そうして宴会は続き、夜の九時を過ぎたところで、少々残念ではあるけど閉幕となった。
「さて、と……。私はそろそろ帰るわ。二日酔いで子供たちの相手をするわけにはいかないからね」
「かえって、二日酔いの方が子供らが喜ぶかもな。お前の機嫌が良くなって、ちょっとは怖くなくな――」意地悪く笑いながら言ってたお父さんが、杏先生に蹴り倒された。
「ああら朋也ちゃん。もうおねんねでちゅか?」
「お前がぶっ倒したんだろうが!」
あれだけの蹴りを受けてすぐに復活するお父さん。すごいなあ。まあ、陽平おじちゃんの復活力の方が凄いけど。よく死なないなあって思うことも多々あるし。
杏先生の言葉がまるで合図のように、あっきーと早苗さんもそろそろ帰ると言い、陽平おじちゃんも、不承不承といった様子で帰ると言い、飲み食いしたものを片付けてから、みんな帰っていった。
お母さんもお父さんも、当然わたしも、今日手伝いに来てくれたみんなにお礼を言って見送ったことは、言うまでもない。
そして新しい我が家の中は私たち親子三人だけとなり、つい今し方までの騒がしさがまるで夢だったような気さえしてくるほど、家の中はひっそりと静まり返っていた。
お父さんと
お母さんのお友達が来ると、必ず賑やかな時間となって私を楽しませてくれる。お話も、みんなのやり取りも、そして何が一番かって、みんなの楽しそうな顔が、私の心を心地良く踊らせてくれる。まあ、死にそうな顔とか引きつった顔もちょいちょいあるけど、それはご愛敬ということで。
そして、楽しい時間はやがて終わり、みんな帰っていく。そこに残るのはいつも、静かになった家と私たち。そのことを寂しくないと言ったら嘘になる。だけど、悲しいとは思わない。お父さんたちとの楽しい時間は、これで終わりじゃないといつも思えるから。またすぐに、楽しい時間がやってくると信じて疑わないから。
家の中に入ると、お母さんが早々に「パパ、お風呂の準備できてるから、入ってきたら?」と、上機嫌なお父さんに言った。
「ああ、そうする。なんか無駄に疲れまくったからな。今日は」
確かに、お父さんの疲れのかなり多くが、引っ越し作業以外のところにあると私も思うし、きっとそれは、他の人も似たようなものだと思う。無駄な疲れを残していないのは、ずっと観客気分だった私と、笑顔の絶えなかった早苗さんぐらいかな。
お父さんがお風呂に入っている間、お母さんと二人で、段ボールから十七個のだんご大家族を出し、どこに置こうかとあれこれ相談していた。けどなかなか決まらず、お父さんがお風呂から出てきたときもまだ決めることが出来ずにいた。そしたら、右往左往する私たちを見たお風呂上がりのお父さんに、「壮観を遙かに通り越した光景だな……。で、そいつらに襲われでもしてるのか?」と呆れ顔で言われてしまった。
一年に一つ。お母さんの誕生日が来るたびに、お父さんが探し回って買ってくるだんご大家族。それが、今や十七個。これだけあると、さすがに全部をアパートに置くことは出来ない。全部アパートに置こうものなら、それこそだんご大家族しか住めなくなってしまう。というのは大袈裟だけど、素直に笑える冗談でないことは確か。
事実、以前お母さんが「やっぱり、みんなと一緒がいいんですけど」と遠慮がちにお父さんに言ったら、真面目な顔で「却下」と即答されていた。
ということで、アパートには八個だけ置いて、残りはあっきーと早苗さんの家の居候になっている。ちなみに、お母さんは「どれも大切な子たちだから」と言っては、こまめに家と実家を往復して、楽しそうにぬいぐるみを取っ替え引っ替えしていたりする。そんなお母さんの姿を見るたび、子供っぽいなあと思いつつも、我が母親ながらホント可愛い人だなあと私はにやけている。お父さんはというと、やっぱり苦笑していた。
だけど今度の家では、お母さんの念願叶ってついに勢揃い。誰一人欠けることなく、みんな揃って一つ屋根の下。うん。お母さんじゃないけど、なんか気分が良いな。
そしてそのぬいぐるみの配置については、まだまだ決められそうにないから、とりあえず私たちもお風呂に入ってしまいましょうというお母さんの提案で中断し、彼らを部屋の隅に集めて、お母さんと二人でお風呂に入った。
お風呂の広さは目で見て確認はしていたけど、実際に使うと、見ると体感するとではこんなにも違うものなんだとびっくりするぐらい更に広く感じ、浴槽でゆったりと足を伸ばしたときが特に気分爽快だった。これだけ気持ちいいと、さっそく毎日のお風呂が楽しみになってしかたがない。
あまりにも気持ちよかったので、私もお母さんも躊躇うことなく長湯した。
その間、二人でお喋りをしていたのだけど、それがマズかったらしい。のぼせない程度に、という条件だったはずなのに、お風呂から出てからしばらく、私たちはのぼせた頭で火照った体から噴き出る汗と格闘しなければならなかった。
それからしばらく脱衣室で涼み、頭の方ははっきりしてきた。だけど汗は止まらず、拭いても拭いても埒があかないので、それだったらとバスタオルを体に巻いて、湯気で少し曇る脱衣室から出た。その直前、私を制止しようとお母さんが「はしたないですよ」と言ってきたけど、私たちしかいないんだから問題なしと聞き流し、手の平でぱたぱたと仰ぎながら廊下に立った。
うん。こっちの方が遙かに涼める。
と、座敷からお父さんの声が聞こえてきた。
「十七年……か。そりゃあ増えるわけだ……。汐もあんなに大きく育ってんだし」
私はなぜか反射的に、自分の胸元を見てしまった。
自分で言うのも悔しいけど、お世辞でも褒められる代物ではない。まあ、まだ十四歳なんだから、これからこれから。
と自分を納得させるも、
でもあの子、同い年なのに……。
と同学年の女の子を引き合いに不安になり、
むう。私も早苗さんみたいになれるかなあ。
と淡い夢を抱く。
なんて感じで立ち止まっていたら、一度途切れたお父さんの声が、再び聞こえた。そしてその声は、とても優しく、昔を懐かしむよう。
私はなんとなく、声をかけたり物音を立てたりしてお父さんの邪魔をしちゃいけないなと思った。けど、そんなお父さんの姿を、ほんのちょっとでいいから、ほんの一瞬でいいから見たい、という衝動も起こり、私は足音を立てないように座敷に近付き、そっと中を覗き込んだ。
「一番末っ子は……っと、お前だったな」
こちらに背を向けて座っていたお父さんはそう言って、だんご大家族のぬいぐるみの山から一つ手に取った。
「去年のクリスマスに、俺たちの家族の一員になったんだよな。お前を見つけるのに、ほんと苦労したんだぞ? たぶん、お前たちの中で一番苦労させられたんだ」
お父さんはそこでいったん言葉を切り、手に持った末っ子を見つめている。きっと、いろんなこと思い出してるんだ。
そして、「二番目が……」と、末っ子を膝元にちょんと置いて、ぬいぐるみの山に手を伸ばす。
「お前だ。確かお前、俺が見つけたとき、店の奥でしょんぼりしてたよな。俺たちの家族になった感想はどうだ? 俺たちの家族の一員になれて、嬉しいって思ってくれてるか? って、ぬいぐるみに嬉しいもないよな。ははっ」
そこでまた言葉を切り、思いに耽り、その子も膝元に置いて「三番目は……」と手を伸ばす。そんなことが繰り返された。
四番目、五番目、六番目と。そして――。
「お前が、十五番目だ。
お前が家に来たとき、汐はまだ渚のお腹の中にいたんだ。生まれてくるそのときを、待っていたんだ……。
覚えてるか? お前が俺たちの家にやってきたその日のことを。渚が、誕生日プレゼントは毎年だんご大家族がいい、一年に一つずつ増やして、ほんとにだんご大家族になったらいいな、なんて言い出して。最初は、さすがに呆れちまった。どんだけだんごだらけにするつもりだよって。
でも、渚がそう願うなら、俺はそうしてやりたいって思った。一つずつ増やして、あいつを喜ばせてやりたいって。
そして――」
とそこで、お父さんは残り二つをたぐり寄せ、言葉を続けた。でもその声は、それまでの懐かしむようなものではなかった。
「お前たちも見守ってくれていたあの場所で、汐が生まれて、渚が死んで……、そして、俺と汐も死んで……。
あれは、夢でも幻でもない。間違いなく俺たちは一度死んでる。あれは全部、本当にあったこと。それでも今こうして、ろくでなしの最低な父親だった俺のそばに、渚と汐がいてくれてる。俺を、支え続けてくれてるんだ……。
なあ……。
俺は、あの時より少しはマシな人間になれたかな……。
少しはマシな、父親になれているのかな……。
俺は……」
お父さんの声は、そこで途切れた。
私はそんなお父さんの背中に向かって、大声で言いたかった。でも、またいろんな事を思い出しているのかも知れない、それを邪魔してはいけないと思うと、声は出せない。そんな葛藤の中、とても小さな声で「しおちゃん」とやさしく声をかけられた。その声の大きさから、お母さんもお父さんの独り言をそっと聞いていたことが分かる。
私は振り返り、お母さんを見た。
お母さんは、自分の口に人差し指を当てている。お父さんの邪魔をしないようにしましょう、という合図だ。
やっぱり、そうだよね。そう思って、喉まで出かかった言葉を飲み下し、再び部屋の中をそっと覗き込む。すると、お父さんはぬいぐるみを抱いて、こてんと横になっていた。しかも、すうすうという寝息まで聞こえてくる。
どうやら寝てしまったようだ。私は小声で「お母さん、お父さん寝ちゃったみたい」と報告した。
「そう。それじゃあ、パパが風邪引かないように、布団を掛けてあげないとね」
「そうだね」
「それと」
「?」
「しおちゃんも、風邪引かないようにパジャマ着ないとね」
そうだった。すっかり忘れてた。
その後、パジャマに着替えた私は、お父さんにそっと布団を掛けてあげたのだけど、その際、「お父さんは、世界一最高のお父さんだよ」と耳元で囁くことを忘れなかった。本当はもっと大きな声で言いたかったけど、寝てる人の耳元で大声を上げるのは嫌がらせ以外のなにものでもない。だから、大声を出したのは心の中だけ。
そして私は、だんご大家族に囲まれ、三男を抱くお父さんと、末っ子を抱く私と、長男を抱くお母さんとで、川の字になって寝た。
新しい家での、初めての夜。
私は、天井に向かって「これからよろしくね」と心の中で囁き、幸せな気持ちの中で眠りに落ちた。
Episode「引っ越しの日」 -了-




